タイトルの強さに惹かれ、読んで期待を裏切らない
道尾秀介さん。著作の累計部数は600万部に迫り、今年2月には『HIDE AND SECRET』で歌手デビューも果たした(作詞・作曲もご本人)。
多彩なベストセラー作家にデイリーのベスト盤を聞くと、小説家ならではの視点や分析を織り込みながら丁寧に解説してくれた。
恐れ多くも同じ「書き手」として、デイリーの記事やライターに共感したり、時に嫉妬を覚えることすらあるという道尾さん。どんな記事に対して、そう感じるのか? そして道尾さんが記事から読み解いた、物書きの宿命とは?
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道尾秀介さん:デイリーポータルZを読むのは、主に仕事の合間です。小説のゲラをチェックしたり、新しい原稿を書いたり、別の作業に取り掛かる間の、クスっと笑って気分転換したい時に開くことが多い気がします。
印象に残った記事で、まず思い浮かぶのは「モチモチの木を餅で作った」。僕は自分の小説(『風神の手』)のテーマにも使っているくらい『モチモチの木』の絵本が好きなんです。滝平二郎さんの印象的な絵を、餅でそこそこしっかり再現していて、画像を見ているだけで楽しくなる。もちろん、要はだじゃれなんですけど、実際に印刷された作品のクオリティに原作へのリスペクトが感じられます。読んでいて、この餅ほしいと思いました。
「モチモチの木を餅で作った」もそうですが、タイトルだけで惹かれる記事が多いですよね。どれもすごく端的じゃないですか。何が書いてあるか、タイトルだけでわかる。それって小説だとなかなかできないですからね。タイトルでテーマがわかっちゃったら面白くないから。
「飲み屋の自称を愛でる」もいいですね。猛烈に興味が湧く。自称ってなんのことだろうと興味を引かれて、実際に記事をひらいた瞬間、ああなるほどと納得する。タイトルとして理想的だし、小説には使えない手法だから、羨ましいですよ。小説の場合は長いから、中身を読んでるうちにタイトルのこと忘れちゃいますもんね。
看板を撮って回るという発想もすごい。言われてみれば確かに、看板の様子からなんとなく出てくる料理が想像できたりしますもんね。文字の色やフォント、漢字を開くか閉じるか、「食う」を「喰う」と書くか、「飲む」を「呑む」と書くかどうかで、イメージや期待するものがまるで変わる。友人が8月に神田で「そうだら」という名前の料理屋を始めるんですけど、まさにこの「自称」の部分で悩んでいたので、この記事のURLをすぐ送りました。
あまり気づかれないんですけど、じつは小説もゲラにする時、めちゃめちゃフォントを選ぶんですよ。ホラー系の話だったら、少し怖い雰囲気のものを採用したり。特に単行本はいろいろと変えているので、ぜひ見比べてみてください。
ちなみに、僕がこれまで一番すばらしいと思った飲み屋の自称は「潮騒料理」です。いかにも魚が美味しそうに感じられる、素晴らしい自称だと思いました。
小説の創作に通じる「架空の人物で人相占い」
「架空の人物で人相占いをすると感情移入がすごい」も、タイトルで結末まで全部書いてしまっている記事ですね。ここまで具体的に書いてあると、詳細を知りたくなる。
この記事は、作家として共感する部分が多くありました。小説を書いているとき、登場人物に感じることと一緒だなと思ったんです。小説って、最初にある程度のキャラクター設定を決めておくんですけど、ストーリーを書き進めていくうちに最初の設定になかったことが付け加えられていくんですよ。他の登場人物の影響や物語のうねりのなかで、全く用意していなかった口癖がいつのまにかできあがっていたり、じつは悲しい過去があったという背景が急に生まれたり。そういうとき、書きながら猛烈に感情移入しはじめるんです。
この記事もそれに似ていて、最初に「スペック」を設定していますよね。でも、人相占いをするうちに予想もつかない一面が出てきて、どんどん肉付けされていく。「そうそうそう!」と頷きながら読みました。
ちなみに僕が小説を書く時は、登場人物の人相をある程度イメージしています。書き進めるうちに、より明確になっていきますね。たとえば、8月に文庫になる『満月の泥枕』という小説に出てくる「安藤ちゃん」というキャラクターは、完全にデイリーの安藤さんの顔を思い浮かべながら書いていました。酔っ払ってケンカしはじめた主人公の腹に掌打を叩き込むキャラクターです。
ただ、自分の頭に浮かんだ容姿を事細かく文章に落とし込むことはしません。人によって、文章から想像する顔は違いますから。
どんなキャラクターでも、容姿に関してはなるべく具体的に書かず「ひと筆書き」くらいの表現に留めておく。たとえば、一瞬見せた目つきとか、目にかかった髪をかきあげる仕草とか、匂いとか。それらを文章のなかに紛れ込ませ、僕の頭にあるものと近い顔をぼんやりとイメージできるようにして、残りは読者に埋めてもらいたいと思っています。
人気作家が嫉妬する「書き出し小説大賞」
「街中で見かけるロゴを集めてキーボードを作ってみた」は、タイトル下の画像を見て「これほしい!」と思いました。それと同時に、集めるの苦労しただろうな…と。実際、「Q」の文字がなかなか見つからなかったみたいですけど、読みながら「Qパーク」っていうコインパーキングがあるよって教えてあげたくなりましたね。こういう、自分でやる気力や勇気はないけど、デイリーの人がやったのを擬似体験して満足できる記事って、読んでてすごく満足感があります。
食べ物系の記事も好きで、最近だと「アイスのコーンに肉を詰めろ」がよかったです。肉はおいしい。コーンもおいしい。一緒にしたら、やっぱりおいしかったと。
確かにコーンってアイスのためのものと思いこんでいたけど、味に際立った特徴があるわけじゃないし、何にでも合わせられそうですよね。「パイ包みシチュー」みたいな料理もあるし、塩気にもマッチしそうだなって。
これは実際にやってみたくなりました。とても実用的な記事だと思います。
そして、なんといっても「書き出し小説大賞」ですね。単行本も持ってますし、いつも勉強させてもらっています。キラキラ光る作品がたくさんあって、作家じゃない人にここまでやられてしまうと嫉妬しちゃいますよ。
たとえば「あのユンボを動かしているのは女子高生だ」。
冒頭からギャップに引き込まれますが、僕にはこういう書き出しはできません。なぜかというと、小説って書店で1ページ目を読んで買うかどうか決める人がわりといるんですよ。その時に1行目の3文字目から「ユンボ」という言葉が出てくると、ユンボを知らない人に敬遠されてしまう。考えすぎかもしれないですけど、怖くてやりづらいんです。
でも、実際にこうして「小説の書き出し」として読んでみると、魅力的だし意外とわかりやすい気もする。勇気をもらえますね。そういうのも、やっちゃっていいのかなと思わせてくれます。
おもしろレポートを書く技術
デイリーの記事で知った場所に、足を運んでみたこともあります。「仙台を見下ろす大観音がすごかった」に出てくる、高さ100メートルの観音像。でも、実際に行ってみると「でかいな〜」という感想で終わっちゃうんですよね。デイリーのライターさんと同じものを見ても、僕にはこんなにおもしろおかしく書けない。
僕はフィクションばかり書いていて、こういうレポート系はやったことがない。同じ物書きでも向き不向きがあると思ったし、自分の目で見た事実をおもしろくレポートするというのはすごい技術だなと改めて感じました。
「できたて缶コーヒーはうまいらしい」も、おもしろいレポート記事でした。オチも理想的ですよね。めちゃめちゃおいしいという結果なんだけど、熱処理をしていないから出荷はできないという。
これはしっかり結果が出たからいいけど、できたてを飲んでみてたいしたことなかったらどういう記事になったんですかね? 苦労して工場長の許可を取って、わざわざ遠くまで行ってイマイチだったらどうするんだろうと思ってしまいます。それでも書き方次第でおもしろくなるのかな。とにかくそのチャレンジ精神に感動します。
僕も小説で地方の話を書く時は、モデルに見立てた街を旅しますが、収穫がなかったらどうしようと不安になりますもん。収穫がないと、自分の中でそこに「おもしろいものがなかった」という印象がついてしまって、ちょっと書きづらくなってしまうんです。ただ、実際にはあまりそういうことはなくて、たいてい何か起きてくれるんですけどね。
全てに意外性を求めてしまう人生
たとえば、たまたま入った漁港近くのスナックで「ごめんね、今日はつまむものが何もないの。キンメの煮付けくらいしか」と言われたりする。いやいや、キンメの煮付けなんて最高じゃないですか。それを申し訳なさそうに「何もない」というママの言葉から、海辺の豊かな食生活が想像できる。東京の飲み屋で、そんなことは起きませんから。
結局、僕らって何事にも意外性を求めてしまうんですよね。それはデイリーポータルZのライターさんも小説家も同じで、物書きの共通点だと思います。予想を裏切られる展開があったほうが、読み物としてはおもしろい。そんな、常にネタを求めるような人生が幸せなのかと問われると、正直わかりませんけどね。
こないだ、かっぱえびせんをチョコでコーティングした期間限定商品を食べたんですよ。僕はチョコもかっぱえびせんも好きで、かなり期待して買いました。で、おいしかったんです。めちゃくちゃおいしかったんです。
でも、想像と1ミリも違わない味でした。ぴったり予想通りの味で、すごくおいしい。それは最高に喜ばしいことのはずなのに、どこか残念に感じている自分がいるんですよ。ちょっとまずかったらいいなと、心のどこかで考えてしまっている。
他にも、期待を裏切られたり、旅先で恥ずかしい大失敗をしたりするのは嫌だけど、泣きたくなる一方で、これもネタになるぞと思ってしまう。伊集院光さんもラジオでそんなことをおっしゃっていましたが、とても共感します。
ある意味、「ネタにできる」ということがネガティブな出来事の緩衝材になって、ダイレクトにダメージを負うことを防いでくれるとも言えますけど、ポジティブな出来事も100 %の自分で喜べない。これじゃ意外性がなくてつまらないよと。「いいこと」に不満をおぼえちゃうんです。小説家も、デイリーポータルZのライターも、そんな毎日を送るのは宿命なのかもしれないですね(笑)。