話を聞きながら神社を参拝するのは楽しい
内情を聞いたり想像したりしながら境内を歩くのは楽しかった。
神職として奉仕をはじめて早数年、分からないことばかりだけれど少なくとも実務的なことは身に付いてきたのだ。変なところで自分の成長を感じた。
僕は神社で神職として働いている。
先日、学生時代に縁を持った友人のいる神社に遊びに行った。
そうしたら神社で仕事をする前と後では自分の視点が違っている事に気づいた。同業者の実務的な目線でものを見るようになっていたのだ。
神社の神職(神主)になるためにはいくつかの方法があるが、僕はとある学校に1年間通って資格を取得した。養成学校は数多くあるわけではないので、日本の各地から神職を志す人が集まってきて卒業後は散り散りになっていく。
そんな養成所時代の同期の一人が、うちの神社でプチ同窓会をしませんかと誘ってくれたので、岡山県まで参拝に行くことにしたのだった。
今回訪れた神社は、霊的な力を持った教祖が神示を受けて開いた教団のお宮である。いわゆる教派神道系の神社だ。そうは言っても普通に参拝する分には一般的な神社とあまり変わらない。
教派神道とは、かなりざっくり説明すると、教祖と教典を持つ哲学性の強い神道系の教団のことである。一般的な神社は教祖や教典を持たないので、人物や思想をしっかりとフィーチャーするのが教派の大きな特徴となる。
神職として神社を参拝したことも、逆に神職の方に神社を案内した経験もあるが、意外にも感想は実務的なことに終始する。
社殿は三間社流造なんですね、などと知識的なことを改まって話す人はあまり見たことがない。
同業者として喋りたくなるのは「祓串(お祓いの道具)はどうやって作ってるんですか?」だったり「お守りが素敵ですね」だったり、現場に即した身近な内容なのだ。
そんな目線でのぞむ神社参拝、はじめに目についたのは各所のしめ縄である。一般的には年末年始頃に取り替えるものなので、掛けられてからほぼ一年が経っているであろう秋頃にここまで綺麗な状態なのはすごい。
藁で手作りされた縄はすぐに雨風でボロボロになったり変色したりするのだ。ここはよっぽど環境が良いのだろうか。
悪くなったら交換しているのかもしれないが、それはそれで丁寧な奉仕ぶりと言える。また、素材がちゃんとした藁というのもポイントが高い。屋外にかけるものはすぐに劣化するので化繊製のしめ縄にしている神社も多いのだ。
神社の信仰は清浄を重んじるので社殿や参道は綺麗にされていることが好ましい。境内の掃除は大切な仕事なのだ。僕も毎朝の数時間は竹箒を握りっぱなしで、他にトレーニングもしていないのに腕と肩に筋肉がついてきたほどである。
上の画像は奉納された灯籠であるが、綺麗に手入れされていることが伝わるだろうか。台座部分に汚れはなく、傘の部分にクモの巣が張られているようなこともない。
たまに掃除して満足するのは簡単だけれど落ち葉は毎日降ってくる。虫は集まる。ホコリは溜まる。抜き打ち的にチェックしてこのクオリティはすごい。
話を聞いてみると、熱心な信徒の方が日々清掃に勤しんで下さっているとのことだった。さもありなん。俺にはわかる。これは信仰の賜物としか考えられない。
せっかくの参拝、まとまった金額のお賽銭を納めるつもりだったのに熨斗袋を用意するのを忘れてしまった。その旨を友人に伝えると出してくれたのが上の御初穂料袋である。住所や名前が書けるようになっていてこれは便利だ。
(編集注:初穂料は神社に納めるお金のこと)
芳名帳のそばに用意されていたペンが普段使っているものと同じで嬉しかった。「筆ごこち」はコツさえ掴めば書きやすくていいペンだ。まさに神社のお墨付き。
用具置き場を見てなぜだかウキウキする。4挺の刈払機はどう使い分けているのだろう。多人数で一気に刈ったりするのだろうか。棹に汚れがなく、丁寧に使われていることがひと目見ただけでわかる。
綺麗な水が出なくなった今は、飲水用のコップがかかっていたフックだけが残っているとのこと。こういう一見不可思議なものの説明には惜しげもなく興奮するほうだ。
教旗(印旗)を掲げるための塔がかっこよすぎたので紹介したい。
神社には旗を掲揚するための塔があるけれど、大抵それはポール一本程度の簡単なものである。このお宮では赤い鉄塔のようなものの先端にポールが取り付けられていた。形は鉄塔そのものではあるけれど送電線などは繋げられていない。
意匠に何か目的があるのかと友人に聞いてみたが分からないという。今は亡き先代が作ったのではないかということだった。つまり今では意味を知ることはできないのだ。
ところが、家に戻ってからで調べてみると「火の見やぐら」がこの鉄塔と似ていることが分かった。火の見やぐらとは火災を早く見つけるために使われていた塔である。
この神社は笠岡市内を見下ろす高台に鎮座しているので、火の見やぐらが建てられることに必然性もある。これは想像だけれど、時代が進んで役割がなくなったやぐらを、撤去するのはもったいないと旗の掲揚塔に改造したのではないだろうか!先代さま、いかがでしょう!!
話によると先代は境内にいろんなものを作ったり山道を舗装したりするのが好きだったとのことなので、やぐら改造説はいよいよ信憑性を増すのだ。
内情を聞いたり想像したりしながら境内を歩くのは楽しかった。
神職として奉仕をはじめて早数年、分からないことばかりだけれど少なくとも実務的なことは身に付いてきたのだ。変なところで自分の成長を感じた。
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