近代的な洪水吐(こうずいばき)もあるよ
徹底的に整備がなされているとはいえ、見るものが全く無いというワケではない。特に、平成の大改修によって付け加えられた洪水吐は、ダムファンの方々を満足させるに足るるものなのではないかと思う。
洪水吐とは、貯水量が増した際に水を流す為の設備だそうだ。向かって左側が常用の洪水吐、右側が常用でカバーしきれなくなった際に水を流す、非常用洪水吐との事。
いやはや、これでようやく、ダムの紹介記事らしくなった。
これら二つの洪水吐は、狭山池の西側に存在する。街中にあるダムにしては、なかなかダイナミックな光景なのではないだろうか。いや、街中だからこそ、絶対に水が溢れたりしないように、巨大な洪水吐が設けられたのかもしれない。
余談になるが、私はこのような開放された高所の縁に立つと、カメラを落としてしまいそうな錯覚にかられる。手からつるりとカメラが離れ、ぽちゃんと水の中へ消えてしまうような、無意識のうちにそんな想像してしまい、思わずぞっとする。
高所恐怖症の人は高所に立つと、自分がそこから落下する想像をしてしまうと言うが、それと似たようなものだろうか。飛行機とか、ビルとか、閉鎖された高所なら平気なんだけどね。
北側の堤防は古代からの堤体
さて、ここまで狭山池を紹介してきたワケであるが、どうにもまだ、これが古代に作られたダムであるという実感が湧いてこないのではないだろうか。かく言う私もそうである。
そもそも狭山池は、農業用水を確保する為、土を盛って川を堰き止めたのがその起こりである。まず始めに築かれたのが、狭山池北側の堤(つつみ)であるとの事だ。
ご覧の通り、北堤は綺麗に整備されており、また相当に長大な事も相まって、一見するとただの堤防のように見える。コンクリートで作られた、ダムダムしたいかにもなダムとはちょっと違うけれど、これも立派なダムなのだ。
なお、発掘調査によって、この堤の内部から木製の樋が発見されている。それは狭山池から水を取る為のパイプだそうだが、その木材の年輪年代測定によって、狭山池が飛鳥時代の616年頃に作られた事が判明した。
以降、奈良時代に行基(ぎょうき、堺出身の偉い坊さん。この記事の土塔を作った人でもある)が改修したのを皮切りに、度々決壊と改修を繰り返し、今の姿になったそうだ。その歴史は古事記や日本書紀などにも記されているという。
ただ古いだけではなく、時々の事情に併せて改修が続けられ、今も現役で使われている狭山池。その姿は築造当時の頃よりは随分変わっているとは思うけど、古代の遺物が今でも利用されているという点には、なかなかのロマンを感じる。
ところで、聞けば古代のダムは狭山池一つというワケではないらしい。香川県にある満濃池(まんのういけ)もまた、飛鳥時代の建造で、しかも日本最大の面積を誇る溜池だという。私は日本最古が好きだが、日本最大も好きだ。
更なるロマンを求め、私は高速バスのチケットを手配した。