写真って本当に便利なものですね
今回のような撮影禁止の場所の雰囲気を伝えるのは難しいし大変だった。カメラって本当に便利な道具だなと再認識させられた。
カメラを初めて見た江戸時代~明治時代の人も「これでWEB記事を書くのが楽になる」と思ったに違いない。
かつて日本でもウランが採掘されていた。
そう言うと驚くかもしれないし、驚かないかもしれない。岡山県と鳥取県との県境に位置している人形峠(にんぎょうとうげ)では昭和30年(1955年)にウラン鉱床が発見され、日本も資源国の仲間入りするかもと期待された。その後、実際に採掘も行われていたものの、採算性などの問題から現在採掘は行われていない。
そんなかつてのウラン坑道を見学してきたのでご紹介したい。
以前、ウランガラスの美術館へ行った時に学芸員さんから「近くにウランを採掘していた坑道もあるよ」と教えてもらった。
後で申し込もうと意気込んでいたら、その後たった数日の間に「坑道のメンテナンスにより見学中止」となって、永らく再開されなかった。
もう見学はなくなったのかと半ば諦めていたが、久しぶりにサイトを訪れてみるといつの間にか見学が再開されていた。
また中止になる前に急いで申込を済ませ人形峠へ向かった。
しかし人形峠という名前は実におどろおどろしい。
人形峠の名前の由来には伝承があるそうで、
かつて巨大な蜘蛛がいて峠を越えようとする旅人を襲って食べていたそう。あるとき、これを退治しようと囮の人形を用意し峠に設置すると、巨大な蜘蛛が人形に襲いかかった。
その隙に大蜘蛛を弓矢で射殺し、見事に退治することができた。以来、この峠を「人形峠」と呼ぶようになったとさ…という事らしい。
ソースによって若干ニュアンスが違い、巨大な蜘蛛が巨大な蜂となっている説もあるが概ねこのような感じだ。
深い鬱蒼とした森の中を進む。道中は『ザ・山の中』という趣だ。道は山肌に沿って曲がりくねり車の進行と共にナビの矢印はダンスする様にクルクル回る。
元々、人形峠は鳥取県と岡山県を結ぶ要衝で、かつては多くの旅人や自動車が行き交ったはずだ。しかし峠を越えなくても済むように峠の下を貫くトンネルが開通し、現在では山の上の交通量はほとんどない。
山道を抜けると視界が開け、山の中に広大な駐車場が現れる。そこには日本原子力研究開発機構 人形峠環境技術センターがある。
標高が高いので車を降りると空気がひんやりとし、Tシャツだと風邪をひきそうなくらいに肌寒い。
写真では建物がいくつか見えるだけだが、実際には建物の奥に東京ドーム26個分の広大な敷地が広がっている。
僕が到着したのは予約時間より15分ほど早かった。駐車場をウロウロして時間を潰していると職員のかたから「見学のかたですか?」と声を掛けられた。
「今日は申込ありがとうございます」という一通りの挨拶を済ませると僕一人、建物の中に案内された。
他に見学者っぽい人がいなかったので「もしかして僕一人ですか?」と聞くと「そうです」との事だった。他にも見学者がいると思っていた。
施設では放射性物質を扱うためテロ対策の観点から敷地内は撮影禁止だ。何も悪い事していないのに挙動不審になってしまう。
ここからは僕の記憶と拙い絵によって雰囲気だけお伝えできたらと思う。1/3も伝わらないので、気になった人は見学申し込みをしよう!
まずは警備員さんにより身分証のチェックが行われる。その後も僕一人のために職員の方が2名つきっきりだ。
続いて100人以上入れるんじゃないかと思うくらい広い会議室に通され施設と人形峠の説明を受ける。
今から64年前の昭和30年(1955年)、ウラン資源の調査を行っていた通商産業省地質調査所が、施設から歩いて5分ほどの場所でウランの鉱床を発見した。
そしてこの場所でウランの採掘から精錬までの一通りの研究が行われる。
しかしウランを採掘するよりも外国から輸入する方が安くなったことから、ウランの採掘や精錬の技術を確立した後は坑道やプラントは閉鎖される。
一通りの説明が終わると続いては施設の見学となる。
敷地が広大なため移動にはバスを用意していただく。僕一人のためになんだかものすごく申し訳ない気がしたが、このように終始VIP待遇…というかオーバースペック気味であった。
こんな山奥に似つかわしくない巨大な建物群は「親方日の丸」という言葉がぴったりだ。
しかしそれらの建物は総じて古く、風雨にさらされ黒っぽくなっている。
建物の間は急勾配の道が繋ぎ、敷地内の至る所に土砂崩れの跡が見られブルーシートで覆われている。「ここは〇〇の台風で崩れました」「ここは〇〇の台風で」といった感じで、ブルーシートごとにいつの台風で崩れたのか解説がついている。敷地が広大であるとはいえ、台風のたびに崩れているんじゃないかと思うほど。
その中の一つの建物の中を見学させてもらう。先ほどの説明にもあった通り、すでにプラントは閉鎖されている。
かつてはたくさんの人で賑わっていたであろう雰囲気だけが残されていて、まるで夏休みで誰もいない学校の校舎の様だ。
コントロール室に人影はなく薄暗い。椅子と机が向けられた先にあるのはモニターではなく、昔良く見られたランプが点灯したり消灯したりして状態を表しているアレ。
昭和の頃にイメージしていた未来の基地という感じだ。
ランプはほとんど消灯していて、すみっこに申し訳程度に2~3個点灯しているだけだった。(建物の空調等らしい)
掘り出したウラン鉱石からウランを取り出したり、原子力発電の燃料として使えるように精錬するための設備や機械が並んでいた場所には、現在はそんな設備や機械もバラバラに細かく解体されて、放射性廃棄物なのでドラム缶に詰められた状態で保管されている。
正直、見学は黄色いドラム缶が並んでいるのを見るだけなのだが、職員さんが一生懸命に説明してくれるので興味深そうに見学する。黄色いドラム缶を。
現在、この施設ではウランの採掘や精錬が行われなくなった代わりに放射性廃棄物の処理技術の研究が続けられているそうだ。
建物の見学が終わると最後にバスが何もない広場のような場所に止まる。
広場の奥に土手のようなものがあり、
ここもやはり土砂崩れしている。もしかすると見学が中止されていたのはこの土砂崩れが原因なのかもしれない。
坑道の上に設置されている装置からは機械音が響く。聞けば坑内にはラドンが充満するそうで、より万全を期すために見学の前に換気を行っているのだそう。
坑内に10分滞在すると胸部レントゲンの1/6回と同じくらいの放射線を浴びるのだとか。
すこし屈まないと頭をぶつけてしまうほど天井は低いが、ヘルメットを着用したのでぶつけても痛くない。
このような坑道や洞窟などに入ると、ひんやりとしていたり湿気を感じたりする事も多いが、このウラン見学坑道は換気がされているため外と温度や湿度は変わらない。
ウランと聞くと危険な物質で、厳重に管理された場所でのみ扱われる、いわば別世界のものだと思い込んでいたが、こんな山を数メートル掘り進んだだけで存在しているのに驚く。
まるでラピュタの映画に出てる飛行石の洞窟みたいだ。
これが見たくてわざわざ来たのだし、非常に綺麗なのだが、坑道の狭さによる圧迫感と暗さで心細くなってくる。感慨に浸ることもなく「早く出ましょう」と言ってサッサと出てきてしまった。
帰りのバスのなかで職員の方に「もしウランの採掘が採算がとれていたらこの周辺はもっと発展していた可能性もあったんですか?」と聞くと「そういう可能性もなくはなかったかもしれませんね」とかなり可能性は低そうだった。
最後の大トリなぜか施設の前の水槽で飼われているオオサンショウウオの見学だ。
なんと、推定年齢100歳以上なんだとか。
このオオサンショウウオは人形峠でウランが発見されるずっと前からこの場所で生きていて、この場所がウランの発見に沸き、そして採算が取れずに縮小していって現在に至る生き証人なのだ。
生き証人は石の下でただジッとしているだけだった。
今回のような撮影禁止の場所の雰囲気を伝えるのは難しいし大変だった。カメラって本当に便利な道具だなと再認識させられた。
カメラを初めて見た江戸時代~明治時代の人も「これでWEB記事を書くのが楽になる」と思ったに違いない。
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