まったく考えてこなかった最上義光のこと
ふいに山形県に行く用事ができた。せっかくだからと、事前に山形に関する本を読んで行こうと思い、伊藤清郎という人の書いた『人物叢書 最上義光(吉川弘文館)』という本を購入してみた。
私は歴史に疎く、戦国武将のことはぼんやりとしか知らない。山形の隣、宮城県と言えば伊達政宗が有名だが、山形はどうだ。山形で有名な武将と言えば最上義光か、米沢藩の上杉家あたりらしい。
特に今回私が行く予定の山形市には最上義光ゆかりの土地が多いようなので、今回は最上義光について学んでから行くことにした。
最上義光に関する本も探せばたくさんあって、歴史小説も数多く、それも面白そうだったのだが、とりあえずは入門書となりそうな、できるだけシンプルで史実に沿っていそうな『人物叢書 最上義光』を選んでみた。
まえがきを読むと、著者の伊藤さんが最上義光に興味を持ったきっかけの一つとして、大河ドラマなどでの「義光の人物像の設定に疑問を感じていた」とある。
どうやら、最上義光は策略家で非情な人物として描かれがちらしいのだ。かといって山形が誇る名将として「過度の評価をしてはならない」とも書いていて、信用できる本だと思った。
で、全体を読んでまず思ったのが、「最上義光の頃って相当大変だったろうな」ということだった。最上義光は家督相続をめぐって父と揉める。
最終的には父が劣勢となって隠居し、争乱は収まるが、一時はお互い兵を出し合うほどに激しく衝突していたらしい。さらに、後に義光は自分の長男とも不和となり、結果的にその長男は義光の家臣によって殺されている。
父や子であっても激しい権力争いにさらされ、仙台の伊達家からは常に圧力をかけられ、近隣の勢力と競り合いながら領土を拡大していった。気の休まる間のない一生だったのではないか。
それでもとにかく最上義光の功績によって、最上家は57万石という、当時全国5番目の規模の大名になっていた。最上義光の居城だった山形城も、義光が城郭を広げた結果、東北一の広さを持つものになったという。
まあ、義光の死後、最上家はお家騒動などがあって幕府に改易(身分を取り上げられること)されてしまうのだが、最上義光という山形の一武将が全国に名を轟かせた時代がたしかにあったのである。
ということを踏まえて山形へ向かう
と、以上のようなことを理解した上で山形へ向かう。新幹線の中でも本を読み返した。今までまったく考えてこなかった最上義光の足跡を今、たまらなく求めている自分に気が付く。
JR山形駅から歩いて10分もかからない位置に「霞城公園」という公園がある。「かじょうこうえん」と読むこの公園、両親が山形出身である私は幼い頃から何度も来たことがある。親戚たちが「霞城公園」という名前を口にしているのもたくさん聞いてきた。
なのだが、今ようやく意味がわかった。「霞城」とは山形城の別名で、「北の関ヶ原」とも呼ばれる長谷堂合戦(関ヶ原合戦が波及して起きた最上家と上杉家の戦い)の際、城郭が霞に隠れて見えなかったというのでそう呼ばれているらしいのだ。
ただの広い公園だと思っていた「霞城公園」が山形城の城跡を基にした公園だったなんて!もう、それだけで「何も知らなかったんだな、私は!」と衝撃を受けてしまった。
山形城が築城されたのは1356年、最上家の祖である斯波兼頼(しばかねより)によってだと伝わっているが、現在の霞城公園の城跡は、その後に最上義光が拡張した城郭や、最上家改易後の時代をベースに復元されているらしい。
とにかく、この公園内を歩くだけで最上義光の時代に思いを馳せることにもなるわけだ。繰り返すが、今までは“ただの広い公園”としか思ってこなかった場所が、である。本を一冊読んだだけで、楽しいな!
というか、山形城の遺構はほとんど明治時代に壊されたり埋められたりしたらしいのが、かなりの時間をかけてここまで復元されてきているらしい。
復元作業は現在も続いていて、そのための発掘調査だけでも2033年までかかる予定なのだとか。これからわかってくることもあるんだろう。