シロアリに首ったけ
デイリーポータルZでは大山さんが
「かわいいビル」をたびたび記事にしている。
登場するいい感じのビル達を見ながら「あそこで見たあのビルよかったなあ」とか「落ちこんだ時、あのビルに勇気づけられたよなあ」とか様々な思いが湧き上がる。
人は誰しも心のどこかに自分なりのいいビルを抱いて生きているのではないか。
日常や旅先で、いいビルに出会った時の喜びは格別だが、そのなかでもやばいくらい私の琴線にハードタッチしてきた逸品があった。
その名は「永田シロアリビル」
なんじゃこれは!
9年ほど前に鹿児島の天文館の夜景に浮かび上がった巨大シロアリに圧倒された。同行者達に気を使いサクッと写真を撮るにとどめたが、その衝撃のおかげで他にどこに行ったかよくおぼえていないほど。
他に行ったのは指宿の「日本最古の井戸」とかだった。しぶいな。
実は先述した生粋のビル好き人(にん)の大山さんはご祖父母の家が鹿児島にある関係でシロアリビルの存在を知っていた。
大山さんいわく「鹿児島を代表する
共食いキャラ」(撮影:大山顕)
やはり現地では結構有名で、待ち合わせや撮影スポットなんかになっているようだが会社自体の情報はよくわからず謎に包まれている。
なかなか再訪できずヘラヘラ日常を送っていた時に知ったのは
天文館再開発のニュースだ。
再開発の区画には永田シロアリビルも含まれていた。新しい複合ビル建設のために周辺の建物も含めて解体されてしまうという。ぐわあ、なんという事だ。
出会いから9年を経て、私はインターネットにささやかな記事を執筆する身となった。あのシロアリをより輪郭の濃い記録として残したい。解体工事の着工予定は今年の冬だって、じゃあいつ行くの、今でしょ。
で、天文館に来ました。
パチンコ屋みたいなモスバーガー発見。
「はいから通り」おれがこれから会うのはシロアリなのだ。
なんかもったいぶって繁華街の巨大アーケード群をしばらく彷徨した後、ついにシロアリビルと再会を果たした。
どすん、相変わらずの存在感。
昼間の明るさの中で見ると、あらためてこのビルのただならぬ気配が引き立っている。しかしただ奇抜なのでなく、なんかことごとく、あしらいが素晴らしいのだ。
シロアリのデフォルメが絶妙。すこし斜めにして動きをつけてるのもいい。
レンガ色の壁をくり抜く黒い円におさまって、木材に巣食っているようにも見えるシロアリさんはただの壁画ではない。浮いてるんですよ、ぴよんとこっち側に。で、背景は少しへこんでてそれがまたよくて、っていうか近寄ったほうが早いね。
シロアリさん用照明もふんだんに用意されている。
「永田シロアリ」の書体も見れば見るほど味わい深い。
モダン系書体にほのかににじみ出る個性。スタンドマイクでポーズ決めてるみたいな「永」いいなあ。ロックスターだ。
シロアリの他に、絶大なるインパクトを発信しているのが正面入口のシャッターだ。
殺し屋参上!
暮らしの中で参上されたら一番困る職種である。あくまでシロアリにとっての殺し屋で、従業員が銃を携帯している上にスイス銀行に口座を持っていて、後ろに立つと殴られるとかそういうわけではないのだろう。
しかも登録商標て!
殺し屋のルーツを聞いちゃおう
いいというか良すぎるビルをしっとりと鑑賞したが今回の目的はこれだけではない。このビルのオーナー会社である(株)永田シロアリ研究所に取材をお願いしていたのだ。
近くの薬屋の「ご自由にお持ちください」をながめていたらおばあさんに「これ持ってく人なんかいるのかねぇー」と話しかけられた。そ、そうですね……。
営業中の正面入口、社名の文字もいい。
事務所内でひときわ異彩を放っていたオブジェ。昔、シロアリに食われて撤去した学校の柱を展示しているとの事。
中心の凹んでるところが巣の跡。なんかかっこいいな。
話を伺ったのは代表取締役の永田 公宏(きみひろ)さん。「ビルの事なんてそんな話すことあるかな」と言いながらも会社の成り立ちからシロアリマークのルーツまでいろいろ語ってくれた。
左が永田社長。カメラが近いツーショットでどうぞ。
あのシロアリを作った人物
――前に見たこのビルがすごかった、という主観きわまりなくて対応しづらいテーマですいません。
「いえいえ、このビルができたのは昭和47年です。私の父が社長の時ですね」
昭和55年の「おはら祭」でにぎわう天文館通りの写真に永田シロアリビルの姿が。シロアリマークの上の文字も無く、外装は今よりシンプルに見える。 ※引用:市民フォト鹿児島 No.3(昭和55年12月1日/発行鹿児島市広報課)より。トリミングは筆者
――会社の設立も同時だったんですか?
「いや、設立は大正14年、私の祖父の代です。その時はここではなく、今の鹿児島中央駅の近くに事務所を構えていました」
――おお、つまり公宏さんで3代目、創立90年以上ですか。かなり歴史ある会社なんですね。
「そこで昭和30年ぐらいに再開発のための用地買収の話が来て、担当していたゼネコンの清水建設さんの事務所が今のここ(天文館)にあったので土地を交換して移転してきたんですね」
――へえー、ただこのビルが建つまではまだ10年以上ありますね。
「はい。清水建設の事務所をそのまま使っていたようです。母から当時の写真を借りてきました」
これが移転後まもなくの事務所。清水建設の事務所を居抜きで使っていた。
「少し後には今のようなシロアリ看板は掲げていますね」
昭和30年代半ば~後半の写真。この時にはトレードマークのシロアリマークとロゴが掲げられている。
――おお、あのシロアリだ!昭和30年代からあったんですね。看板屋さんとかが作ったんですかね?
「これは全部私の父、先代社長の光弘(みつひろ)がデザインしたものです。父は絵描きでしたから」
――ええ!?社長業のかたわら?
「はい、美術の学校を出て一時期は学校の美術の先生なんかもしていたらしいです。さきほどの事務所は3階建てなんですが2階を画廊にしていた時期もありました。その名も『アリ屋画廊』」
アリ屋画廊!アリだけに!(写真は事務所に飾ってあるアリのオブジェ)「長女がお土産に送ってきたものです。まあ、シロアリはゴキブリの仲間なんですけどね」
広告マンとしても優れていた2代目
「このビルの壁面も父のデザインです」
かっこいい夜景もどうぞ。
――するとあのシャッターの「殺し屋参上」も…..
「文案、題字ともに父ですね。このビルが建った時にシャッターに付けたのがはじめらしいです」
――商標登録もされたんですね。
「はい。ここは人通りも多いんでインパクトを与えたかったんでしょうね。原画もありますよ」
光弘氏による原画。キャラ化してるけどお腹の節のところなんかはすごくリアリティがある(アリだけに)。モデルはイエシロアリかな。
狙い通り、シロアリと殺し屋は道行く人の話題を呼び、天文館界隈について書かれたエッセイなどにも度々登場している。
鹿児島在住の画家、太原久雄氏の著書「天文館写生帳」には1987年(昭和62年)当時、市営バスの後ろの広告看板やTVCMで「殺し屋参上」の文字を見かけたと書かれている。
「その頃は雑誌なんかにも広告を出してましたね。あとはこんなのも作ったり。これも発案からデザインまで父がやっています」
シロアリ&殺し屋マッチ!イエスノー枕か。
――広告マンとしてもかなりの才覚を持ってたんですねえ。
おかげですっかり認知されてここが待ち合わせ場所になったりしたわけですね。
酔っ払ったおっさんが「あそこのシロアリは0時になったら動き出す」と語っていたという話もありました。アリ道楽か。
「ははは。タクシーなんかでも天文館に行くお客にシロアリのとこって言われたりするみたいですね」
ビルは死してもシロアリさんは死せず
知られざるシロアリ誕生秘話で盛り上がったが、冒頭で述べた通り、この天文館の物々しいランドマークは再開発で今年の冬より解体される事が決まっている。
大体赤で囲った範囲が解体され、再開発ビルが建てられる。
「私は昭和45年生まれなのでこのビルとほぼ同い年なんです。うちは両親が共働きでしたからここから小学校に通って、中学生になったら手伝いでこき使われて、大学出てもここでずっと働いてますからやっぱり寂しい気持ちはあります。でも、まあ、時代の流れですからねえ」
隣のビルの単口送水口、これも貴重な品だ。 「隣のビルはうちよりもさらに古いですから」
――まだ移転先は決めていないとの事ですが……。
「はい。まだ詳細は未定ですがこのあたりで場所を探しています」
――移転してもシロアリと殺し屋は使われる予定ですか?
「ええ、なんらかの形で掲出しようとは思っています」
天文館から殺し屋が消えるわけではない。またこの街のどこかでシロアリさんと「殺し屋参上」のフレーズが踊るのを期待したい。
また会おう!看板とかシャッターとかで!(家にはこないでね)
45年にわたり天文館に君臨し、1人のおっさんを東京から呼び寄せるほど魅惑の芳香を放っていたシロアリビルはなくなってしまうが、なんとかその前に素晴らしいシロアリクリエイティブの片鱗に触れることができた。
永田社長によると「再開発のビルにも、うちだけじゃなくタカプラさん(1936年より営業していた商業施設。同じく再開発により解体)なんかも含めてなんらかの形で爪あとが残る予定です」との事。
再開発ビルは2020年秋にオープン予定だ。
そして我が家には薬屋から持ってきたザッツがいるのです。
■取材協力:株式会社永田シロアリ研究所(鹿児島県鹿児島市千日町)