ひとりひとりに異なる物語があったのだ、ということ
5年前の「
首都圏帰宅ログ」では、地震の時どこにいて、何時に出発して、どういうルートで帰って、何時に家に着いたか、をメールで送ってもらったものをマップにした。
記事を書いた後もたくさんメールを頂き、その総数は200名を超えた。みなさん、ありがとう。
いただいたメールから、地図にプロットした。こんなになった。
結論から言うと、今回この記事で言いたいのは「あの夜の体験は個別である」ということだ。
いやまあ、そんなの当たり前なんだけど。
「帰宅難民」の一言でくくられちゃうけど、実にみなさんそれぞれに全く別々の物語がある。いただいたメールを読んでいるとまるで同時にストーリーが進行する複雑な映画のようなんですよ。
だから、みんなあの夜のことをもっと話したらよいと思う。そういう趣旨です。この記事は。
奥さまの職場へ行き、一緒に帰った旦那さまの話(あの夜は電話もメールも全く通じなかった)や、方向音痴でたいへんなことになった人。見知らぬおばあさんを助けながら一緒に7時間歩いた学生さん、などなど。
高田馬場のうどんやで地震にあって、隣にいたおばあさん(偶然にも自宅が近所!)と一緒に東村山まで帰ったという学生さん。赤い線は徒歩、青い線は電車。田無から運転再開した西武線に乗ることができている。
そもそも帰る理由からしてさまざまだ。保育園にあずけた子どものことを思うと40km徒歩でも帰らねばならなかった、というお父さんもいれば、ペットが心配で、という人も。当時ぼくは独身だったので、そういう点では気楽なものだったなあ、と思う。
この方は持病の薬を入手すべくバスで移動。帰れなくなって避難所として開放されていた都立高校で仮眠、翌朝動いている電車を乗り継いで帰宅、というご苦労をされている。上と同様、赤い線は徒歩、青い線は電車(以下同様)。
上の方のように、持病をお持ちという事情のなかでがんばって帰宅されている方が何人かいらっしゃった。そういうことのない自分の幸運さにはじめて気づいた。おはずかしい。
それにしてもこの方、無理をなさらずに、あれがだめならこの手、といろいろな手段を利用されていたことが非常に印象的。東京の交通機関の冗長性を実感。
あと、ぼく自身は避難所を利用するなどまったく思いつかなかった。だめだなあ、ぼく。
時間付きのデータにしてみた
というように、ひとりひとりの帰宅ルートとコメントを読めば「あの夜の体験の個別性」はもちろん分かる。
だけどもっとぱっと直感的に伝えられる方法はないものか。
で、今回やってみたのが、マッピングデータに時間データを付与するという試みだ。
どういうことか。その成果が下の動画なのでとりあえずまずは見てください。
地震発生直後16:00から翌日の朝09:00までのみなさんの動き。
意気込んだわりには、「えっと…だからなに?」って感じかもしれない。すまん。いやでもこれたいへんだったんだよ、作るの。まじで。
いただいたメールに記載されている場所と時間から、各曲がり角を通過する時刻を割り出し、ログデータにその時刻を埋め込んでいく。距離は10進法なのになんで時間は60進法なんだよ! と何度も毒づきながらの実に丸2日間に渡る作業。おかげで確定申告の提出が遅れた。
いやいや、苦労アピールなんかしちゃいかんな。いやでもせずにはいられなかった。ほんと苦行だった。なんとか23名分を完成させたところで力尽きた。いつか200名強分をコンプリートしたいものだ。
ともあれ、一見なんてことないよう見えて、これ何回かじっくりと見ているととてもおもしろいのですよ。
こうして時間で見ると、まず出発の時間がまちまちだということがよく分かる。翌日夜が明けてから帰宅した方々の移動の速さも印象的だ。これはもちろん運行再開した電車に乗っているから。その間の深夜1時から4時までの動きが止まる様子も緊張感がある。
あと、たった23人分だが、その中の2人がすれ違っているのも、なんか感動した。まず間違いなく他人同士だ。
この「同じ時刻に同じ場所にいた」っていうことの貴重さというか、不思議さというか、そういうものを感じる。こういう状況だけに、よけいに。
友達ってすごい
この「同じ時刻に同じ場所にいることの、あらためての不思議さ」に関してすこし。というか、なんだか柄にもなくリリカルな内容と表現で申し訳ない。
デイリーポータルZの記事でしばしばぼくは「
GPS地上絵」について書いている。カーナビなどに使われている、衛星を使った緯度経度を測定するGPS機器がある。これを持ち運び可能な大きさにして、自分が移動したルートを記録するのがGPSロガーというものだ。最近はスマホのアプリにも同じ機能のものがある。これを使って大きな絵を描くのが「GPS地上絵」だ。
で、この遊び以外でも、ぼくはGPSロガーを日常的に使っている。というか、ここ9年間は外出時には必ず持ち歩いている。つまりぼくの9年間の移動はすべて記録されている。
これは昨年2015年の1年間のぼくの外出記録のうち、東京を中心とした部分のクローズアップ。山手線によく乗っているのがわかる。右端は実家のある西船橋。ディズニーランドにも行ったな。
そしてぼくの友人の多くが同様に日常的にGPSロガーを持ち歩いている。
で、そういう「移動記録癖」とでもいうべき趣味を持ったぼくらのログを重ね合わせてみた。
普段からGPSロガーで外出記録を録っている友人7人の数年間のログを重ねたもの。みんな日本中色々なところに出かけている。
これが、感動ものだった。
何に感動したかというと、それぞれ普段はまったく別の行動をしていて(あたりまえだ)、出張などもあって日本中をバラバラに移動しているのに、それがあるとき急に一点にぐわっと集まる。
まあ要するにその時間は、友人同士で集まって遊んでいるのだ。
友達同士がある同じ時間に同じ場所にいるのなんて当たり前なのだが、普段の大部分の時間のバラバラな行動の記録とセットで見ると、なんだかそれは奇跡的な出来事に思えちゃう。
「人生が交錯する」なんて言うとポエムっぽいが、世界中のほとんどの人とは会うことはなく、同時代に生まれていない人とももちろん出会うチャンスなどないことを考えると、「友達」ってわりと奇跡だと思う。
動きのあるマッピングっておもしろい
いやほんと、なんでこんなリリカルなこと書いてるんでしょうかぼくは。だいたいデイリーに似つかわしくないよね。でもきっとこういう心境になっちゃうことこそさっきの動画の効果なんだな。
ともあれ、時間経過で見ることでけっこう直感的に 「ああ、それぞれきっとそれぞれに事情があって、いろんなことを考えながらがんばって帰ってたんだろうな」というのが伝わると思う。伝わるよね? 伝わってください。
あと、マップ上を点が移動する様って 「生き物」って感じがするのもポイントだと思う。
ちなみにこれ首都大学東京の渡邉英徳さんの研究室と岩手日報社が先頃発表した「
震災犠牲者の行動記録マップ」がヒントになりました。このマップは、岩手県における震災犠牲者が、地震発生時から津波襲来時までどのように行動したかを、さっきの動画と同様に時間とともにマップ上で移動する点で示したもの。
これを見ると確かに 「全体の傾向」はあるんだけど、同時にそれぞれが「個別」であったことに気づかされる。「動きのあるマッピング」には他の手法ではなしえない表現があるな、と思った次第。
デイリーライターの行動ログ録って、全員分をマップ上で動かしたらそうとう面白いと思う。特に
平坂さんとか。
帰宅難民うんぬんより東京の不思議さが
さて、すっかりデイリーらしからぬ内容でお届けしておりますが、もうちょっとだけ。
みなさんの帰宅ログをじっくり見ていてわかったのは、帰宅難民がどうのということより「東京って不思議だなあ」ということだった。
「徒歩ルートの道路標識が欲しい」とコメントくださった方のログ。
たとえば上の方。「道路の標識に頼ったために、無駄な大回りをしてしまった」と悔やんでおられた。
これらログを見てGPS地上絵をぼくに教えてくれた
石川初さんが指摘したことに「道路上にある地名の入った看板のほとんどは車のスピードに最適化されている」というのがある。
「成増 10km」というような看板が多勢で、歩行者にとって必要な「いまここがどこか」の情報はほとんどないということだ。なるほどそうだ。
いつも使っている路線の脇の道路をなるべく行こうとした方が多かったようだが、それにはおそらく2つ理由があって、ひとつはこの「いまここがどこか分からない」からだ。
というのは、道路上の標識で唯一電車通勤者にも位置情報として分かるのは「○○駅入り口」という交差点名標識だ。鉄道で都市を認識するというのは、駅名で把握するということを意味する。「弥生町1丁目」とか言われてもわからない。
駅のそばの交差点名だけが鉄道認識と道路認識をつなぐものだからそれがあるルートを選んだというわけだ。もちろんいつでも運行再開してもよいように、というのもある。
もうひとつの理由は、そもそも自宅の方向を方角で認識していない、というもの。
先日ライターの西村さんも参加して企画された「
路線図をただながめて「いいねぇー」って言うだけのオフ会」でも話題になったが、鉄道路線図が、地理的方角の正確性を捨てた「ダイアグラム」であることに表れているように、電車に乗るというのは「時間のかかるワープ」のようなものだ。
つまり、ぼくら電車利用者は、距離と方角ではなく所要時間だけで都市を把握している。歩く身体ではなく、つり革につかまって立つ身体によって東京を測っているのだ。
鉄道・道路の西高東低
ということは、路線と道路が寄り添っていれば問題がないということだが、なかなかそうはいかない。特に東側は。
「246号線の存在はありがたかったです~」という方のログ。田園都市線のルートはは246号と一致しているのですばらしい。
田園都市線が走っているのは国道246号の地下なので「つり革で都市を測る」人間に優しい。
これは田園都市線がもともと路面電車だったからだ。
田園都市線の前身である玉川電鉄。路面電車が地下に潜ったのだから道路と一致するのは当然だ。( ume / PIXTA(ピクスタ))
「京王線沿いは甲州街道沿いを歩くのが一番早く近く、もう夜も遅かったので安全面を考慮しても他の道を使うことは考えられませんでした」とのコメントをくださったかたのログ。いいなあ、甲州街道。
甲州街道が帰宅難民にやさしいというのはとても意味深だ。というのは、この道は江戸時代の将軍が、有事の際に緊急脱出するためのルートとして作られたからだ。つまり将軍が「帰宅難民」になったときのための道路。時を越え、いま役立っている。甲州街道で帰った方々のことは「将軍」と呼びたい。
これらにひきかえ、わが故郷千葉方面の過酷さといったらない。
まず川を越えすぎる。都心から隅田川、荒川、中川、新中川、江戸川、と大きな川を越えていかないといけない。歩くとけっこう風強かったり橋の勾配がきつかったりするんだよね、川。
ネイティブアメリカンが千葉県民に名前を与えるとしたら「川を越える者」になると思う。
そして線路と幹線道路が246や甲州街道のようには一致していない。帰宅困難における西高東低である。千葉っ子として改善を求めたい。
環境によってしんどさが違う
千葉でいうと、下の方が気の毒になりつつ、複雑な気持ちになった。
千葉に帰った方。「道中一人で心細かった」とコメント。工業地域を徒歩で、というのがつらかったみたい。
翌朝電車が動くのを待ってオフィスを出発したものの、京葉線が止まっていて、西船橋から線路沿いを歩くことに。
問題は京葉線沿いの道は工業地域だということ。この方は女性ということで、この環境はつらかったようだ。あと、海に近い、ということも津波被害を知った後では精神的にしんどかったようだ。
同じ距離でも、住宅街か、商店街か、工業地域か、でメンタル的にはずいぶん差が出るだろうなあ、と思った。
「複雑な気持ちになった」のはなぜかというと、工場萌えだったら別にぜんぜんつらくないだろうからだ。帰宅難民のときのためにみんな工場を愛でよう!
首都民の「覚悟」
さて、興味深い話は尽きないのだが (たとえば派遣さんはオフィスの鍵を閉める権限がないのでオフィスに最後までいることができない問題とか)、最後に「東京で暮らしているぼくらってすごいよなあ」と思ったことをひとつ。
それは下の方のコメント。
「予行演習だと思ってがんばって歩きました」とおっしゃっていたのが印象的。
ビッグサイトで地震に遭い、5時間かけて四谷三丁目まで歩き、そこから運転再開した丸ノ内線に乗った、というこの方。「築地本願寺で休憩。おにぎりとお茶を頂いた」など道中の様子も興味深いのだが、最も「おお!」と思ったのは「予行演習だと思ってがんばって歩きました」というコメント。
こうおっしゃる方は他にもいらっしゃって、ぼく自身もどこかそういう風に思っていた。
つまり首都圏に住む人間は「いつか直下型が来てひどいことになる」と覚悟しているのだ。こんな気持ちで日々暮らしている首都民って世界に類を見ないのではないか。
どうか予行演習のまま終わりますように。でもなあ、きっと来るんだろうなあ、いつか。
最初にも書いたように、もっとあの夜のことは話題にしたらいいと思う。いろんな物語があるよ。ぼくももっと聞きたいです。
これまでログをお送りくださったみなさん、ほんとうにありがとう! 貴重な記録です。あと、日々のログデータをくれた友人のみなさんにも感謝を。これからも「奇跡的」に集まりましょう。
ぼくのログも動かしてみた。思い出すなあ。