辞書に聞く「沼」の定義
そもそも沼と池の違いをよくわかっていない。まずはそこからだ。
湖沼学的には、成因や生物の生息環境、高度などさまざまな観点によって分類が異なるようだ。
しかし今回はあくまで一般的な分類について知りたい。
図書館に行って辞書を引いてみることにした。
新明解国語辞典 第七版によると沼は「水が自然にたまった、泥の深い所。アシなどが生えていることが多い。」とある。
うんうん、泥がある感じ、わかる。ちょっと汚そう。
対して池は「㊀川の水を引いたり、雨水を集めたりして、養魚・灌漑・上水などにあてるくぼ池。〔広義では、自然にできたものも含み、その際は沼とほとんど同義。湖よりは小さく、沼よりは水が澄んでいるものを指すことが多い〕……」だそうだ。
沼は自然にできたもので、大きさは池と同じで、でも池より濁っているらしい。
なんかこう、わかるようではっきりしない感じがある。
沼と池の違いの明確な定義はない
もっとズバッと定義してくれないものだろうか。ある本にこんな情報があった。
「結論から述べると、池、湖、沼の区分に明確な定義はない。強引に区分するなら、人工的に造られた水たまりが池、自然の力でできた大きくて深い水たまりが湖、湖に比べて小さくて浅い水たまりが沼といったところか。……
法的にも区分は明文化されていない。環境省が所管する「湖沼法(湖沼水質保全特別措置法)」という法律があるが、特定の湖沼のみを対象にした環境保全が目的だ。そのほか、河川法、土地改良法、都市計画法などの適用は受けるが、池、湖、沼の分類は、法律の寄るところではないようだ」
なんと、沼と池の違いは法的にも定義されていない。
日本人はもうずっとふわふわっとしたイメージで沼と池を使い分けてきたのだ。そんなことあるんだ。
ややもすると「沼る」ではなく「池る」という言葉ができていたかもしれないわけだ。
でも池にはまっても、なんだか沼よりはさわやかで、すぐに抜け出せそう。
沼の「ぬ」の響きが醸し出すじめっとした印象が大事なんだろうなと思わされる。
人生初、沼を見に行く
沼と自然にできた池がほぼ変わらないことはわかったが、水場リテラシーの低い筆者は自然にできた池自体を見たことがないので「アレか~!」とはならない。
となるともう見に行くしかない。沼って近くにあるんだろうか。
Wikipediaで調べてみたところ、埼玉県には沼が31か所も存在していることがわかった。
特に久喜市から加須市にかけては13面もある。ちなみに沼の単位は面だそう。
久喜といえば半蔵門線に乗るときによく見る地名だ。早速行ってみよう。
沼が憩いの場となりえる世界、久喜菖蒲公園
訪れたのは駅から自転車で20分ほどの久喜菖蒲公園。
敷地内に昭和沼なるものがあるらしい。
ジョギングやサイクリングコースがあって地域の総合公園のイメージそのものだ。
ここに記念すべき人生初沼が待っている。
31.3ヘクタール、周囲2.2キロメートルで深さは10メートルだそう。大きい上に深い。
初っ端から自分の中の「沼」像とはかけ離れた沼に遭遇してしまった。
噴水はついているし、スワンボートもあるし、カフェが併設されている。全然汚くないしどろどろもしていない。
みんな沼を囲って憩っている。湖畔のほとりじゃなくて沼だ。
「みなさん!ここは沼ですよ!あの泥んこでハマったりするやつ!」と言いたくなる。
たしかに印旛沼なんかは綺麗な水辺で有名だし、美しい沼があっても不思議ではない。
SMAPで言うところのキムタクみたいな、美形担当みたいなポジションの沼なのかもしれない。
わたしは死ぬまでSMAPでアイドルを例えるぞ。
より「沼」な沼を求めて
「沼る」のイメージに近い、汚めな沼がみたい。
昭和沼から自転車で20分ほど南下したところにある柴山沼に行く。白岡市の沼だ。
道中は田んぼ道や、小川が流れている小道があったり、遅れてきた夏休みみたいな風景が広がっていた。レンタルした自転車でのどかな道を走る。もうこれだけで楽しい。
沼の粗探しをしているようで、このどろどろとした自分の心の汚さこそが、自分のイメージする「沼」なのではないかと思えてくる。
そんな己の情緒の起伏と戦いながらも柴山沼に到着。
昭和沼はコンクリートで護岸されていたが、柴山沼はそれがない。
土と水が交わっている境界線に「沼」を感じる。
足を踏み入れたらハマらずともきっと泥がつくな、という想像が簡単にできるからかもしれない。
そして2面の沼を見てわかったこと。沼、思ったよりかなり大きい。
柴山沼は12.5ヘクタールで昭和沼の1/3程度ではあるが、その全貌を視界に納めきることはギリギリ難しい。
でもねと。ちょっと見てくださいよと。
アングルを変えるとまたしても印象がガラッと変わってしまうのだ。
ちょっと沼~。あんたさあ……綺麗じゃない?
だんだん自分の中の沼像が崩れていっているのを感じる。
あきらめない。汚い沼を探してやるぞ!
沼、それは綺麗な水辺
意地と根性でこのあと栢山沼、弁天沼、油井ヶ沼、大室沼の4面の沼を訪れた。
いずれも大きさこそは昭和沼よりかなり小さめなものの、コンクリートで護岸されたかっちりとした人工的な長方形だった。残念なことにどこも綺麗だ。
夕暮れ時に訪れた油井ヶ沼に、こんな案内板が掲示されていた。
洪水の影響でできた自然堤防の周辺に現れた低湿地を、農地を守るために整備し、用水としても利用している。このため加須市周辺には数々の沼があるというわけだ。
つまり、現在残っている沼は氾濫しないようにどこも整備されている。
日本中の川なんかも大体そうだし、当たり前といえば当たり前だ。
しかし、人の手が加わっているものを沼として受け入れることにどこかギャップがある。
調節池という「人工ですよ!」というメッセージの伝わる名称の方がしっくりくる。
沼は意外と綺麗だ。この事実は認めざるを得ない。
それでも、SNSで「沼」と検索すると「沼にハマる」「沼に突き落とされる」「沼が深い」といった表現があふれている。沼は湖よりも浅いとされているのに、だ。
この表現上で指している沼とは、いわゆる「底なし沼」とか「泥沼」の類だ。
単純に略して「沼」と呼んでいるというのもあるかもしれないが、これってもしかして、仰天ニュースとか、奇跡体験アンビリバボーでたまにやる、外国で底なし沼に足を取られて体ごと沈んでいってしまい、万事休す!みたいなエピソードの印象もそこそこ影響しているんじゃないか。だとしたらメディアの影響ってすごい。
沼に沼ると、お尻を壊す
6か所の沼を巡るために一日中ママチャリを漕いだ結果、帰りの電車で座ることが苦痛で仕方なく、翌日は寝るか立つかしかできない体となった。
沼に真正面から向き合い、沼の沼にハマった代償だ。
それでも、沼の美しさを知れたし、途中で立ち寄ったJA直売所で買った梨がめちゃくちゃおいしかったし、いいことづくめの旅だった。
そこにある綺麗な沼 < まだ見ぬ底なし沼
モノを呼び分けるのは、その対象物が身近にあって、分類する必要があるからだ。
現代を生きるわたしたちにとって、沼はもはや直接見るものではなく、外国のドキュメンタリー映像でみるものが一般的であり、「沼=底なし沼」のイメージが定着している、というのが今回筆者が辿り着いた仮説だ。
今回行った沼を含む、加須市周辺の沼15面をピックアップした沼マップを作成した。
沼マップ
こうしてみると加須地方には本当に沼がたくさんある。
ご自身の沼観を変えたいという方、お尻を壊したい方は是非行ってみてね!
【参考文献】
・飯田貞夫『やさしい陸水学(改訂版)』文化書房博文社,1993
・市原千尋『日本全国 池さんぽ』三才ブックス,2019
・「久喜菖蒲公園(埼玉県久喜市)/公園へ行こう!」
・白岡市公式サイト「白岡キーワード百科>し」