特集 2020年8月17日

うちの近所に謎の楕円が!?100年前の地図でみつけた謎に迫る

明治時代に作られた京都の地図を眺めていたときのことだ。

私が今住んでいる京都市左京区は当時ほぼ一面の田畑に覆われていた。だから地図で見るとすこぶる単調なのだが、その中にポツンと異様なものが描かれていることに気がついた。

それは、楕円から短い足がたくさん生えたような形をしている。なんだかゾウリムシみたいな形だが、20000分の1の地図上ではっきり目を引くくらいだから実際はかなり大きいはずだ。

これ、なんだろう? ていうかこれ、うちの近所じゃないか。こんなものあったっけ? 気になって夜も眠れないから、調べてみることにした。

変わった生き物や珍妙な風習など、気がついたら絶えてなくなってしまっていそうなものたちを愛す。アルコールより糖分が好き。

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田畑(現在は住宅地)の真ん中に唐突にあらわれる楕円

楕円が描かれていたのは、明治42年(1909年)に測量された縮尺20000分の1の地図である。つまり、今から111年も前に作られたものだ。

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明治42年(1909年)に測図された20000分の1京都北部図。
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鴨川と現在の左京区に色を塗ってみた。

市内を南北に流れるのが鴨川、そしてオレンジに塗られたエリアが現在の左京区だ。

この地図に書かれた範囲は今では残らず市街地に覆われているが、当時は市の中心部以外はほぼ田園地帯が広がっていた。

京都御所から見て川向うにあたる左京区も例外ではない。

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知っている建物が全然見当たらない。その代わりに巨大な楕円がある。

そして、その田んぼの中に唐突にポツンと描かれているのがこの楕円だ。

内側に等高線みたいなものが書かれているから、丘のような地形の盛り上がりなのだとは思う。しかし一面田んぼの平坦な土地がここだけ盛り上がっているのはいかにも不自然だ。

 

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今の地図と重ねあわせてみるとこんな感じ。

少なくとも地図で見るかぎりは、この楕円の痕跡らしきものは現代に残されていない。周囲の田畑ともども、完全に住宅地に飲み込まれてしまっている。

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ゼンリンの住宅地図にも書き入れてみた。

楕円が書かれていた場所は、京都市田中西高原町、田中高原町、田中東高原町、田中東春菜町、北白川西平井町、北白川平井町にまたがっている。

その大きさも、約150m×80mと相当なものだ。

 

最初に楕円について考えたとき、「たぶんこれは古墳だろう」と思った。古い町だから、田んぼの真ん中に小規模な古墳があっても不思議ではない。

歴史的な遺産を壊すなんてもったいない!と今でこそ感じるけれど、実は宅地や道路を作るために障害になる古墳が取り壊されるのはさほど珍しいことではないのだ。

昭和10年(1935年)の地図では楕円は消滅

「たぶん古墳だろう」という仮説は立てたが、それを裏付けてくれるの情報が出てこない。

そこで、これが何なのかはいったん置いておいて、この地域がその後どう変化したのか、もっと言うと楕円がいつごろなくなったかを調べてみることにした。

現代にそれらしいものが残されていないということは、どこかの段階で取り壊されたはずなのだ。

ネット上で閲覧できる古地図をあれこれ見ていった結果(これを調べていた当時、新型コロナウイルス対策で図書館はまだ閉鎖されていた)、あったあった!新しく2枚の地図がみつかった。

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大正11年(1922年)の地図。

まずはこれ、大正11年(1922年)の地図だ。

ご覧の通り、この時点ですでに楕円ではなくなっている。周囲は相変わらず田んぼばかりだけれど、じわじわと市街地が近づいてきている。それにあわせて楕円も一部を削り取って直線的な形に整備されたようだ。

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昭和10年(1935年)の地図。

そして、昭和10年(1935年)の地図では完全に消滅しているのだ。

周囲の環境も、あれだけあった田んぼがほぼなくなって宅地に。ものの10年ほどでここまで変化するなんて。当時の京都市の人口増加とそれにあわせた市街地拡大のスピードは相当なものだったのだろう。

 

さて、ここまで調べてまた行き詰まった。

資料館なり現地なりに出かけようにも、世の中は新型コロナウイルスの影響で外出自粛の真っただ中だ。だいたい「古地図に書かれた楕円がなんなのか調べる」というのは、不要不急の最たるもんだろう。

というわけで、近場ではあるもののなかなか足を向けることができず、この件はしばらくお蔵入りになっていた。

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外出自粛があけて、現地に行ってみた。が、痕跡はみつからず

夏が本格化してきたころ、もうそろそろいいだろうということで、思い出したように現地に行ってみた。

この楕円にまつわる石碑の一本でも残されていれば、それだけで正解にたどり着いたも同然だ。

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知ってはいたけれど、なんの変哲もない住宅地。
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楕円のあったエリアをぐるっと一周することに。しかしそれらしいものは何も見つからない。
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民家の玄関先でオリーブの実がなっていた。

余談。オリーブの木は自花不和合性という性質が強く、自家受粉することが苦手だ。つまり、実をつけているということは、近くに花粉を提供してくれる別のオリーブの木があるはず。

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向かいの家同士でオリーブの遺伝情報を交換していた。

などと考えていたら、案の定、道をはさんだ向かいの家にもオリーブが植えられていた。幼馴染が恋人になるタイプのラブコメみたいだと思った。

本筋に関係のある情報が得られないまま、探索は続く。

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お社があった。古いものなので見つけた瞬間こそ「あ!」となったが、この手のお社はいたるところにあるし、楕円とは全く関係なさそうである。
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東西を走る通りに面して、京都芸術大学の施設があった。
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京都芸術大学はつい最近、京都造形芸術大学から改名してこの名前になった。抜けた「造形」の二文字はどこへ行ったんだろう。
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あ、石碑が!
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歴史を記した石碑は見つかった。ただ、内容は思っていたのと違った。

遅くとも1935年の時点で楕円はなくなり、跡地は市街地になっていた。尹東柱氏が治安維持法違反で逮捕されたのが1943年だから、計算は合っている。

とても興味深いけれど、これも楕円と直接の関係はない。

歴史館に相談したことで正体が判明

そろそろ独力で調べることに限界を感じはじめたので、ダメもとで京都関係の資料を収蔵する京都府立京都学・歴彩館に相談のメールを送ってみた。

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返事は期待していなかった。

奇特な人間の調べものに付き合っていたら、時間がいくらあっても足りないだろう。

だから電話がかかってきたときは驚いた。しかも、その内容はもっと驚くべきものだったのだ。

「ご質問いただいた件について調べてみたのですが、おそらくそうとちがうかなあという結論が出ましたのでお電話させていただきました」

――......はい。

「このゲジゲジみたいな楕円ですね......」

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「おそらく溜池やろうと思われます」

――た、溜池!?

「同時代の他の地図と比較してみたんですが、溜池のあるとこはだいたいこれと同じ書き方をしてました」

完全に意表を突かれた。古墳ではなく、それどころか丘ですらなく、池。溜池!

しかし考えてみれば単純なことだ。等高線が書かれているからといって、必ずしも上に向かって盛り上がっているとは限らないのだ。

そうかあ、溜池かあ......。

農地の真ん中にポツンとあったことも、これといった記録が残っていないことも、農地がなくなるのと同時に跡形もなく消滅したのも、全てがつながった。

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昭和7年(1932年)発行の地図。溜池はかろうじて残されているが、風前の灯だ。

「こういう資料もありますよ」と言って教えてもらった古地図閲覧サイト(「今昔マップ on the web」http://ktgis.net/kjmapw/index.html)を見てみると、1932年発行の地図に面積を大幅に縮小した溜池らしきものが書かれていた。

この3年後、1935年の地図ではすでに一帯が宅地化されて、見る影もなかったのは上で紹介したとおりだ。

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地図が新しくなるごとに溜池が小さくなっていく。

 

治水地形分類図を見ると決定的な証拠が

連絡をくださった方は「おそらく溜池だろう」という言い方をされたが、後日決定的な証拠をみつけた。

国土地理院応用地理部が昭和51年(1976年)から3ヵ年計画で作り、さらに平成21年(2009年)からじつに10ヵ年をかけて更新作業をおこなった、治水地形分類図である。

この地図には今ある河川や池や水路のほかに、かつて存在した治水施設も記載されているのだ(そういう場所は水害の際に浸水しがちなのだそうだ)

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治水地形分類図で京都市を見ると......。
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あった!ばっちり載っている。この記号は旧堤防、すなわちかつてここに堤があったという意味だ。

 

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溜池の痕跡が、やんわりと地形に残されていた

さて、国土地理院の地図には断面図を作る機能がある。

地図上で線を引いて、それにそった土地のアップダウンを簡単に把握できるのだ。

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始点と終点を選択してやると、
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起伏を表すグラフが表示される(わかりやすくするためにグラフの縦横比を50倍に拡大しています)

グラフを見た瞬間「おお!」と感嘆の声がもれた。

溜池のあった場所が、見事にそこだけ低くなってるじゃないか。地形にはしっかりとその痕跡が残されていた!

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東西方向にも切ってみた。

東西方向の断面には、それらしいくぼみはなかった。

この場所は右端にある山に向かってなだらかな上り坂になっている。その大きな地形の流れのせいで、池の跡というわずかな地形のずれがかき消されてしまったのかもしれない。

もういっかい現地を見てみよう

この場所にはかつて溜池があった。そして、その影響か今も一部の土地が周囲よりも低くなっている。

この事実をふまえて見ると、前回来た時は見落としていたヒントが見えてくるような気がするのだ。

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たとえば、京都芸術大学の施設の入口。
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敷地が歩道よりも50cmほど不自然に低くなっている。そしてこの場所は、ちょうど溜池の北の端あたりと重なっているのだ。これは、溜池の跡地で土地が低くなっていた場所に建てようとした名残ではないだろうか?
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上がって下がる、起伏のある道路。ここは溜池の南の端とほぼかさなっている。

 

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溜池はかつて重要な水源だった

ほんのわずかだが、溜池について書かれた文献も見つけた。

溜池のある一帯はかつて田中村という農村だったが、図書館で見つけた『史料京都の歴史 8 左京区』という本にこんな記述があった。

明治14年の田中村の様相

【地味】

水利不便、隣村の残歴を以て八分を養い、池水を以て二分を養う。

この近辺の農村は高野川に太田井堰という取水堰をもうけて、そこから農業に必要な水を引いていた。図にするとこんな感じだ。

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高野川西岸の高野村、修学院村、一乗寺村、田中村、そして東岸の松ヶ崎村、下鴨村の合計6つの農村が、高野川からの水に頼っていた。

この図からもわかるように、田中村は西岸の4つの村のなかでも最も下流に位置している。「隣村の残歴を以て八分を養」っていたのだ。

ところで、高野川の水は6つの農村で分け合うには十分ではなかった。実際、西岸と東岸の水の分配については渇水のたびにもめていたようだ。

ここから先は想像である。

あの溜池は、再下流の田中村が自由に使える水を少しでも確保するために作ったものだったのではないだろうか。溜池が作られたのがいつだったのかはわからないが、あの大きさの池を作るには相当の労力がかかったはずだ。そして明治14年の時点では「池水を以て二分を養」っていた。

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大正11年(1922年)の地図。読みにくいが水路の横に「疏水」と書かれている。これは、琵琶湖疏水のことだ。

そんな大切な溜池は、大正から昭和初期にかけてあっさり埋められてしまう。

琵琶湖疏水が開通して琵琶湖の豊富な水を使えるようになったのと、市街地の拡大で水が必要な田畑そのものがどんどん消えていった時期が重なったせいだろう。

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疏水は今も残っている。

不要になったものが消えていくのは仕方ないとして、ろくに記録すらされず忘れられていくのはやっぱり寂しい。

でも、気づいてないだけでいっぱいあるんだろうな。


かつての溜池のほぼ中心にあるカフェで

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溜池の中心だった場所には、カフェができていた。

新しい発見があると、ついつい人に教えたくなってしまう。

「ここ、ずっと昔は溜池の底だったみたいですよ」

どうしよう、あらためて文字に書き起こすと完全にヤバい人だ......。

これを聞いた女性店主は

「へえ!」

と驚いたあと、

「そうそう、昔のことといえばね、この近所の古い写真があるんですよ」

といって、白黒写真を何枚ももってきた。

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もう10年ほども前に、「この店で写真展をしたい」という人が持ち込んだものらしい。持ち込んだ人はそれっきり来なくなったため、以来捨ても返しもせず保管されている。

1960年代に撮られたものだからこのころすでに溜池はない。でも、これだって誰かにとっては貴重な資料かもしれない。

なんでもとりあえず記録しておくことが大事なのだ。

気になったものは面倒くさがらずに、写真を撮っておこうと思った(そしてまたストレージが圧迫されていく)

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