知らないことが多すぎた
1時間ほどかけて、白壁土蔵群をいろいろと巡ったのだが、知らないことが多すぎた。20年住んでいた地元なのに!
本当に、世の中は知らないことだらけで、これからそれを知ることができると思うと、ワクワクするしかない。
というわけで、玉川沿いの土蔵群を鑑賞しつつ、歩く。
この玉川、水が透き通っているほどきれいなんだけど、おそらくそれはここ最近のことで、昔はそこそこの汚い川だったのではないか。
案内のおじさんが、川底を見ろと指差すので覗いてみる。
おじさん曰く、丸い木の年輪みたいなものが3つ見えるが、本来は4つあり、これは祭りの山車で使った車輪だそうだ。祭りで使う木製の部品を、川底に沈めて保存するというのはよく聞くけれど、倉吉にもそういうものがあったと驚く。
さらに、その周辺をよーく見てほしい。茶碗のかけらがいっぱい落ちているのが見えると思う。
実はこれらの茶碗は、今で言う「不燃物ごみ」を、昔の人が川に捨てていたその名残りらしい。
ごみ収集の仕組みがしっかりと整ってない時代は、紙や木材の燃えるゴミは燃料として焚付けに使って、陶磁器などの燃えないゴミは庭に埋めるか川に捨てるのが普通だった。
確かに、ぼくも子供の頃は紙やら木材やらの燃えるゴミは庭で燃やして処分していたな⋯⋯と思い出した。
中に入っていくつか拾って、一番古い時代のものがないか探したくなった。
倉吉のこの古い町並みは東西に流れる玉川に沿って長く連なっているのだが、その町並みの西端あたりに倉吉淀屋(旧牧田家住宅)という建物がある。
江戸時代1760(宝暦10)年に建てられた建物は、倉吉市に存在する商家建築のうち現存最古のものだ。
大阪の御堂筋に「淀屋橋」という橋があるが、江戸時代にその橋を個人の資金で架橋した淀屋という豪商がいた。
淀屋は北浜に米取引の市場を作り、先物取引の原型を作ったと言われ、一説には現在の貨幣価値にして100兆円(!)もの莫大な富を有したとされる。
ところが1705(宝永2)年「町人の分限を越え、贅沢な振る舞い」があったということで、闕所(けっしょ・財産没収の刑)となり、淀屋は没落してしまった。
「贅沢な振る舞い」というのはおそらく表向きの理由で、淀屋が諸大名に対して貸付けていた借金を棒引きにさせるため⋯⋯などいろいろあるといわれる。
さて、闕所となるよりも少し前、幕府からの処分があることを察知した淀屋は、当時番頭だった牧田仁右衛門の故郷の倉吉に淀屋の拠点を密かに移していたとされる。
仁右衛門は、淀屋清兵衛(倉吉淀屋)を名乗り、店は幕末まで続いたという。(牧田家は明治時代まで続いた)
この大坂の淀屋と倉吉の淀屋の関係は、倉吉淀屋の古文書などがあまり残っていなかったこともありよくわからなかった。しかし、1970年代に大蓮寺(白壁土蔵群の中にある寺院)にある墓が淀屋と関係があるということがわかり、現在の研究が少しずつ進んでいるらしい。
大坂の淀屋が闕所処分を受けた話は、中学校の歴史の授業で、先生から教わったことはよく覚えているけれど、その時はまさかこの話が倉吉と関係あるなんてことは知らなかった。
倉吉に関係ない人にとっては「だから何」という話かもしれないけれど、そこを、そこをどうにか腹に納めて「そうなんだ」ぐらいの感じで納得していただければ幸いです。
1時間ほどかけて、白壁土蔵群をいろいろと巡ったのだが、知らないことが多すぎた。20年住んでいた地元なのに!
本当に、世の中は知らないことだらけで、これからそれを知ることができると思うと、ワクワクするしかない。
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