特集 2019年5月14日

続日本100名城巡りを始めたら、新たな城の扉が開かれた

二の足を踏んでいた「続日本100名城」巡りを始めたら、思わぬ発見ばかりでした

「日本100名城」というものが存在する。全国に数多く存在する城のうち、2006年に財団法人日本城郭協会が定めた100の名城だ。

各城にはスタンプが置かれており、スタンプラリーが可能である。私は2008年から10年かけて全てを周り、その道のりを記事にした。→「日本100名城を全制覇したので自慢させてください

コンプリート間際の2017年、日本100名城に続く「続日本100名城」なるものが定められた。それに伴い新たなスタンプラリーが開始されたのだが、正直言って私はあまり乗り気ではなかった。

しかし、最近になってついに続100名城にも手を出すことになったのだが、そうしたら私の中で新たな城の扉が開かれたのだ。

1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

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有名な城がズラリと並ぶ「日本100名城」

最初に選定された「日本100名城」には各地域の中心であった城が多く、たとえ城に興味がない人でも名前くらいは知っているような有名どころが網羅されている。

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江戸幕府の中枢であり、現在も皇居として東京の中心である「江戸城」
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巨大な天守をはじめ往時の建物が現存する「姫路城」は世界遺産
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“天空の城”として一気に有名になった「竹田城」も100名城だ

また100名城の選定には時代性や地域性も考慮されており、弥生時代の吉野ケ里遺跡から江戸時代末期に築かれた五稜郭、アイヌの砦であるチャシ、琉球の城(グスク)など、実に幅広いラインナップとなっている。

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城郭の原点といえる環濠集落が見られる「吉野ケ里遺跡」
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西洋から導入された幾何学的な星形要塞の「五稜郭」
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アイヌの砦であり聖域でもあった「根室半島チャシ群」
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琉球ならではの曲線的な石垣が美しい「今帰仁城(なきじんグスク)」

私が「続日本100名城」巡りに消極的だったワケ

さて、ここからが本題の「続日本100名城」だ。続100名城に選ばれた城は後発なだけあって、どうしても知名度や規模、現存度合いでやや劣ることは否めない。私が続100名城巡りにあまり乗り気ではなかった理由のひとつである。

もうひとつの、そしてより大きな理由として、日本全国を再び周り直さなければならないということがある。続100名城に選ばれた城は、100名城巡りやそれ以外の文化財巡りで既に訪れたことがある場所が少なくなく、スタンプを貰いに行き直さなければならないという点も、私に二の足を踏ませていた。

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対馬の「金田城」とか、簡単に行けるような場所ではないし
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北海道の「上ノ国勝山館」はすぐ側に無料キャンプ場があるので立ち寄った
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五島列島の「福江城」は離島な上に去年訪れたばかりである

続日本100名城巡りを始める切っ掛けは「古宮城」

ではなぜ私が続100名城巡りに手を出すことになったのかというと、「古宮(ふるみや)城」という城の存在を知ったからだ。なんでも遺構がもの凄く良い状態で残っていると評判で、城というよりは遺跡を見に行く感覚で行ってみたいと思った。

古宮城についてアレコレ調べているうちに続100名城のひとつに選ばれていることを知り、せっかくだからと新たにスタンプ帳を購入してから訪問したのであった。

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そうして訪れた「古宮城」、現在は水田に囲まれた杉林の丘である

古宮城は愛知県東部の新城(しんしろ)市にある作手(つくで)高原の中央部に位置しており、甲斐の武田信玄が徳川家康の三河へ攻め込む前線基地として築いた城だという。

当時は湿地に囲まれていた丘を丸ごと使って築かれているのだが、現在はこんもりとした杉林に覆われているので、事前知識がないと城であるとは気付かないだろう。

本来の大手門(城の正門)は西側にあるのだが、現在その部分は民家の敷地となっているので立入禁止。城の南側に鎮座する白鳥神社の境内から登っていく。

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現在、古宮城の実質の入口となっている白鳥神社
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社殿の横にある階段を上っていくと――
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主郭(本丸、城で一番重要な部分)の入口である桝形(ますがた)門の跡に出る

ご覧の通り、古宮城は土を掘ったり盛ったりして築いた「土の城」である。城と聞くと天守や御殿を伴う壮大な石垣の城をイメージする人は少なくないのであろうが、そのような「石の城」が築かれるようになるのは安土桃山時代以降。それまではこのような土の城が一般的であった。 

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主郭は土塁(土の壁)で仕切られており、一段高い上段(右)は城主の居館であった

主郭の入口には両袖桝形と呼ばれる武田氏ならではの厳重かつ立派な桝形門を構えており、また主郭自体も上段と下段に分けて格差を演出している。古宮城は前線に築かれた小さな城ではあるものの、ただの一時的な間に合わせの砦ではなく、格式を備えた城として築かれたことが分かりますな。

中でも、古宮城が噂以上のスゴイ城であると確信したのは、大堀切を目の当たりにした時であった。

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ダイナミックな大堀切が城を真っ二つに分断しているのだ

いやはや、杉林に覆い隠された丘にこんなド迫力の大堀切が存在するとは、本当にびっくりした。それと同時に、古宮城は防衛能力がとても高い城であると理解できた。

古宮城はこの大堀切によって主郭と西曲輪に隔てられており、そのうち西曲輪は主郭を守る馬出(向かってくる敵を抑えつつ、味方を出撃させる拠点)を担っている。

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主郭の櫓台から大堀切越しに見る西曲輪。木のない当時は全体を見渡せたのだろう

大手門から主郭へ向かうには西曲輪を経由しなければならず、また西曲輪から主郭へ渡る唯一の手段である土橋の袂には櫓台が置かれており、集中攻撃が可能だ。

とまぁ、あれこれウンチクを垂れ流しているが、要するに古宮城はコンパクトにまとまっていて縄張(設計)の意図が分かりやすく、散策がとても楽しい城ということである。

ちなみに現在、古宮城には説明板の類が一切存在しないが、スタンプの設置場所である新城市作手歴史民俗資料館で縄張図などの資料を頂くことができる。

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ここで私は縄張図とにらめっこしながら城を散策する楽しさに目覚めた

これまで私が訪れてきた100名城はいずれも知名度が高く、公園としての整備が行き届いてる場所がほとんどであった。案内図や説明板、パンフレットが充実しているので、わざわざ縄張図を持ち出す必要がなかったのだ。

しかしこうして縄張図を手にしながら城を散策していると、これまでには味わえなかった新たな城の楽しさが感じられるようになってくる。まず、縄張図に描かれている通りに遺構が残っていることに感動するのだ。

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縄張図の通りに、西曲輪の平場を土塁が取り囲んでいる!
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縄張図の通りに、西曲輪の外側を横堀が縁取っている!
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幾重にも巡らされた横堀が芸術的でホント素晴らしい!

縄張図は遺構を元に描いた図なのでその通りに残っているのは当然と言えば当然なのだが、実際に自分の目で見て確かめるという楽しさがある。

また縄張図を眺めていると、主要部分以外の曲輪(区画)も気になってくる。古宮城では主郭の北東側に広めの曲輪があり、どうなっているんだろうと確かめに行ってみた。

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赤で囲んだ部分、意図的に周囲から隔絶されており明らかに不自然な曲輪である

そこは主郭に近いものの、前後を急斜面によって阻まれており、また左右も竪堀によって閉ざされている。この城域において完全に切り離された空間なのだ。そこまで行くにも竪堀を乗り越えなければならず、一苦労である。

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ようやくたどり着いたものの、ここは一体ぜんたい何の曲輪なのだー!

その答えは城郭考古学者の千田嘉博先生が監修する『日本の城辞典』という本にズバリ載っていた。なんでもここは煙硝蔵(火薬庫)か、もしくは人質がいた曲輪の可能性があるとのこと。

なるほど、確かに引火の危険性がある火薬庫ならば周囲から隔絶しておく必要がある。でも、それならば通行に不便な竪堀で塞がなくても、土塁で囲んでおけば良い気がする。

一方で、人質を監禁していた場所だとすると大いに納得だ。前後左右すべての方向に移動し辛くなっているのも、人質の逃走防止と考えれば腑に落ちる。

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さらに下の帯曲輪には武士が詰めていたので、絶対に逃げられない位置である

いやはや、ことごとく面白い城である。たった100の城を周っただけでは計り知ることなどできない、日本にはまだまだ凄い城があるものなのだ。

古宮城は想像以上に素晴らしかったし、他の続100名城も見てみたくなったぞ。――というワケで、私の続100名城巡りは始まったのだ。

中心部分のみが公園として残る「津城」

古宮城の次に訪れたのが、三重県津市の中心部に位置する「津城」である。津市北部に境内を構える専修寺(せんじゅじ)を見に行くついでに行ってみた。

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浄土真宗高田派本山の専修寺、京都の本願寺にも負けないくらいに素晴らしい

津城は織田信長の弟である織田信包(おだのぶかね)が築き、その後に築城の名手として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)が改修した城で、江戸時代を通じて津藩の藩庁であった。

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三重県の県庁所在地、津市の中心に位置する「津城」
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その本丸は……いたって普通の公園ですな!

津城は知名度の高い城ではあるものの、100名城ではなく続100名城での選定である。おそらく100名城に漏れたのは、現存する遺構の度合いによるものだろう。

津市は三重県の県庁所在地なだけあって、その中心に位置する城域のほとんどが市街地化の波に飲み込まれている。現在は本丸と西の丸がかろうじて公園として残るだけで、周囲の堀も大部分が埋め立てられてしまっている。

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かつては広大な城であったが、現存するのは本丸と西之丸だけだ
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高石垣はなかなかの迫力で、縁に立つのが怖かった

100名城の選定基準のひとつに「優れた文化財・史跡であること」というものがあるのだが、城の現存状態はここに影響してくる。その辺りを理由に100名城に漏れたと思われる有名な城が続100名城で救済されており、この津城もまたそのひとつだ。

城までの道のりが楽しい「岩櫃城」

続いては、群馬県にある三つの続100名城を訪れた。そのひとつが東吾妻町の「岩櫃(いわびつ)城」である。信濃の上田城を本拠地としていた真田氏が、上州の沼田城へと至る交通拠点として整備した城である。

中世の山城なので現在の市街地から離れた山の上にあるのだが、そこまでの道のりがとても楽しかった。

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JR吾妻線の群馬原町駅からてくてく歩き、番匠坂という古道に入る(熊出没!)
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雰囲気たっぷりな竹林を進んでいくと――(熊はいないけど鹿がいてビビった!)
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物凄い急斜面の上に続いていた。この道だけでも既に防衛力が高い感じである
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この辺りは城下町だったらしい。岩櫃城は正面の山頂ではなく、左手前に位置する
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というワケでサックリ登城。真田幸村こと真田信繁が幼少期を過ごした場所だとか
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本丸から伸びる竪堀が迫力満点で素晴らしかった

岩櫃城は城自体ももちろん面白いのだが、そこまで至る道の雰囲気が素晴らしかった。切り立った崖の上の古道を歩いていると、「自分は今、まさに要害へ向かっているのだ!」と勝手に気分が盛り上がっていくのだ。

この城までの道のりを楽しむというのも、100名城を周っていた時には味わえなかった感覚であるような気がする。

北関東の支配拠点であった「沼田城」

さて、群馬県の二城目は北関東の要衝であった沼田市の「沼田城」である。軍事上、極めて重要な位置にあることから上杉氏・武田氏・後北条氏が争奪戦を繰り広げたことで知られている。

沼田市には利根川が作り出した河岸段丘が広がっており、沼田城はその縁の断崖絶壁の上に位置している。沼田駅からは急な坂道を登らなければならないのだが、岩櫃城とはまた違った意味で城までの道のりが楽しかった。

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沼田城への道はごく普通の車道なのだが――
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その途中の滝坂には、年季の入った旅館建築とか――
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木造アーケード付きの階段とかがある
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これがとにかくシブくて素晴らしかった
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見てよ、このトラスの美しさ
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何だかこれだけでもう満ち足りた感じがする

出だしから良いモノを見せて頂き恐縮だが、あくまでも私の目的は城である。急傾斜の滝坂をえっちらほっちら進んでいくと、市街地の先にようやく沼田城がその姿を現した。

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現在は公園となっている沼田城では、桜祭りの準備が行われていた

沼田城は北関東の重要拠点であったものの、100名城ではなく続100名城での選定である。その理由は、津城と同じく現存状態ではないかと思う。

市街地にあるということもあるが、そもそも沼田城は江戸時代前期の天和2年(1682年)に廃城となっており、その際に堀や土塁などが破却されている。その後も本格的な復興がなされることなく明治維新を迎えたので、今に残るモノが少ないのだ。

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西櫓台で発掘されたものなど、ごく一部に石垣が残る
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あとは河岸段丘の断崖上という立地を楽しむくらいだろうか

沼田城と対峙する「名胡桃城」

群馬県の三城目は、沼田城から直線距離でわずか5kmほどのところにある、みなかみ町の「名胡桃(なぐるみ)城」である。左右を険しい谷によって囲まれた、断崖の上に位置する山城だ。

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割と最近整備されたようで、随分とキレイな感じである

元は沼田城を守るために築かれた支城とのことで、名胡桃城は実にコンパクトな城である。しかし遺構の状態はかなり良く、尾根に沿って曲輪が連続する縄張がはっきりと見て取れる。

また名胡桃城は歴史的な意義も大きい。沼田城を中心とする沼田領は真田氏が支配していたのだが、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の裁定によって沼田城は後北条氏のものとなった。

後北条氏は名胡桃城の領有も求めたものの、真田氏は「名胡桃城には先祖代々の墓がある」と(おそらく嘘の)主張をし、名胡桃城は真田氏の領土として据え置かれることとなったのだ。

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名胡桃城へと向かう国道の橋から見た沼田。中央の辺りが沼田城である

こんな至近距離に敵対勢力の城があるなど良しとするワケがなく、結局、後北条氏は名胡桃城を占領してしまう。これに激怒した豊臣秀吉は後北条氏を討つべく小田原征伐を敢行。その結果、後北条氏は滅亡し、秀吉による天下統一が成し遂げられたのだ。

名胡桃城はそのトリガーとなった城として日本史上重要なことから続100名城に選ばれた。うーん、歴史って面白い!

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パンフレットに加えて案内板も多く、小規模ながら見どころが多い城だ
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ここで行き止まりか……と思いきや、まだ先にノボリが立ってるではないか
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だがそこまでは道が整備されておらず、急な斜面を命からがら下りた
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なんとか到達! 整備が行き届いている有名な城では感じられない達成感だ

さてはて、これにて群馬県にある三箇所の続100名城を周ることができた。そのまま勢いに任せて、お次は茨城県の続100名城を見に行くとしよう。

東日本では珍しい石垣の山城「笠間城」

茨城県にある続100名城はふたつ。そのうちのひとつが県央部の盆地に位置する笠間市の「笠間城」である。

中世に山の上に築かれた山城だが、その後に近世城郭として整備がなされ、江戸時代を通じて笠間藩の藩庁が置かれていた。

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現在は鬱蒼とした木々が生い茂る笠間城
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山の上に広がる本丸には明治維新まで御殿や櫓があったという
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そのうちのひとつである八幡台櫓は麓の寺院に移築され、仏堂として現存する

笠間城の特徴は、東日本の山城にしては珍しく石垣が見られることである。本丸からさらに登った山頂には、立派な天守台が石垣で築かれておりなかなかに目を見張る。

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東日本大震災で一部が被災したままなのが痛々しい

東日本大震災で被災した城は多く、100名城では福島県にある白河小峰城が石垣の崩壊など大規模な被害を受けた。しかしながら白河小峰城は国の史跡に指定されていることもあってか修理が順調に進み、現在は復興を遂げている。

一方で笠間城は応急措置のビニールシートが掛けられたまま、残念ながらほぼ手つかずの状態である。費用等いろいろ厳しいものがあるのかもしれないが、少しずつでも修復していって頂きたいものだ。

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現在、天守跡に鎮座する佐志能神社は、天守の木材を再利用して築かれたという
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本殿を取り囲む壁も、天守の屋根瓦を積んだものだとか

ところで、この笠間城でも観光案内所で貰った縄張図を見ながら散策していたのだが、ふと天守台の東側に「石倉」なる表記があることに気が付いた。

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石倉とは何だろう、石造りの蔵でもあるのだろうか

どうやらその石倉へは、天守台への入口から道が続いているようだ。気になったので見に行ってみると、なるほど、そういうことかと理解できた。

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石倉とは、巨石が露出する採石場だったのだ

そこには巨石がゴロゴロと転がっており、石を割るための矢穴も見られる。どうやら石材がストックされている場所という意味で石倉と呼ばれているようだ。

東日本に石垣の城が少ない理由として、良い石材が産出される採石場が少ないという点が挙げられる。笠間城では城内に採石場が存在したからこそ石垣を築くことができたのだ。これは目からウロコであった。

立派な櫓門が現存する「土浦城」

茨城県にあるもうひとつの続100名城は、土浦市の「土浦城」だ。霞ヶ浦に面し、水戸街道が通る土浦は水運と陸運の結節点として大いに栄えた。

その中心に位置する土浦城は何重にも堀を巡らした壮大な城であった。……が、今に残る部分は本丸の周囲のみと、津城に似た感じの現状である。

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土浦城はちょうど桜祭りが開催中で、子供たちで賑わっていた
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本丸入口の櫓門は、明暦2年(1656年)に改築されたものが現存している
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本丸に聳える東櫓と西櫓は再建だけど、木造での復元なので作り物感はない
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何より櫓の二階から見る桜が素晴らしかった

100名城は巨大な城が多いのでくまなく見るには時間と体力が必要だが、続100名城は往時はともかく現在はコンパクトなところが多く、気軽にふらっと立ち寄ることができる。意外と続100名城の方が散策のハードルが低いのかもしれませんな。

他に類を見ない井戸曲輪が残る「石垣山城」

最後は私の地元である神奈川県の続100名城を紹介して終わりにしたい。豊臣秀吉が後北条氏を討つ小田原攻めの際に築いた「石垣山城」である。

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関東で最初に築かれた総石垣の城だ

先ほど笠間城で「東日本には石垣の山城が珍しい」と述べただけに、「なんだ、石垣の山城、あるじゃん!」という声が聞こえてきそうだが、いやいや、この城は別格だ。なんせ天下統一を目前にした秀吉が総力を結集して築いた城なのだから。

その石垣は、関西から連れてきた石工の技術者集団である「穴太衆(あのうしゅう)」によって築かれており、一時的な前線基地とはとても思えないような壮大な城となっている。小田原城の間近にこんな城が築かれるなんて、後北条氏の戦意はダダ落ちしたことだろう。

完成後まもなく小田原城が開城したことによって役目を終えた石垣山城は廃城となり、関東大震災の被害などもあって、現在は石垣のかなりの部分が崩れてしまっている。

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かつての登城道、石垣が崩れていて足場があまり良くない感じ
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秀吉は千利休を呼び寄せて茶会を開いていたそうだ。余裕シャクシャクですな

あまりに立派な石垣山城ではあるが、その中でも特に凄いのが井戸曲輪である。湧き水のある谷間を石積で塞いで井戸としたもので、現在も石垣が崩れることなく残っているのだ。

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四方を石垣で固めた、すり鉢状の井戸曲輪
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とにかく超ド迫力で、初めて見た時は震えるほどに興奮した

これには本当に驚かされた。谷を塞いでしまうという発想もさながら、それを実際に築いてしまう実行力に平伏するばかりだ。多大なる権力を持った秀吉の豪快さは想像を絶するものがある。この井戸曲輪を見るだけでも、石垣山城を訪れる価値があるというものだ。いやはや、本当にオススメです。


のんびり続けよう続100名城巡り

とまぁ、いくつかの続100名城を見てきたが、先に選ばれた100名城よりも総じて玄人好み……というか、ぶっちゃけ地味であることは否めない。だがしかし、続100名城に選ばれただけあって、それぞれキラリと光るものが存在する。

最初に訪れた古宮城を始め、続100名城を巡ることで私の中での城の見方が変わったような気がする。これまでは城から与えられた情報を受け取るだけの受動的な散策だったのに対し、続100名城では自らその城の特徴や良さを探して歩く、能動的な散策ができるようになった気がするのだ。

また、続100名城に選ばれた各城でも、盛り上がりの機運が高まっている印象だ。案内板などが整備されていない城では、縄張図やパンフレットを新たに作って配布していたり、地元の方がボランティアで説明をしていたり。有名どころの多い100名城よりも、手作り感のあるところが多くて好感が持てた。

続100名城もまた全制覇までの道のりは決して短くはないのだろうが、まぁ、ぼちぼち周るとしましょうか。

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今回紹介できなかったけど、神奈川県のもうひとつの続100名城「小机(こづくえ)城」でも手作りパンフレットを配っていて良い感じだった
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