掘り下げることで見えてくる
ショッピングカートもバス停も知っているが、それが手すりに見えたことはないし、受け入れの表れだと思ったこともない。つまり、ただ長く見るだけでは新しいものは見えない。
ありふれている事物を愚直に、執拗に、丁寧に掘り下げることで初めて得られるものがあると課題文はいう。愚直に執拗に丁寧に、は石川先生がよく言っていることで、ぼくもたまに呪文として唱えることがある。いつか鬼ごっこが手すりに見えるといいのだが。
せっかくガイドブックなのだから、読んで終わりではなく、それに沿って景色を見直してみたい。
たとえばバス停だ。現在はバス停でないがバス停たりえる場所、「バス停ベース」を見つけることができだろうか。
と思って周りを見てみると、逆に「ここはバス停に向いていない」という場所がまず見えてくるようだった。
たとえばここ。そもそも歩道らしい歩道がなく、バス停を設置するのに向いていない。仮に作ったとしても左側は施設の入口で、ここに列が並んだら迷惑をかけるだろう。
ここは、 横断歩道を渡ってすぐのぷっくりと膨らんだ部分が、行列を受け入れるバス停ベースとしてちょうどいいように思う。しかし、実際にはバス停はそこではなく、そのちょっと先にある。
なぜかというと、そこが車の出入口だからだろう。列が並んでいたら、あるいはバスが停まっていたら車が出られない。そう考えると、バス停たりえる場所は意外に限られるのだなと気づいた。
その目で実際のバス停を見ると、これがやはりよくできているのだ。この例だと、後ろは公園で列ができても迷惑はないし、車止めも椅子の役割になっている。
このときには実際のバス停のことを「先輩」と呼ぶメンタリティになっていた。さすが先輩ちゃんとしてますね、という気持ち。
一方で、こんなところにバス停を作ってもいいんだ、という場所にも気がついた。
たとえばここだ。さっきの公園に比べて道幅は狭いし、後ろはお店なので行列したらすこし迷惑だろう。でもさまざまな事情で、バス停は理想的じゃない場所にも作られるのだろう。やんちゃな先輩もいるのだ。
ショッピングカートもバス停も知っているが、それが手すりに見えたことはないし、受け入れの表れだと思ったこともない。つまり、ただ長く見るだけでは新しいものは見えない。
ありふれている事物を愚直に、執拗に、丁寧に掘り下げることで初めて得られるものがあると課題文はいう。愚直に執拗に丁寧に、は石川先生がよく言っていることで、ぼくもたまに呪文として唱えることがある。いつか鬼ごっこが手すりに見えるといいのだが。
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