とまぁ、平戸島では春日集落と安満岳、中江ノ島が世界遺産となる。教会堂など見た目に分かりやすいモニュメントがないので一見しただけではカトリックに結び付かないが、もっとも禁教期はキリシタンとバレてはならなかったわけで、そういう意味では江戸時代のままだと言える。禁教期から変わらない雰囲気を体感できる、スゴイ棚田の集落だ。
紆余曲折あった世界遺産候補
「長崎の教会群」に関しては、2007年から2014年にかけて長崎在住の当サイトライターT・斎藤さんがすべての構成資産を訪れて記事にされている。


今改めてT・斎藤さんの教会巡りを拝読すると、その候補資産は一定ではなくたびたび入れ替わっていたことが分かる。今年ようやく世界遺産になるまで実に紆余曲折があったのだ。
中でも推薦方針の大転換を図るきっかけとなったのは、「長崎の教会群」として推薦された後の2016年、ICOMOS(イコモス、文化遺産を評価する機関)から「構成資産を禁教令時代に特化すべき」と指摘されたことによる。
世界遺産になるには、唯一無二の存在であることが求められる。「長崎の教会群」は禁教令が解けた後の明治から昭和初期にかけて建てられた比較的新しい教会がほとんど。もっと歴史のある教会が世界中にゴロゴロ存在する中、それらに抜きんでた価値を証明するのは難しかった。
中でも推薦方針の大転換を図るきっかけとなったのは、「長崎の教会群」として推薦された後の2016年、ICOMOS(イコモス、文化遺産を評価する機関)から「構成資産を禁教令時代に特化すべき」と指摘されたことによる。
世界遺産になるには、唯一無二の存在であることが求められる。「長崎の教会群」は禁教令が解けた後の明治から昭和初期にかけて建てられた比較的新しい教会がほとんど。もっと歴史のある教会が世界中にゴロゴロ存在する中、それらに抜きんでた価値を証明するのは難しかった。


教会建築として世界遺産になるには、こういうのとか(インド「ゴアの教会群と修道院群」ス・カテドラル)


こういうの(「フィリピンのバロック様式教会群」パオアイのサン・オウガスチン教会)とかと比べて負けずとも劣らない価値を証明しなければならない

一方でICOMOSに高く評価されたのが、キリスト教の伝来から禁教期を経て信仰の復活を遂げた「潜伏キリシタン」の歴史である。そこで構成資産を潜伏キリシタンに関連するもの、すなわち禁教期に潜伏キリシタンが暮らしていた集落に改め、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(以下「潜伏キリシタン関連遺産」)という名称で再推薦されたのだ。


平戸島対岸の田平地区にある田平天主堂。カッコ良い教会ではあるものの、明治時代に新規開拓された土地にあることから「潜伏キリシタン関連遺産」では除外された

とまぁ、大幅に見直されて計12件となった「潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産であるが、「長崎の教会群」から変更されなかった物件も存在する。南島原市の「原城跡」と、長崎市の「大浦天主堂」だ。
原城跡は江戸幕府による禁教令が発せられるきっかけの一つとなった「島原の乱」の舞台であり、また幕末の元治2年(1865年)に建てられた大浦天主堂は潜伏キリシタンがプチジャン神父に信仰を打ち明けた、「信徒発見」の舞台である。禁教期の始まりと終わりの地、潜伏キリシタンの歴史に深く関わる存在であることから続投と相成った。
原城跡は江戸幕府による禁教令が発せられるきっかけの一つとなった「島原の乱」の舞台であり、また幕末の元治2年(1865年)に建てられた大浦天主堂は潜伏キリシタンがプチジャン神父に信仰を打ち明けた、「信徒発見」の舞台である。禁教期の始まりと終わりの地、潜伏キリシタンの歴史に深く関わる存在であることから続投と相成った。


島原の乱において、一揆軍が最終的に立てこもった「原城跡」


幕末の元治2年(1865年)、外国人居住者の為に築かれた大浦天主堂。日本に現存する最古の教会堂で、国宝に指定されている

さて前置きが長くなってしまったが、いよいよこの世界遺産の主体である潜伏キリシタンの集落を見てみよう。


【「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産】

・原城跡
・平戸島の聖地と集落(春日集落と安満岳・中江ノ島)
・天草の﨑津集落
・外海の出津集落
・外海の大野集落
・黒島の集落
・久賀島の集落
・奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
・頭ヶ島の集落
・野崎島の集落跡
・大浦天主堂
・平戸島の聖地と集落(春日集落と安満岳・中江ノ島)
・天草の﨑津集落
・外海の出津集落
・外海の大野集落
・黒島の集落
・久賀島の集落
・奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
・頭ヶ島の集落
・野崎島の集落跡
・大浦天主堂




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平戸島の聖地と集落(春日集落と安満岳・中江ノ島)


岐阜県と富山県にまたがって存在する「白川郷・五箇山の合掌造り集落」など、世界遺産になっている集落は世界に数多く存在する。しかしながら、それらは歴史ある建造物が数多く残る集落だったり、合掌造りのように特異な集落形態が評価されている所がほとんどだ。
一方で「潜伏キリシタン関連遺産」の集落は、潜伏キリシタンが住んでいたという歴史が評価されたわけで、集落自体は割と普通な感じである。この春日集落も、目に見える範囲ではごく普通の田舎にある集落だ(家の中には聖画像を祀る納戸神など潜伏キリシタン集落ならではのモノもあるらしい)。
一方で「潜伏キリシタン関連遺産」の集落は、潜伏キリシタンが住んでいたという歴史が評価されたわけで、集落自体は割と普通な感じである。この春日集落も、目に見える範囲ではごく普通の田舎にある集落だ(家の中には聖画像を祀る納戸神など潜伏キリシタン集落ならではのモノもあるらしい)。


住んでいる人の信仰に関わらず、作られる集落景観は変わらない


集落の入口には三界万霊碑と石仏が並んでいるが、これは仏教徒を装う為のものらしい

平戸島は天文19年(1550年)にポルトガル船が来航してから南蛮貿易の港町として栄え、その際にカトリックが布教された。春日集落を含む平戸西部は籠手田安経(こてだやすつね)という武将が治めていたのだが、安経が洗礼を受けてキリシタンとなったことにより、住民もまた一斉に改宗した次第である。
しかし平戸藩主の松浦隆信(まつらたかのぶ)はキリシタンをあまり良く思ってはおらず、天正15年(1587年)の豊臣秀吉によるバテレン追放令をきっかけにキリシタンの弾圧を開始、その跡を継いだ松浦鎮信(まつらしげのぶ)が家臣に棄教を命じたことにより籠手田氏は長崎へ出奔し住民だけが残された。
なお、春日集落の南に位置する谷筋には広大な棚田が築かれており「春日の棚田」として知られている。江戸時代に平戸藩が水田の整備を推奨したことにより拓かれたもので、海岸から標高150m付近まで一気に連なる棚田は壮観である。
しかし平戸藩主の松浦隆信(まつらたかのぶ)はキリシタンをあまり良く思ってはおらず、天正15年(1587年)の豊臣秀吉によるバテレン追放令をきっかけにキリシタンの弾圧を開始、その跡を継いだ松浦鎮信(まつらしげのぶ)が家臣に棄教を命じたことにより籠手田氏は長崎へ出奔し住民だけが残された。
なお、春日集落の南に位置する谷筋には広大な棚田が築かれており「春日の棚田」として知られている。江戸時代に平戸藩が水田の整備を推奨したことにより拓かれたもので、海岸から標高150m付近まで一気に連なる棚田は壮観である。


禁教期に春日集落の人々が築き上げた棚田、凄い眺めだ


江戸時代の絵図と比べてもあまり変化がなく、禁教期の景観が保たれているという


石積の技術は、向かいに浮かぶ生月島からもたらされたそうだ

この見事な棚田の中央付近には「丸尾山」と呼ばれるちょっとした丘が存在する。その頂上からは仏教式とは異なる様式で埋葬されたキリシタン墓地が発掘されており、現在も集落の聖地として毎年12月に神事が執り行われるという。


棚田の中にこんもり鎮座する丸尾山、確かに聖地にしたくなるような特徴的な地形だ

潜伏キリシタンの集落なのに神事? と疑問に思うかもしれないが、長きに渡る禁教期の中で信仰は徐々に変化していき、日本古来の宗教観と結び付くなどして本来の教義から解離していった。春日集落では禁教令が解けた後もカトリックに復帰せず、いわゆる「カクレキリシタン」と呼ばれる独自の信仰を続けていき、後に仏教や神道に吸収されたという経緯がある。故に、現在の春日集落には教会堂の類は存在しない。
また春日集落の裏手には平戸島の最高峰である「安満岳(やすまんだけ)」が聳え立っている。古来より山岳信仰の対象とされてきた山なのだが、春日集落など平戸島の潜伏キリシタンもまた安満岳を聖地とみなし、山頂の祠を参拝していたという。
また春日集落の裏手には平戸島の最高峰である「安満岳(やすまんだけ)」が聳え立っている。古来より山岳信仰の対象とされてきた山なのだが、春日集落など平戸島の潜伏キリシタンもまた安満岳を聖地とみなし、山頂の祠を参拝していたという。


春日の棚田から安満岳へ続く登山道の名残り


でも私はバイクで山頂付近まで行き、そこから参道を登る


30分ほどで白山神社に到着。写真を撮り忘れてしまったが、この社殿の裏手にキリシタン祠が存在する(T・斎藤さんの記事には写真があるのでそちらをご覧ください)

安満岳の北方には中江ノ島という無人島が浮かんでいるのだが、かつてキリシタンの処刑が行われた殉教地としてこの島もまた信仰の対象となっている。中江ノ島の湧き水は聖水とされ、洗礼など様々な儀式に使用されていたそうだ。


潜伏キリシタンから「サンジュワン様」と呼ばれ、崇められてきた中江ノ島




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天草の﨑津集落


お次は長崎市の南東、熊本県の天草下島にある﨑津集落だ。複雑に入り組んだリアス式海岸の羊角湾に面した港町で、集落の中心部分が世界遺産の範囲である。


海に面したロケーションが素晴らしい


素朴ながら味わいのあるたたずまいの集落だ

天草にカトリックが広まったのは永禄9年(1566年)、天草下島の南部を治めていた天草久種(あまくさひさたね)が南蛮貿易の見返りとして宣教師に布教を許可したことによる。羊角湾の最奥部である河浦地区には天草コレジヨ(神学校)が築かれ、羊角湾は天草におけるキリスト教文化の中心地となった。
禁教期に入ると﨑津集落の人々は寺院に属し、また﨑津諏訪神社の氏子でもあった。一方で十字架やメダイ(聖人を描いたメダル)を隠し持ち、アワビなど貝の模様が聖母マリアに見えるものを集め、聖遺物として信仰を続けていった。庄屋の家では踏絵が行われていたものの、拒否せずに足の裏に紙を張ったり、後で懺悔することで禁教期を乗り切ったという。
禁教期に入ると﨑津集落の人々は寺院に属し、また﨑津諏訪神社の氏子でもあった。一方で十字架やメダイ(聖人を描いたメダル)を隠し持ち、アワビなど貝の模様が聖母マリアに見えるものを集め、聖遺物として信仰を続けていった。庄屋の家では踏絵が行われていたものの、拒否せずに足の裏に紙を張ったり、後で懺悔することで禁教期を乗り切ったという。


現在の教会堂は踏絵を行っていた庄屋の住宅跡に建てられたという


江戸時代の絵図にも見られる﨑津諏訪神社、住民は参拝する際に「あんめんりうす(アーメン・デウス)」と唱えてたそうだ


土地の狭い﨑津集落では昔から「カケ」と呼ばれる足場を海に張り出し、作業用のスペースを確保している


各家の間には「トウヤ」と呼ばれる小路が設けられており、通りから直接「カケ」に出ることができるようになっているのだ

護岸は石積みで築かれており、これまた江戸時代の絵図と変わっていない。一見地味な漁村に見えても随所に伝統的な土地利用の在り方を残している、シブイ漁業の集落だ。


世界遺産の範囲外ではあるが、高台には墓石に十字架を乗せた墓地が築かれている

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外海の出津集落


今度は長崎市中心部から北に30kmほど、西彼杵(にしそのぎ)半島の外海(そとめ)地域にある出津(しつ)集落だ。外海は元亀2年(1571年)にカトリックが伝わり、宣教師による布教が進んだ地域である。
禁教期には仏教寺院に属しつつも「組」と呼ばれる組織を築いて信仰を続け、またヨーロッパから伝わった聖画像やメダイ、日本人が描いた聖画像、イナッショ様と呼ばれる宣教師ヨロラに見立てた仙人像などを隠し持ち、密かに拝んでいたという。
禁教期には仏教寺院に属しつつも「組」と呼ばれる組織を築いて信仰を続け、またヨーロッパから伝わった聖画像やメダイ、日本人が描いた聖画像、イナッショ様と呼ばれる宣教師ヨロラに見立てた仙人像などを隠し持ち、密かに拝んでいたという。


高い石垣の上に築かれた立派な家屋が目立つ、出津集落の風景


外海地域に赴任したフランス人宣教師のド・ロ神父が明治16年(1883)に創建した女性の為の福祉施設「旧出津救助院」である

この「旧出津救助院」は「出津教会堂」と共に「長崎の教会群」の時の世界遺産候補であり、T・斎藤さんの記事でも取り上げられているので詳しくはそちらをご参照いただきたい。潜伏キリシタンの集落としてフィーチャーすべきなのは、石積の技術である。
「旧出津救助院」を囲む壁は、ド・ロ神父が考案した「ド・ロ壁」と呼ばれる工法で築かれていることで有名だ。しかしながら、外海地域では昔から石積の技術が発達しており、石の間に赤土と藁すさを練りこんだ「ネリベイ」の壁や家屋が建てられていた。「ド・ロ壁」は藁すさの代わりに石灰を混ぜて強度を増したもので、ベースとなった石積技術は外海古来のものなのだ。
「旧出津救助院」を囲む壁は、ド・ロ神父が考案した「ド・ロ壁」と呼ばれる工法で築かれていることで有名だ。しかしながら、外海地域では昔から石積の技術が発達しており、石の間に赤土と藁すさを練りこんだ「ネリベイ」の壁や家屋が建てられていた。「ド・ロ壁」は藁すさの代わりに石灰を混ぜて強度を増したもので、ベースとなった石積技術は外海古来のものなのだ。


旧出津救助院から出津教会堂には石積で築かれた耕作地が広がっている


集落内には石積で壁を築いた素敵な家屋も残っている


こちらは出津において禁教期に潜伏キリシタンの中心的な集落であった野中集落


こちらは野中集落を一望できる野道共同墓地。世界遺産の範囲外ではあるものの、結晶片岩で築かれたキリシタン墓地が密に並んでいて雰囲気がすごい

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外海の大野集落


外海地域にはもう一つ、世界遺産になる集落が存在する。出津から北へ4kmほど行ったところにある大野集落だ。


海に面した斜面に家屋が築かれている、小さな集落だ

この大野集落には「大野神社」「門(かど)神社」「辻神社」の三つの神社が存在する。ここの潜伏キリシタンは大野神社の氏子として振る舞い、また「門神社」と「辻神社」には自分たちの信仰の対象を密かに祀り、信仰の場にしていたという。


大野集落全体の守り神として古くから祀られていた大野神社


より集落に近い門神社では「島原の乱」から逃れてきた本田敏光(ほんだよしみつ)というキリシタンを「サンジュワン様」として祀っている

この二つの神社はアクセスしやすい位置にあるが、最後の辻神社は集落の一番高所にある。せっかくなのですべての神社を見ようと集落内の小路をえっちらほっちら登っていくと、やがて見事な石積が私の前に現れた。


里道に沿って立派な石積が連なっており、まるで城郭のようだ

出津集落と同様、大野集落もまた昔から石積によって居住地や耕作地を築いてきた。現在は耕作放棄地となっている部分も少なくないようではあるが、その遺跡然とした雰囲気がむしろ集落が経てきた歴史を感じられる。出津集落も大野集落も、実にカッコイイ石積の集落だ。


急傾斜の里道を登り切り、ようやく辻神社に到着


社殿の脇にはなんともかわいらしい道祖神が祀られていた



さて、これまで4つの潜伏キリシタン集落を見てきたわけだが、実はこれらの集落には共通点がある。いずれも戦国時代にカトリックが伝来し、その地で禁教期を耐えて、明治時代を迎えたことである。
一方で次のページから紹介する5つの集落は、江戸時代後期に弾圧から逃れるべく、外海地域から島嶼部に移り住んだ人々の集落だ。
一方で次のページから紹介する5つの集落は、江戸時代後期に弾圧から逃れるべく、外海地域から島嶼部に移り住んだ人々の集落だ。

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黒島の集落


島嶼部に位置する潜伏キリシタン集落のうち、まず始めは佐世保の沖合に浮かぶ黒島である。この島には複数のカトリック集落が存在しており、それ以外の仏教徒集落も含めて島全体がまるごと世界遺産になる。


島の大部分が鬱蒼とした木々に覆われており、海から見ると確かに黒く見える島だ(天気が悪かっただけかもしれないけど)


港のすぐ上に存在するのは、黒島最古の集落であり主に仏教徒が暮らしている本村(ほんむら)集落である。家屋が密集する「集村」であるのが特徴だ

江戸時代を通じて平戸藩の領土であった黒島には、本村と古里の2つの仏教徒集落が存在するほか、軍馬を育成する為の牧場が置かれていた。江戸時代後期になると開拓を優先する平戸藩の方針により牧場が廃止され、その跡地に外海地域の潜伏キリシタンが開拓民として移住してきた。


カトリック集落である蕨(わらべ)。家屋の前に防風林を築き、その背後を耕作地とする土地利用の在り方が特徴的だ

集落というには家が一軒しかないように見えるが、これは仏教徒集落は家屋が密集する「集村」なのに対し、カトリック集落は家屋が各所にバラける「散村」である為だ。移住元にあった分家の習慣が黒島に持ち込まれたことによるという。


立派な石垣を持つ田代集落の民家。石積の技術もまた外海からもたらされた


移住時に防風林とした植えられたという根谷集落のアコウ。今では非常に立派……というか禍々しく見えるほどに成長している


昔から祝い事の時などに作られてきた黒島名物「ふくれ饅頭」。黒島が育成北限であるサツマサンキライの葉を使っている


明治35年(1902年)に島の中心である名切集落に築かれた黒島天主堂は、2018年11月から2年間の修復工事に入り、外部も内部も見れなくなるとのこと



うーむ、海から見た時の印象と同じく、実に緑あふれたワイルドな島である。本土よりも暖かい気候ということで南国的が植物が島を覆うように茂っており、急峻な地形も相まって、なるほどひっそり隠れ住むのにピッタリな島ではないか。

久賀島の集落


お次は五島列島の久賀(ひさか)島である。この島も黒島と同様、カトリック集落および仏教徒集落を含む島の全体が世界遺産になる。


久賀湾が大きく切り込んでいる、馬蹄形の地形が特徴的な島だ

この久賀島はかつて五島藩に属しており、江戸時代後期における五島藩の開拓移民政策によって、外海地域から潜伏キリシタンが移住してきた。
移住者は仏教徒集落の縁辺部、あるいは隔絶された場所に集落を築いたものの、土地が険しくて自力での開墾が困難であったことから、既存の水田に隣接して新たな水田を築いたり、農業や漁業を手伝うなど、仏教徒との相互扶助の関係を築いて生活していったという。
移住者は仏教徒集落の縁辺部、あるいは隔絶された場所に集落を築いたものの、土地が険しくて自力での開墾が困難であったことから、既存の水田に隣接して新たな水田を築いたり、農業や漁業を手伝うなど、仏教徒との相互扶助の関係を築いて生活していったという。


島の内側は比較的なだらかで、水田や棚田が広がっている


中心集落にある重厚な石壁が素敵な「藤原邸」は久賀島のガイダンスセンターだ


一方で島の外側は地形が険しく、カトリック集落である五輪集落までは細い山道を乗り越えてやっとこさたどり着く(この集落には重要文化財の旧五輪教会堂が存在する)


山を少し上った所にある五輪墓地、あまりに独特すぎる雰囲気に思わず息を呑んだ


小石を葺いたものは禁教期の墓で、墓碑があるのは禁教が解けた後の墓だ



いやはや、これは凄い墓地である。石を積み上げただけの墳墓には当然ながら墓碑銘を刻むことなどできず、近しい親族でないと埋葬者が分からないようになっていたという。
これまで潜伏キリシタンの集落を訪ねてきたものの、禁教期における潜伏キリシタンの生活を明確に示す物証は少なく、イマイチピンと来ていなかった節がある。しかしながら、こうしてお墓も満足に立てられなかった事実を突きつけられると、当時の苦労が実感できるというものである。
久賀島に行った際には、旧五輪教会堂のみならずこの墓地も必ず見てもらいたいものだ。
これまで潜伏キリシタンの集落を訪ねてきたものの、禁教期における潜伏キリシタンの生活を明確に示す物証は少なく、イマイチピンと来ていなかった節がある。しかしながら、こうしてお墓も満足に立てられなかった事実を突きつけられると、当時の苦労が実感できるというものである。
久賀島に行った際には、旧五輪教会堂のみならずこの墓地も必ず見てもらいたいものだ。

奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)


続くは久賀島の東隣に位置する奈留島だ。ここは島全体ではなく、北東部の海岸沿いに位置する江上集落のみが世界遺産となっている。「江上天主堂とその周辺」という副題がいささか妙に感じたものの、現地に行ったらその意味が理解できた。


江上天主堂と――


その周辺(旧江上小学校跡地)

この二枚の写真が世界遺産となるおおむねの範囲である。この江上が集落として栄えていたのはもはや昔のこと。今では集落と言えるほどの家はなく……いや、しかし、住民はいるので集落“跡”ではない。その微妙なラインの瀬戸際で、「江上天主堂とその周辺」という副題が付けられたのではないかと思う。


世界遺産の範囲に含まれている家屋は、この屋根の抜け落ちた廃墟と――


こちらのお宅は……住んでる方がおられる? うーん、どうだろう

衛星写真を見ると旧江上小学校の裏手にも数件の家屋があるようだが、まぁ、それが江上集落のすべてである。
黒島や久賀島の潜伏キリシタン集落と同様、江上集落もまた江戸時代後期に外海地域の潜伏キリシタンが移住してできた集落だ。湧き水の豊富な谷間に位置しており、僅かな平地に畑や水田を築いて生活していた。
その後、畑であった場所に江上天主堂が建てられ、水田であった平地には江上小学校が築かれた。現在、江上小学校は廃校となり、ひと気の少ない集落には江上天主堂がたたずむのみだ。
黒島や久賀島の潜伏キリシタン集落と同様、江上集落もまた江戸時代後期に外海地域の潜伏キリシタンが移住してできた集落だ。湧き水の豊富な谷間に位置しており、僅かな平地に畑や水田を築いて生活していた。
その後、畑であった場所に江上天主堂が建てられ、水田であった平地には江上小学校が築かれた。現在、江上小学校は廃校となり、ひと気の少ない集落には江上天主堂がたたずむのみだ。


5月から江上天主堂の内部拝観ができなくなってしまい、不貞腐れながら周囲を散策する


お、教会堂の裏手で湧き水を発見! 聖水として利用されていたのだろうか、隠れたお宝を発見した気分で盛り上がった

頭ヶ島の集落


さぁ、残る潜伏キリシタン集落は二箇所。五島列島の主要島のうち最も東に位置する中通島、その北東に浮かぶ頭ヶ島(かしらがしま)のうち、上五島空港のある東部を除いた範囲が世界遺産になる。


白浜集落にある頭ヶ島天主堂は、稀有な石造の教会堂として重要文化財に指定されている


白浜集落の全景。これでも頭ヶ島で一番大きな集落で、他の住民は島内の各所に分散して暮らしている


私が訪れた5月中旬はマツバギクのシーズン真っただ中。白砂のキリシタン墓地にピンク色の花が咲き乱れ、この世のものではないくらい美しい眺めであった

頭ヶ島は永らく定住者のいない無人島であり、江戸時代後期には病人の療養所として利用されていた。安政5年(1858年)に久賀島から渡ってきた前田儀太夫が開拓目的で頭ヶ島に入り、中通島の鯛ノ浦の住民を開拓民として移住させたのだが、この人々が実は外海地域から移ってきた潜伏キリシタンであった。
病気の療養所であった頭ヶ島には近付く人がおらず、また潜伏キリシタンたちは仏教徒である儀太夫と行動を共にすることで弾圧から逃れることができた。頭ヶ島の地形は険しいものの、外海地域の石積技術を駆使して段々畑を築き、イモを栽培して生活していたという。実にたくましい人々だ。
病気の療養所であった頭ヶ島には近付く人がおらず、また潜伏キリシタンたちは仏教徒である儀太夫と行動を共にすることで弾圧から逃れることができた。頭ヶ島の地形は険しいものの、外海地域の石積技術を駆使して段々畑を築き、イモを栽培して生活していたという。実にたくましい人々だ。

野崎島の集落跡


最後は中通島の北方、小値賀(おぢか)諸島に属する野崎島だ。集落“跡”という表記からも分かる通り、現在の野崎島は実質の無人島となっている。その島内全域が世界遺産となる。
野崎島の廃墟っぷりはT・斎藤さんもレポートされていたが、実際に行ってみるとその迫力と生々しさに驚かされた。個人的には長崎市の沖合に浮かぶ端島(軍艦島)に並ぶくらいのインパクトである。
野崎島の廃墟っぷりはT・斎藤さんもレポートされていたが、実際に行ってみるとその迫力と生々しさに驚かされた。個人的には長崎市の沖合に浮かぶ端島(軍艦島)に並ぶくらいのインパクトである。


野崎島最古の集落にして最後の集落でもあった野崎集落


集落の守り神であった神社も……無常である

野崎島北部の山の上には「王位石(おえいし)」と呼ばれる巨岩が存在する。古代から海上安全祈願の御神体として信仰されており、その根元には「沖ノ神島(おきのこうじま)神社」が鎮座する。(なお、王位石に関してもT・斎藤さんが記事にされているので、詳しくはそちらをご参照ください→「無人島にある日本版ストーンヘンジ『王位石』の謎」)


平成13年(2001年)まで野崎島に残っていた、沖ノ神島神社の神主邸

廃墟となった野崎集落において、唯一、この家だけが保存されている。倒壊した家々に囲まれる中、修理されてピカピカの姿になった神主邸はなんとも不思議な印象だ。
神主さんの住居があることからも分かる通り、この野崎集落には古くより沖ノ神島神社の氏子が住んでいた。その周囲は比較的平坦な土地が広がっており、地形の険しい野崎島においては住みやすい場所であったことが分かる。
神主さんの住居があることからも分かる通り、この野崎集落には古くより沖ノ神島神社の氏子が住んでいた。その周囲は比較的平坦な土地が広がっており、地形の険しい野崎島においては住みやすい場所であったことが分かる。


今では畑の石垣が崩れ、土砂が流れ出している


潜伏キリシタンの集落ではないので、墓地に並ぶ墓石は全て和式だ

神の島である野崎島に潜伏キリシタンが移住してきたのは、やはり江戸時代後期のことだ。1800年頃に外海地域から五島列島に移住した潜伏キリシタンが、野崎島に再移住してきて島の中央部に野首集落を築いた。また1840年頃にも外海地域から潜伏キリシタンが移住してきて島の南端に舟森集落を築いている。
この二つの集落に住む潜伏キリシタンたちは、沖ノ神島神社の氏子を装うことで弾圧から逃れていた。王位石が鎮座する神の島だからこそ、禁教の目をかいくぐることができたのだ。
この二つの集落に住む潜伏キリシタンたちは、沖ノ神島神社の氏子を装うことで弾圧から逃れていた。王位石が鎮座する神の島だからこそ、禁教の目をかいくぐることができたのだ。


この御神体があるからこそ潜伏キリシタンは移住してきたわけで、王位石もまた重要な構成要素と言える(なので、せっかく野崎島に行くなら王位石トレッキングツアーに参加するのが良いと思います)

その後、高度経済成長期の集団移住によって昭和41年(1966年)に舟森集落が廃村となり、また昭和46年(1971年)に野首集落が廃村となった。


潜伏キリシタンが住んでいた野首集落跡。現在は旧野首教会堂と旧野崎小中学校(を利用した宿泊施設)が残るのみだ


傾斜地に石積を積み上げて平地を作り、家屋や畑を築いていた


しかし石積もだいぶ崩壊が進んでいる

まだ廃墟として家屋が残る野崎集落よりも遺跡感が強いが、それでも家屋の跡には瓦や割れた壺、生活用品の残骸が散乱しており、かつてはここに住む人々がいたことを伝えている。今では一面が芝生に覆われ、野生鹿の楽園と化している野崎島。非日常感たっぷりな、スペクタクルな集落跡である。


野崎ダムのほとりにポツンとたたずむカトリック墓地、哀愁である




集落ごとのユニークな景観を楽しもう

今回世界遺産になる潜伏キリシタン集落を周ってみたが、集落と一言でいっても農村あり、漁村あり、廃村ありと、実にバリエーションが豊かで多種多彩な集落景観を見ることができた。
人の目を引き付けやすい教会堂がシンボル的な存在になるのは自然なことなのだけど、地形や気候に合わせた集落を築き、仏教や神道を利用して禁教期を生き延びた潜伏キリシタンの歴史にこそ、世界遺産たる価値の本質があるのだということを忘れないようにしたい。
人の目を引き付けやすい教会堂がシンボル的な存在になるのは自然なことなのだけど、地形や気候に合わせた集落を築き、仏教や神道を利用して禁教期を生き延びた潜伏キリシタンの歴史にこそ、世界遺産たる価値の本質があるのだということを忘れないようにしたい。


ちなみに野崎島もうひとつの潜伏キリシタン集落である舟森集落跡は、トレッキングツアーがある他、帰りの船から見ることができます



