横断歩道は手をあげて渡らないのか
横断歩道を渡る時には手をあげて渡りましょう。
先生だったのか親だったのかは忘れたが、子どもの頃にはそう教えられたように思う。
渡っていますよ、ということを車に伝えて確実に止まってもらうことが目的なのだろう。
それなのに今、街を見渡しても手をあげて横断歩道を渡っている人がいない。これは地域によるのかもしれないが、通学途中の子どもたちを見ても手をあげてはいなかった。



そういう僕も、大人になってから手をあげて横断歩道を渡ったことがなかったように思う。
子どもの頃は確かに上げていたのだ。おれたちはいつから大人になったんだろう、とチェッカーズは歌っていたが、横断歩道で手をあげなくなった時から、というのが答えなのかもしれない。もしくはたとえ話にチェッカーズとか言い出した時からか。
今日は初心に戻って手をあげて渡ってみようと思う。

右見て左見て
まずは右を見て左を見て、もう一度右を見て、である。
これは右を見て左を見ている間に、新しい車が右から来てるかもしれないから、ということだと思うのだけれど、この理屈でいくとその後でもう一度左を、そしてさらに右を、とずっと渡れないよな、と子ども心に悩んでいたのを思い出す。


無限ループに入らないよう気を付けつつ、車や自転車が通らないことを確認できたらいよいよ横断である。
手をあげて渡る

すがすがしい世界へ
交差点を渡っているのはわずか20秒たらずである。その20秒が新しい世界への入口につながっていた。
なんだかとても気分がいいのだ。手をあげることで背筋も伸びるし視点が高くなるからかもしれない。理由はいろいろあるのだろうが、とにかく気持ちがいい。他の人の目とか気になるかもな、と渡る前には思っていたが、そんなことはどうでもよくなった。
念のため大き目の交差点でもやってみた。



ちょっとまってこれ気分いい
やっぱり気分がいい。
まず「手をあげる」という行為自体がずいぶん久しぶりだったようにも思う。がんばって真上に上げていたはずなのだけれど、写真で見ると下がっている。
きっと普段から上げ慣れていないからだ。つまりやらなくなってから「手をあげて横断歩道を渡る」という機能が退化してきているのだ。やばいぞ。
手をあげて渡ることで周囲にも「渡っていますよ」と伝わるのだろう。混雑した交差点でも、まるで海が割れて陸が現れたかのように僕の目の前に道ができていった気がした。
その場では気分がよかったが、いまになって考えると少し避けられていたのかもしれないなとも思う。やり方によっては軍隊の行進みたいになりかねないので、コツとしてはひじが曲がるくらい力を抜いてへらへらしながら渡ることである。
写真を撮ってくれていた橋田さんがやりたそうな顔をしていたので体験してもらった。




そうでしょう!橋田さんがあまりにも嬉しそうに渡ってくるので勧めた僕としても嬉しかったのだけれど、むしろ僕よりも見栄えよく歩いてくるので全部もってかれたような気持ちにもなった。
僕が渡っている時に感じた「海が割れるような感覚」も橋田さんの周りには感じられない。こういうところにもこれまでのいきざまみたいなものが出るのだろうか。だとしたらたまんねえな。
大人になるとこういうこと言うようになるのも嫌ですよね。これからもたまに手をあげて渡って純粋な心を取り戻したいと思います。