歩き遍路の醍醐味は、昔ながらの遍路道
光陰矢の如しとは言ったもので、恐ろしいことにもう12年も前のことになるのだが、2011年に約2ヶ月かけて歩き遍路を完遂した。
歩き遍路をやる動機は人によって様々であろうが、私の場合は「昔から人々が歩いてきた遍路道を歩きたい」というのが主目的であった。
遍路道は基本的に旧街道など昔から地域の人々が利用してきた道筋をたどっており、遍路以外にとっても重要な道である。故に現在は舗装路で上書きされていることが多く、特に平地の区間は顕著である。
一方で山道になると、車道は傾斜のキツい箇所を迂回して通されるので、古道がそのまま残っていることが多い。
このように、歩き遍路をやっていると様々な遍路道と出会うことができる。昔から現在に至るまで、大きく変わっていないであろう古道の風景を満喫することができるのが歩き遍路の醍醐味だ。
一方で、昔ながらの古道であっても、様々な理由によって現在は歩く人が少ない遍路道も存在する。私が歩き遍路をした当時には、歩くどころかその存在すら知らなかった古道も少なくないのだ。
そのような、歩き遍路の時には歩かなかった遍路道を歩くべく、2020年秋と2023年春にカブ(原付バイク)で四国を周ってきた。
第31番札所の竹林寺へと続く遍路道
最初に紹介するのは第31番札所の竹林寺へと上がる遍路道である。竹林寺は高知市南東部の五台山にあり、山麓から境内まで通じる遍路道が全部で4つ存在する。
そのうち現在最も多くの歩き遍路が利用しているルートが北側から続く遍路道である。私も歩き遍路ではこのルートを通った。
ところが、江戸時代に最も多く利用されていたルートは、西麓から続く遍路道であったと思われる。
今でこそ五台山は陸続きであるが、それは明治初頭の干拓によるもので、かつては浦戸湾に浮かぶ島だった。
なので江戸時代は高知城下から船で西麓の吸江(ぎゅうこう)へと渡り、そこから竹林寺へと上る西ルートを歩いていたのである。
青色が現在の主要ルート、赤色が江戸時代の主要ルートである
今でこそ歩く遍路は少ない西ルートであるが、しかしながらその道筋はしっかり残っており竹林寺まで通行が可能である。
こうして見ると、西ルートは北ルートよりも明らかに道幅が広く、石段もきちんと整備されている。道端に残る石造物も非常に立派だ。
そのような道の様子からも、かつてはこの西ルートこそが竹林寺への主要参道であったことがうかがえる。
八幡浜と第43番札所の明石寺を結ぶ八幡浜街道・笠置峠越
お次は愛媛県西部の八幡浜(やわたはま)に残るふたつの古道を紹介したい。まずは八幡浜と南側の宇和町を結ぶ八幡浜街道の「笠置峠越(かさぎとうげごえ)」である。
八幡浜と宇和町の境にある、かつては遍路も歩いていた峠道だ
佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜は古くより天然の良港として栄えた港町で、九州から渡ってきた遍路の玄関口でもあった。
四国遍路最大の特徴は、すべての札所が遍路道によって環状に繋がっているという点である。必ずしも第1番札所から歩き始める必要はなく、四国に上陸した遍路は港の最寄りにある札所から始めていた。
なので八幡浜から四国に入った遍路が最初と最後に歩いたのが八幡浜街道である。現在の四国遍路でこの道を歩く人は極めて稀だろうが、昔は遍路も歩いていたので遍路道に含めても良いだろう。
祠の横にあった説明版によると、右の石仏は大日如来像、左は馬頭観音像であるという。大日如来は牛、馬頭観音は馬を守護する仏であり、街道を行く牛馬の安全を祈願して祀られたのだ。
かつては多くの人々や荷物を積んだ牛馬が行き交っていた、八幡浜街道の活気が偲ばれるというものである。
この地蔵尊の台座には「あげいし」(第43番札所の明石寺)や「いづし」(大洲市の出石寺)、「やわたはま」の名と距離が刻まれており、この街道が遍路道であった歴史を物語っている。
また笠置峠から尾根伝いに南へ少し行ったところには、古墳時代前期に築かれた前方後円墳である「笠置峠古墳」も存在する。
古墳は権威の象徴であり、集落や河川、街道からの眺望を意識して築かれるものだ。この場所に古墳が存在することからも、笠置峠は地域の主要路として重視されていたことが分かる。
遥か古代より人々が歩き続けてきた、いやはや実にロマンあふれる古道ではないですか。
八幡浜と大洲城下を結ぶ八幡浜街道・夜昼峠越
先ほどの笠置峠越は八幡浜から南側の宇和盆地へと通じる街道であるが、東側の大洲方面へと通じる街道も存在する。その名も「夜昼峠越(よるひるとうげごえ)」である。昼でも夜のように暗いというのが由来らしい(諸説あり)。
八幡浜と大洲の境にある、やはりかつては遍路も歩いた峠道である
その名の由来通り、夜昼峠は笠置峠よりもさらに鬱蒼とした山道なのだろうと想像していたのだが、実際の夜昼峠は様相がかなり異なっていた。こちらは峠まで開墾され、農地が続いているのだ。
夜昼峠の八幡浜側は開けていて明るい道であったが、大洲側に入った途端に薄暗い山道となった。この明暗のギャップこそが夜昼峠という名の由来だったりするのではないだろうか。
なお、先ほどの笠置峠は全区間が国土地理院の地図に記載されているのに対し、こちらの夜昼峠は八幡浜側だけの道筋しか記されておらず、峠から先の大洲側は記載がない。
おそらく明治時代に道路(現在の国道197号線の旧道)が開通し、開墾されている八幡浜側はその後も農道として維持されたものの、大洲側は廃道となり地図の表記がなくなったのではないだろうか。
長らく歴史の中に埋もれていた夜昼峠の大洲側であるが、近年になって復興が進められ、こうして歩けるようになったのだと思う。まだ土が踏み固められていないのはそのためだろう。
さて、夜昼峠越の古道は途中で明治の旧道と合流して集落に差し掛かるのだが、そこには行き倒れた遍路を祀る「遍路墓」が現存しており、この街道が遍路道として利用されていた歴史を伝えている。