閉塞感や不安感をおぼえる場所
今までで一番心細かったのは、瀬戸大橋の途中で降ろされる「岩黒島バスストップ」である。
取り残されると島から出られないという、後に引けない恐怖感がある。どうやら自分は、閉塞感や不安感を味わえる場所(ただし安全)が好きらしいことが判明した。
全国に数多あるバス停のなかには、高速道路上に設置されているものもある。「高速バスストップ」とも呼ばれる、そのバス停の魅力を紹介したい。
高速バスに乗っていると、途中でバス停に止まることがある。大半の乗客にとっては、「あ、いまどこにいるか分からないけどバス停に止まったな~」と一瞬だけ意識下に浮上したのち、すぐに忘れるレベルの些細な出来事であろう。
でもあのバス停(高速バスストップ)が気になる。まずもって高速道路上にあることが異質である。そもそも利用者は、どうやって徒歩で高速道路に上がってくるのだろう。これは使って確かめてみる必要がある。
私は以前「JR全線乗りつぶし」をしていたこともあって、高速バスも頻繁に利用していた。旅の目的が「移動」であっても苦にならない移動好きなので、あえて遠回りして高速バスストップから乗車するよう心がけてみた。
そうしていくつかのバス停を巡っていると、「ちょっとこれは異世界ですぞ!」と思うに至ったのである。詳しく説明しよう。
ある晴れた日の午後、「名神高槻」という高速バスストップを目指して、私は路線バスに乗っていた。高速道路上のバス停は、当たり前だけど高速道路上にある。鉄道駅とのアクセスなんか考えられてないので、正直に言って大変行きづらい。なので仕方なく、高速バスのバス停へ向かうために、路線バスに乗ったのである。
なかには鉄道駅直結の高速バスストップもある(後述)。でも、この回りくどい移動を経てたどり着くバス停が一番魅力的に感じる。「周囲から浮いたところにポツンとある」という異物感が好きなのかもしれない。
私の旅は、大半が一人旅である。日常から離れ、自分の知っている街、知っている人から距離を取ることで、俗世から離れてフワフワと浮遊したような気分になれる。そういう旅のスタイルにマッチするのが、まさに高速バスストップなのだと思い知った。
やがて入口とおぼしき場所に到着した。辺りは車通りも少なく、普通の静かな住宅街だ。そんな中に、突如現れた入口。周囲には案内もなく、ただ長い階段と扉があるのみである。
高速道路には、もちろん徒歩で立ち入ることができない。正面突破なんてもってのほか。でもそんな危険な場所へといざなう入口が、住宅街の脇にポッカリ空いているのだ。日常のバグのようでたいへん魅惑的である。
「日常空間と非日常空間(高速道路)とをつなぐワームホール」、それが高速バスストップの入口なのだと感じた。少なくとも私にはそう見えた。
入口は、簡単に開いてはならない事情がある。なにせ扉の内側は高速で車が行き交う高速道路である。子どもが遊びで入ったり、犬や猫が侵入すると大惨事になる恐れがある。そのため、軽い力ではビクともしないようになっている。
閉まりかけた次元の狭間に手を差し入れ、最後の力を振り絞ってワームホールを広げる。そんなSFの主人公になった気持ちで、重い引き戸に手をかける。グギギギギ……と音を立てながら、ゆっくりと扉は開いた。
と、次の瞬間、隙間からブワっと吹き出してきた空気のかたまりが、顔面を包み込んだ気がした。思わず目を細める。
これが高速道路か……! 扉を開けた瞬間に、長閑な住宅街の空気から一変した。
まず音である。さすが防音壁があるだけあって、壁の外側は静かなものであった。それが扉を開けた瞬間から、響き渡るエンジン音。そして空気。高速で走る車から吐き出された排ガスが辺りを包み込む。ドドドドド……!
モータリゼーションが悪いとは思わないけれど、一言でいうと暴力的な風景である。扉ひとつを挟んで、世界が一変したと感じた。ワームホールを通じて、われわれは異世界へと足を踏み入れたのだ。そこは鉄の塊が猛スピードで行き交う世界。生身の人間はひとたまりもない。恐ろしいところに着いたぞ、と身構えた。
ベンチに座っていると、当たり前だけど自動車がものすごいスピードで通り過ぎて行く。おまけにこの「名神高槻」は、バス停と本線の間を遮るものが何もない。ちょっと間違って足を踏み入れると、文字通り死が待っている。
駅のホームで電車を待っているとき、特急列車が猛スピードで走り抜けていく。あのときと同じ感覚を抱いていた。はっきり言うと、怖い。
待合所は、いわば安全地帯である。目の前に新しい世界が広がっているのに、生身の人間はそこから出ることができない。たった数メートル前方の風景が、はるか遠くに感じられた。
高速道路も人間が作り出したもののはずなのに、人間の理が通用する気がしない。まさに異世界……! バスを待つ間、目の前にある「死」と向き合うことで、改めて人間の「生」について考えを巡らせることになったのであった。
こうしてバスを待っていると、もうひとつの怖さが襲ってくる。それは「本当にバスが来て、ここから脱出できるんだろうか……?」という不安である。身体ひとつで異世界に飛び込んで来られたのも、このあとバスが来てくれるという確信があったからだ。来てくれないと困る。
でもこんなバス停にひとりポツンと座っていて、もし見過ごされたらどうしよう。普通のバス停でも同じ悩みを抱えてしまう私だが、高速バスストップではその悩みが5割増くらいになって襲いかかってくる。とにかく不安だ。死と、そして取り残される不安と対峙する。異世界ってやつは、かくも苦しいものなのか。
そんな不安をよそに、やがて時間通りに高速バスはやって来て、何事もなかったかのように私は車中の人となった。ひとたびバスに乗ってしまえば、車窓から見える景色は「日常」である。高速道路に抱いた恐怖感や暴力感は、バスの中からは感じることができない。
バスの中では、人は「人側」ではなく「自動車側」の立場になるのだ。あの不安感、恐怖感は、高速バスストップに降り立った人だけが味わうことのできる「非日常」なのだと思い知った。
さて、こうした体験を経て高速バスストップに魅力を感じ、精力的に巡るようになっていった。ところで、この異世界転生感には覚えがあった。大阪の埋立地「夢洲」を巡ったときにも似た感覚があったのだ。
この世の中には、自動車だけが生きられる世界というのが確かにあって、そこに生身で乗り込むことで、人間の脆さ・儚さを知ることができる。積極的に味わいたい感覚ではないけれど、強烈な非日常感が味わえるのは確かである。
私が心動かされたのは、いま紹介したような「扉を開けて高速道路内に入る」タイプの高速バスストップ(ワームホール型と命名)である。ただ全てのバス停がこうではなくて、いろんなパターンがある。せっかくなのでいくつか紹介したい。
まずは、「高速道路を一旦降りたところにバス停がある」というパターン。
これらのバス停は、比較的やさしさに溢れている。本線とは離れているため、先に述べたような高速特有の暴力感を全身に浴びることがない。ただやさしい反面、個人的には物足りなさも感じてしまうのであった。
駅から離れたところにあるバス停ばかりではない。先の「高速長岡京」もそうだけど、駅直結のバス停もいくつかある。
過疎っているバス停が必ずしも良いわけではないけれど、賑わっていると一人でたそがれる時間が取れないので、それはそれで風情がないなと思ってしまう。なかなかに面倒くさい趣味である。
いろんなタイプがあるものの、やはり好きなのは、最初に紹介したワームホール型、つまり「扉を開けて高速道路内に入る」タイプである。
わざわざ駅から遠い高速バスストップまで行くのは骨が折れる。でも遠回りして行くことで、そこでしか味わえない感覚が得られる。日常から非日常へいざなうのが旅ならば、高速バスストップは、まさに旅そのものである。
なんだか壮大なまとめになってしまったが、こうした「ちょっとした違和感」が好きな方にはたまらないと思うので、たまにはのんびり遠回りして、高速バスストップから高速バスに乗ってみることをオススメしたい。
今までで一番心細かったのは、瀬戸大橋の途中で降ろされる「岩黒島バスストップ」である。
取り残されると島から出られないという、後に引けない恐怖感がある。どうやら自分は、閉塞感や不安感を味わえる場所(ただし安全)が好きらしいことが判明した。
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