元ネタは南の島のお祭り
なにも思い付きで野菜用の仮面を作ろうと言い出したわけではない。
人類の歴史は長く、たいていのアイデアには先例があるのだ。
以前博物館で見たたくさんの仮面の中に、ひときわ目を引く握りこぶし大の仮面があった。子供用だろうか?それにしても小さすぎる気が......。
で、説明を読んでみると、なんとこれはヤムイモ(熱帯地方で多く栽培される芋)にかぶせるために作られた仮面だったのだな。イモに仮面をかぶせるとは、なかなか味な真似をするものだ。
仮面をかぶせてもらえるのは一番大きな芋なのだそうだ。私が暮らす京都府のお隣、滋賀県にも収穫した里芋のサイズを競う祭りがある。どうやら人類は、芋を作ったら大きさで優劣をつけないと気が済まないらしい。
材料を買い出しにスーパーマーケットへ
というわけで、仮面をかぶせる野菜を買うためにスーパーにやってきた。
外はまだまだ寒いのに、店頭には「春」とか「新」とかついた野菜が山と積まれている。まるで季節を先取りしたようだ。「”春”と”新”の使い分けにはなにか理由があるのだろうか?」などと考えながら、物色する。
スーパーに定期的に通っていると、下手に野山をトレッキングするよりも季節の移ろいを感じることがある。季節によって旬の食材が代わり、それに応じて売り場のラインナップや値付けが変化するからだ。
街の季節は、アパレルの店頭→スーパーの店頭→体感気温の変化という順番で変化するのだ。
新じゃがの仮面を作る
「芋に似合う仮面」のデザインを考えることは私の想像力の限界を超えているので、デザインは前述のヤムイモ仮面の真似をさせていただくことに。
繊維を編んで作られたオリジナルを再現するのは大変だから、石粉粘土を使う。乾くと紙粘土よりも丈夫な上、水で洗えば落ちるから野菜の再利用も可能なのだ。
芋に粘土を貼り付けたとき、なんだか背徳的なことをしているようでゾクッとした。
さんざん食べ物で遊んではいけないと教えられてきたからだろう。
ざらついて、適度に保湿力のあるジャガイモの表面に、石粉粘土は予想以上によく食いついた。
所要時間は約2時間半(粘土の乾燥を待っている時間は除く)。手を動かしている間はそこまで思いが至らないのだが、一休みして完成したものを眺めると「何を作ったのかわからない」感がすごい。作った本人でさえそう感じるのだから、赤の他人から見ればなおさらだろう。
『Q.これはなんでしょう?』
という問いが発せられたとしたら、難易度は間違いなくSランクだ。
人類で最初に野菜用の仮面を作った人は、周囲からどう思われていたのだろうか?
かぶせます
新じゃが目線
仮面をかぶった新じゃがについてあれこれ言う前に、仮面をかぶせられる側、すなわち新じゃがの目線でこの瞬間をリプレイしてみよう。何事も、大切なのは相手の立場に立って考えてみることだ。
これは、なかなか!
ジャガイモの外観は色白でフラット、人間でいうと化粧映えのする顔立ちだ。その分、仮面をかぶせることでぐっと男前になった気がする。ギャップが大事なのだ。
しばらく眺めていると、自分の中で目の前の新じゃがに対する愛着がむくむくと成長していくのがわかった。置物としてかっこいいとかそういうのではなくて、独り言を聞いてもらう相手をみつけたような、そんな類の愛着だ。
これこそが仮面のもつ力なのだろう。
「仮面には目の穴が開いているのだから、当然その後ろには本物の目があるはずだ」
そういう錯覚が、物質の中に心を見出させるのである。
仮面は、アニミズムを深化させるための装置だったのだ。
私が独りぼっちで無人島に流れ着いた遭難者なら、日に三度は真剣に話しかけてしまうくらいかわいい。文明社会でやるとヤバい人扱いされるからやめといたほうがいいと思うけど、せっかくだからいつものようにちょっとだけ会話してみよう。
新玉ねぎの仮面を作る
とは言ったものの、玉ねぎの仮面にはお手本がない。自分で考えて作るしかないのだ。
新玉仮面は、新じゃが仮面以上に人間じみて見える
仮面をつけた姿があまりにしっくりと自然だったので、思わず息を飲んだ。新じゃがと同じくらい似合っている、いやそれ以上だ。
これは、「玉ねぎに仮面をかぶせたら、思いのほか可愛くてよかった」などというものではない。なぜ、今まで玉ねぎに仮面をかぶせなかったのか。そういう問いを発したくなるほど、堂に入っているではないか。
に、似合いますね......!
宗教の生い立ちを見たかもしれない
仮面をかぶせただけで、ただの野菜はキャラクターに昇格した。
長いこと置いておくと、お気に入りのぬいぐるみを手放せなくなるように別れがたくなるだろう。
そうなる前に食べてしまおうと思う。