フィールドワークは少年少女も大人も楽しめる
当日、私達が居留地の名称を探しているとき、中学生ぐらいのグループもフィールドワークをしていた。どんな勉強しているんだろうとチラッと見たら発祥の地をさがす的なフィールドワークだった。当サイトでは井上マサキさんも行っている。かつての居留地と、範囲が割と被っているので、合わせてやってみても楽しむことができそうだ。
【参考資料】季刊誌『横濱』No.50 2015年秋号
横浜・山下町にはかつて外国人居留地があった。
かつてといっても、居留地があったころは明治の頃とかなり昔だし、そもそも撤廃されている。しかし居留地撤廃から100年以上経った現在でも、横浜の街では居留地があった面影を探すことができる。
外国人居留地とは、政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域をいう(wikiより)。幕末に結ばれた1858年の日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に居留地を設置することが決められ、条約締結国民はそこでは居住や営業が許されていた。
現在の山下町あたりに存在した横浜居留地では、明治8(1875)年、居留地の通りに沿って日本全国の地名を冠した30カ町が認可されて実施された。その町の名前は「函館町」、「長崎町」、「薩摩町」など全国にある地名ばかり。ちなみに全国の都市の名前が付けられたのには深い理由はないらしい。とはいえ、横浜の山下町に日本全国の都市の名前があったって面白くないか。
明治32(1899)年に居留地は撤廃となり、この町名も廃止されてしまう。それでも、しばらくは大きすぎる山下町の場所を把握するため、通り町名として使われていたそう。そして現在も、現在まで痕跡が残っているものがある。そんなの、探してみたくなるじゃないか。
居留地の痕跡を探したくて仕方がなくなってしまったので、まずは日本大通り駅からスタート。日本大通り駅というのも、かつて外国人居留地と日本人居住地の間に計画された、日本初の西洋式街路となった「日本大通」からきている。
編集部橋田さん、そして助っ人のライター西村さんとともに山下町の居留地の痕跡探しに向かう。当サイトの読者であればご周知いただいているだろうが、「デイリーポータルZのでかいタモリ」こと西村さんは境界や地図が大好きで、非常に心強い存在だ。実際、西村さんは痕跡探し中ずっと昔の地図をアプリで見ながらナビゲートしてくれた。
西村さんの導きにより、はじめに向かったのは「横浜開港資料館」。まずはここで出かけるための周辺の地図を探す。簡単に見つかるだろうと思いきやこれがなかなか難航した。
というのも、こちらにはたくさんの地図も所蔵されており、その地図も広域の地図が多く、居留地をピンポイントで見られる地図というのがなかなかなかったのである。仕方なく、広域の地図を拡大コピーしそこに閲覧用PCで確認しながら通りの名前を鉛筆で書いて……という方法を取った。これは出かける前に本当にやっておいてよかったと思う。
地図を手に入れたので居留地探しに向かう。実はこの自分たちのいた資料館前の通り付近も、昔は「薩摩町」と呼ばれていたところだった。気が付かなかったけど私たちは既に居留地の中にいたのだ。
既に居留地の中にいたことに興奮したわけだが、思った以上に痕跡がない。街が変わりすぎていて、場所を示すような場所はすべて山下町だ。
マンション名などに昔の名称が残っていたりしないかとも考えたが、周辺マンション名やビル名にはだいたい「山下町」や「山下公園」の名前がついていた。「山下町」という名称にはブランド力があると私も思う。それでも、通りの名前を確認しつつうろうろしていると居留地の痕跡をだんだんと見つけることができるようになった。
コンビニ・ローソンの名前に「本町通り」の名前が生きているところを発見した。ローソン山下本町通店だ。
「本町通」という名称自体は住所名として生き残っているのだ。そしてコンビニの名称で見られるとは……。
本町通には加賀町消防団本部があった。もちろん、加賀町があったのはこちらではない。後で出てくるが、消防団や警察署には「加賀町」が使われている。
シャッターにはばっちり「薩摩町」の文字が! 「薩摩町消防組」は現在中区役所のあったあたりに存在していたという。
こちらは「薩摩町中区役所前」のバス停だ。バス停にばっちり居留地の名称が生きている。この路線バスを利用している人の中には、「なんで薩摩町なんだろう?」と思っていた人もいるのではないだろうか。
ここでは他のバス停にも名称が残っているのではないかと思い確認するも、他はめぼしいものを見つけられず。本町○丁目みたいのはあった。
信号や通りの説明などで「水町通り」を見つけることができた。水町通りという名称も生き残ることができたんだ……。
かつての通りの名前ではなく、居留地の痕跡の方は続々と見つけることができた。かつてお屋敷のあったところや、外国商社のあったところなど、歩いていると突如時代が古いものが現れるのは面白かった。
これは旧横浜居留地九十一番地塀。マンションの一角にあるのだが、周辺のマンションがこの地塀に合わせたのか煉瓦っぽいクラシカルなデザインで馴染んでいた。イタリア系蚕種・生糸輸出会社デローロ商会の所在地だったと碑には書いてある。
向かいのあたりにあったストラチャン商会跡(山下居留地71番館)。汽船会社や保険会社の代理店業務を手がけるイギリス系貿易会社のストラチャン商会の建物が建っていたと説明には書いてある。
居留地の90番地跡には大砲もあった。さびていて歴史を感じる。大砲は歴史資料館と開港記念館にもあるそうだ。
横浜民ならおなじみ(であろう)「レストラン かをり」には居留地70番だったという掲示があった。
こちらは洋食・洋菓子発祥の地とホテル発祥の地でもあり、そちらの方が推されていた。かをりはレーズンサンドが美味しい。
横浜銘菓の「ありあけのハーバー」でおなじみありあけ本館ハーバーズムーンにも「旧横浜居留地183」のプレートが掛かっている。けど、かつての通りの名前はなかなか見つからないものだ。このままじゃ居留地史跡巡りになってしまう。それはそれで楽しいんだけども。
そうこうしているうちに横浜中華街に踏み込んでいた。この横浜中華街も、かつてはすっぽり居留地の中だった。中華街へは散々行っていたが、居留地だったというのは初めて知った。
横浜中華街には加賀町警察署がある。これはたぶん、かつての横浜居留地の今日まで名称が残っているなかでも一番メジャーなやつではないかと思う。
加賀町警察署が面している通り(加賀町警察署北の信号機がある方)には、かつて「加賀町」という名前がついていたのだ。
気を付けてみると、中華街の門の下の車止めにも加賀町警察があるし、「緊急消防器具格納庫」にも加賀町消防団を見つけることができた。周辺の警察・消防系には「加賀町」の名称がばっちり生きている。
とはいえ、中華街自体はかつての通りの名前はほとんど残っていない。「蝦夷町」は「中山路」へ、「大坂町」は「広東道」へ、「函館町」は「上海路」に変わっているなど、今は実際にある中国の場所の名前が通りの名前に変わっている。
名称の変更で一番興奮したのは、中華街のメインストリートである「中華街大通り」。このあたりはかつて「前橋町」。群馬にある都市と同じ名前がつけられていたのだ。
横浜中華街のメインストリートがかつては群馬と同じ名前がついていたとは~~!!
中華街を行き交うタピオカ飲んでいる修学旅行生に「みなさん、ここかつて前橋町なんですよ!!」と教えてあげたい。中華街のあたりも、かつては日本全国のいろんな地名がついていたのが中国の地名に塗り替えられているという事実だけで面白い。
なお、前橋町だった痕跡は見つけることができなかった。
さて、中華街の関帝廟通りではNTTのケーブル名に「尾張町」を見つけることができる。中華街の電柱は赤くて、カラフルな街の景観にぴったり馴染んでいる。
この「尾張町」のケーブル名を見つけたのは関帝廟通り。恐らくはかつて小田原町だったあたりで、微妙に尾張町があった場所とはずれていた。しかも関帝廟通りの一部で、すべての電柱が「尾張町」なわけでもなく、名前の規則性がわからない……。
周辺で次々と見つかる「尾張町」のついた電柱……。愛知からの観光客がこれを見たら、「電柱に地元がある!」とちょっと嬉しくなるんじゃないかなと思うんだけど、電柱を見上げている人は自分たちぐらいしかいなかったし、調べてみようと思わなかったら自分も一生知らなかったと思う。
中華街にパンダ雑貨専門店・ぱんだやという目立つお店があるのだが、そこは旧本村通と旧神戸町の分岐あたりに建っている。
わかりやすく図にするとこうだ。そっちの道路は昔「神戸町」だったのか~~というのは、知っているとちょっと嬉しくなってしまう知識ではないか。
せっかく中華街に来ているので関帝廟の写真も見ていってほしい。せっかく中華街まで来たけど、実はこの日は中華ではなくカレーを食べた。
実は今回まわった関内や馬車道周辺ってスープカレー系のカレー屋がいくつかあって、スープカレーがアツい街だったりする。上のカレーもスープカレー系だ。
最後に、かつて花園町があった付近にある「花園橋」と名前の入った駐車場で記念写真を撮った。半日歩き回ったが、フィールドワークは楽しいな。
今回、回ったところ周辺をマッピングしてみた。
今回見つけられた居留地の名称の痕跡は以上だ。花園橋は、場所を合わせてみてもかつてあった花園町からきているだろうという名称だが、そのものではなかったので三角にしている。
かつての名称を探すのはもちろん楽しかったのだが、それ以上に、その場所に昔全然違う街の名称がついていたということを知るのが楽しくて、見慣れた横浜の街の見る目が変わるちょっと面白い経験だった。みなさんも、山下町に行った際には居留地の名称を探す目線で見てみてはいかがだろうか。
当日、私達が居留地の名称を探しているとき、中学生ぐらいのグループもフィールドワークをしていた。どんな勉強しているんだろうとチラッと見たら発祥の地をさがす的なフィールドワークだった。当サイトでは井上マサキさんも行っている。かつての居留地と、範囲が割と被っているので、合わせてやってみても楽しむことができそうだ。
【参考資料】季刊誌『横濱』No.50 2015年秋号
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