たとえば菓子パンの封を開けて道に置いておく。できるだけ直前に。それを拾って食べる
2015年に拾い食いがヒット
そもそもの発端は2015年の記事『してみよう! 拾い食い』だ。
たとえば菓子パンの封を開けたものを直前に道端に置いて、もう一人がそれを食べるような。安全に拾い食いした体験記である。
体験者の編集部古賀さんのリアクションが爆発したこともあって記事の反響は大きかった。この時点で世の中はどうにかしているのだが。
そこで散見された「私もやってみたい」の声に挑発されて、やれるものならやってみろとばかりに私達はその夏「ひろいぐいツアー」を開催した。
北品川クロモンカフェの夏祭りイベントの一部としてである。定員まで埋まった。2015年折しもの猛暑でカフェもお客さんも暑さでおかしくなっていた。
7~8人が2回にわけて拾い食いをしにいく拾い食いツアー開催
ツアーコンダクターにより誘導されるとその先には
封の開いた菓子パンが落ちていたりする。周囲の「そんなもの食べて大丈夫なのか」という声をよせつけずに食べていく
拾い食いには現実派と夢派がある
拾い食いツアーは7~8人の参加者をコンダクターが連れていって、行く先々に食べ物が落ちている。
一人で来る人もいればお友達や家族で来る人もいた。みんな間違ってて、みんないい。すげーすげー言いながらツアーは好評だった。
さて記事では二人だった体験者が15人になり、新たに気付かされることも出てきた。たとえば拾い食いには2系統ある。リアリティ路線とファンタジー路線である。
ゴミのネットの下にお弁当を置いておくのはリアリティ系
一方道の真ん中にケーキを置いておくのがファンタジー系。夢のようであり、将来の夢というよりデイドリームである
拾い食いは白昼夢のよう
好評だったのがファンタジー系である。道の真中にケーキが落ちているというのが「夢みたい」「ゲームのボーナスステージのようだ」とふだん味わえない感覚だったようだ。
一方のリアリティ系は、それはそれでガツンとしたインパクトがある。特にツナ缶を低い場所に置いておき、猫の餌っぽくするという新たな一手に歓声が上がった。こちらはこちらで「よくそんなものを食うな」という蛮勇さがあるし、やってる方も達成感がある。
リアリティ派の新たな一手、猫の餌っぽいツナ缶。悲鳴に近い声が上がった
大学生の人たちがマネしてみたいという
ツアーを終えて、まったくみんなどうかしてるなと思うものの、こちらも満足感があった。
とはいってもその後も継続して拾い食いをしていたわけではない。ところがある日大学生の方がマネしてみたいというので様子を見に行かせてもらった。
有志が集まって食べ物を置いて食べ合うという会を見せてもらった。なんて間違ったハチミツとクローバーなんだ。
間違った青春が楽しそう…
私はこれを持ってきた、おれはこれだ、と騒ぐ彼女たちはちょっとしたピクニックのようだった。なかでも女の子らが楽しんでいたのは、これは楽しい、お菓子の森のようだねということだった。なるほど、言ってみればヘンゼルとグレーテルも拾い食いだ。
しかし一体どうしてこうなったのか。青少年を間違った方向に導いてやしないか。党内青少年組織の訓練を見つめる独裁者の気持ちである。
土が風で舞うという、かわいそうな終わり方を見せていた。みんな暗い顔することなく笑っていたので青春の力強さを知る
そして今年、環太平洋料理民俗学会という集まりの第一回に呼ばれた。会場は『食べられるミュージアム「風土はfoodから」』という店
おいしさについての講演で拾い食いを話す
拾い食いは2018年になぜか再び盛り上がっていた。環太平洋料理民俗学会というのを立ち上げるから拾い食いについて講演をしてくれと言われたのだ。
私達の拾い食いは「ストリートをお皿にする」ことでもあるのでまあ料理とも言えなくないかな…と思ったらテーマは「おいしそうな人」について話してほしいという。
おいしそうじゃないだろう、拾い食いは。一体この国の気候はどうなってしまったのだろう。2018年もひどく暑くなりそうだ。
拾い食いについて講演してほしいということであった。何かが激しく間違っている
おいしさについての講演で拾い食いを話す
拾い食いの記事から3年。ここで拾い食いそのものについてもう一度考え直すことになった。
そもそもなぜ拾い食いをしてみようと思ったのか。それは「食べちゃダメだよ」という日常の規範を味としてたしかめるという目的があった。
おいしさというのは甘みや酸味や味覚だけにとどまらず、香りや食感、食べにくさも要素となる。となると、それはもう味といっていいのではないか。
拾い食いは「食べてはいけない味」がする。それは日常の規範を味として味わうことである。
道に落ちた鯖寿司を食べてどう思うのか、またどう見えるのかという話をした。私はこういうふざけた話をまじめくさって話すのは得意だった
日常の規範を味わうとは?
たとえばこの3つを考えてみてほしい。
1.1年前から落ちてるパン、酸っぱい味
2.10秒前に開封して落としたパン、普通味
3.普通に食卓で食べるパン
1については本当の拾い食いである。酸っぱくなっていたりしたら身の危険を感じる味。当然やってはいけない。そして私達のやっている拾い食いが2である。3は普通のパン。
はたして2と3に味の違いはあるだろうか。もし2と3の味には違いが出るとしたらその違いこそが日常の規範の味ではないか。
そして実際にやってみるとそこに違いはある。禁忌を破る味というものが存在したのだ。
そもそもなぜ拾い食いをやってはいけないのか考えた。死ぬからという結論になった。だとしたらそこには強い規範、強い味が存在するはずだ
ついに会社の研修として採用された拾い食い
そそしてこの夏、拾い食いワークショップが会社の研修として採用された。木工品や木をテーマにした内装を手がける会社Tree to Greenさんである。どこにも拾って食べている気配はない。
フレキシブルだ育休だ、と新しい会社は自由で度量が大きいなと思っていたが今回はこちらが心配するほどである。
もちろん向こうも拾い食いさせてくれる人を探してたわけではなく、担当者がたまたま拾い食いツアーに参加してたからなのだが「みんなの頭をやわらかくしてほしい」という理由で採用された。
よし、みんなの頭を柔らかくしてついでにお腹の調子とモラルを低下させよう。もうどうなっても知らん。
そしてTree to Green株式会社という「木育」をテーマに木の内装を手がける会社に呼ばれた。どうかしてる
来期の目標と展望を聞きながら、拾い食いを仕込む
拾い食いワークショップの仕込みをしているときに今期の振り返りと来期の展望が社長さんの口から述べられていた。フリーのライターとしては初めて見るものだった。
木工の、というから職人さんがガヤガヤやってるのかと思ったら数字やら国の情勢などを出してめちゃくちゃちゃんとしていた。お茶のラベルを剥がして量を減らし、おしっこ風ペットボトルを作成していた手付きも思わず引き締まった。
会議を聞きながらおしっこ風ペットボトルを仕込んだりする
「これからみなさんに拾い食いをしてもらいます」担当者とその上司以外何も聞かされてなかったらしく、バトルロワイヤルな一言に緊張が走った
拾い食いは他人と仲良くなる魔法である
久しぶりに拾い食いツアーをして気づいたことがある。拾い食いは懇親に最適である。
そもそもお互いにしてはいけないことをさらしあうのだ。秘密を共有しあうのは関係性を縮めたいときに有効だろう。のっけから社長さんがその辺のリポビタンDを飲む。裸の付き合いを超えた野生の付き合いである。
とはいえみんな大人だから拾い食いツアーに出てくれた。「…これは食べられるのかな?」拾い食いワークショップの醍醐味の一つはよーいスタート!で見る目が変わるのだ
お互いを認め合う通過儀礼のような
拾い食いワークショップを始めるにあたって説明がある。「食べ物を見つけたとき私達コンダクターは『これは食べてはいけませんよ』といいますが、それが食べていい合図です」と。
なんでこんなダチョウ倶楽部みたいなことをするのかというと「食べてはいけない」感の演出のためある。
そしてその「食べちゃダメだよ」を乗り越えて食べる者には蛮勇を認められ周りから「すげーな」と賞賛が与えられる。
まるで、とある部族の通過儀礼のようである。成人の証としてバンジージャンプをするようにものを拾って食うのだ。
「それ飲んじゃだめなやつですよ」社長さんが率先して飲んでいて、勇気のある会社だなと思った
落ちてるケーキを食べたり
落ちてる雪見だいふくを食べる
食は共感のツールなので仲良くなる
拾い食いワークショップが仲良くなりやすいのは「食は共感を得やすい」ということもある。
食には言語も使うし、味という身体感覚も共有する。人がデートコースとして「食」を選ぶように、他人と共感しやすいのが「食」である。
「うわー、そのリポビタンD…」「冷えててうまいよ」「ほんとだ、意外といける(笑)」
そんな風に拾い食いを通じて人は仲良くなるのだ。
ファーストフード店のドリンクの中身を移し替えてゴミ箱の隣に置いておくハードなやつ
拾い食いの味は3系統ある
拾い食いをして味として残るものは3系統ある。ダメージをくらうものと笑ってしまうもの、そして興奮するものである。
ダメージと笑ってしまうものは同じ話だ。
たとえば封を開けたてのリポビタンDを拾って飲んだとする。これが冷たいと人は安心して笑ってしまうが、ぬるいと「本物やつかもしれない」とダメージを食らってしまうのだ。
今回は木育を掲げた会社だということで、カブトムシのエサ風に虫かごにゼリーを入れて林に置いておいた
リポビタンDは冷たくないと笑えない
なぜ冷えたリポビタンDが笑えるのか。これは笑いの根本原理で説明がつく。
たとえばいないいないばあである。眼の前のお母さんがいなくなった緊張から、ばあ!とお母さんが帰ってきた安心がある。そのときの身体反応が笑いだ。
拾い食いしてこれは「食べていいやつだ」と確信を得て安心できると笑いが起こる。
一方、木にバナナを網に入れてぶら下げていたりすると本気でカブトムシのトラップかどうかわからなくなり緊張状態のままなのでダメージとなる。
木にカブトムシ用のバナナトラップを仕込んでおく
最後まで本物かどうかわからなかったらしい。安心できないと人は笑顔になれない
興奮の味とは?
さして三系統もう一つの興奮の味。
前回の記事でも体験者古賀さんによる「食べていいんだという味」という言葉が印象に残ったが、これはケーキなどのドリーム系拾い食いの味である。
私達は道端に落ちてるものに対して「食べたい」と思っていたし「食べちゃダメだよ」というルールが働いていたのである。(『ハンター×ハンター』でいうキルアの頭に埋め込まれていたイルミの針のように)
それが取り去られた興奮である。これが根源的な拾い食いの味、日常の規範の味とも言える。
大変だ! 見てるこっちの脳がバグる!
家でチンしてきた舞茸を木の近くに置いておく
前回のツナ缶から進化して、猫用の缶詰をツナ缶に移し替えたもの
「食べてはダメ(食べていいやつ)ですよ」と言ってるが、おそるおそる…
なぜか私も、私も、と大人気であった
拾い食いワークショップで社の結束を高めよう
こうして写真を見返してみると「どうかしてる」としか言えないものばかりだが、現実は考えるより奇妙なものだ。偶然に偶然がかさなって、会社で拾い食いをしたりする。せめて言い出しっぺとして精一杯応えるだけである。
私達が暮らしている日常とはガチガチの強固な規範が仕込まれてて、そのおかげで安全に滞りなく暮らしていける。しかしたまには日常にフェイントをかけて裏をかいていくべきではないだろうか。
その向こう側を知った者はもう大人である。バンジージャンプを飛んだ者には賞賛が与えられる。
そして私達は盗み食いワークショップもすでに開催している…!!
ライターからのお知らせ
拾い食いみたいなおもしろい企画考えたんです。映画とかで人が死んで「あ、これがラストシーンだな…」と思ったらそのあとで夕日が上ったりして「あ、これがラストシーンか…」と思ったらまだつづく。
そんな「まだ終わらないのか」系物語として、60分ずっとラストシーンのお芝居をしたらいいんじゃないかと思ったんですよ。
ということで小劇場界隈で抜群の才能を見せるお二人の芝居、昇悟と純子『ラストシーン』を作演出しました。最初っからラストシーンだからずっと泣いて叫んで笑ってます。
7/25から分不相応に7回公演しますのでぜひ見に来てください。トークゲストに阿佐ヶ谷姉妹さんが来たりもします。
昇悟と純子『ラストシーン』
日時:
7/25(水)19:30★
7/26(木)14:00★/19:30★
7/27(金)19:30★
7/28(土)14:00/19:00★
7/29(日)14:00(★回はアフタートークあり)
会場:SCOOL(三鷹)
料金:前売2,500円 当日3,000円(日程変更は空席あれば受付ます)
https://t.livepocket.jp/t/lastscene
デザインは大伴亮介さん(書き出し小説の常連でもあります)