無料ガイドツアーに参加してみた
鳥取県倉吉市は、東西に長い鳥取県のちょうど真ん中あたりにある。人口は4万人ほど。
倉吉の町は、JR駅がある新市街地と、市役所などがある旧市街地の2つに別れているけれど、白壁土蔵群はその旧市街地の方にある。
7月、8月と倉吉にしばらく滞在していたのだが、毎週日曜日の午前11時にボランティアの人たちによる白壁土蔵群の無料ガイドツアーというのが開催されているということを知った。
今まであまりにも家(実家)の近くにありすぎて観光地としてあまり見たことがない白壁土蔵群だったが、改めて「観光地」として見るとなにか発見があるのではないか。そんな気持ちで、参加してみた。
案内してくれたガイドツアーのおじさんは、18歳まで倉吉で暮らし、大学と就職で東京と大阪にそれぞれ20年ずつ住み、リタイアしたときに故郷の倉吉にUターンして暮らしているのだという。
スタート地点の観光案内所近くの交差点にやってきた。
赤い瓦(石州瓦)の商家風の建物がずらりと並んでいる。
倉吉の町は、江戸時代には鳥取藩池田家の家老だった荒尾氏の陣屋(役場のような施設)が置かれ「自分手政治(じぶんてせいじ)」と呼ばれる鳥取藩独自の委任統治システムで統治された町だった。
しかしながら、子供のころはそんな知識はまったくなく、家から図書館に向かう途中にあるアーケードのある商店街という認識しかなかった。
ちょうど上の写真の商家は酒屋で、現在はお土産屋を兼ねてお酒の販売などをしているが、当時は営業をしておらず、表はずっと閉まっていた。
実は、倉吉の白壁土蔵群は1998(平成10)年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されるまで、ただの古い土蔵が残っている町というだけで観光地ではなかった。観光目的で訪れる人もいたかも知れないが、お土産屋のような観光客を相手したサービスは一切なかった。
筆者は1996(平成8)年に上京してしまったので、白壁土蔵群が観光地として発展していく様子をまったく知らなかった。2000年ごろに帰省したときに観光地化されているのをみて、おじさんになってから久々に会った友達がなんか恰幅が良くなりすぎて別人になってるみたいな衝撃を受けてしまった。
今は商家の表部分を見ている
おじさんの話によると、この商家のファサード部分は、京都の町家を参考に建てられているという。
屋根の高さを見ると、一番低い商家、それよりも少し高い商家、もうちょっと高い商家と一定でないことがわかる。
これは建物が作られた時代が違うからで、一番低いのは江戸時代に建てられたものらしい。
江戸時代の建物がなぜ低いのか? それは商人が2階建ての立派な建物を建てていかにも「儲かっている」ようにみせるのが憚られたため、1階と屋根裏程度の平屋のように見せている⋯⋯という理由らしい。
明治時代に建てたものは、そういった商家を控えめにさせるといった制約がなくなって屋根もだんだんと高くなり、昭和時代になると三階建ての建物なんかもできてくる。
ちなみに、上の写真の右側の工事中の幕がかかっているところは10数年ぐらい前までは桑田書店という書店だった。子供の頃は図書館に行く途中この書店にあった『藤子不二雄ランド』(中央公論社)を立ち読みして、表にあった「ロッチ」のシールを売っていたガチャガチャを眺めるのが楽しみだったが、今やそんな面影はない。
これらの商家の中に入ると、広い土間があり、商品を並べる畳敷きの小上りがある。
表から見ると、天井のかなり低い屋根裏部屋のように見えたけれど、2階部分のあるところは1階の天井も低く作ってあるので、普通に人が住める高さになっている。使用人などが住んでいたという。
南北に細長い町家の、南側の街路に面した方とは逆の北側は庭や蔵が建っており、涼しい風が通り抜けるように作られている。
そしてこの蔵が敷地の北側にある玉川という川に面しており、玉川横の街路に行くための石橋のある並びが「白壁土蔵群」という形になっている。
つまり「白壁土蔵群」というのは、倉吉の重要伝統的建造物群保存地区に指定された町並みのごく一部の呼称でしかない。

