なぜ廿日市でけん玉が生まれたのか?
「けん玉をかじっていた」と書いたが、私がけん玉をできるようになったのは小学一年生から三年生まで通っていた学童がはんぶん「けん玉養成所」の様相を呈していたからだ。
学童を仕切っていた先生がけん玉好きだったのだが、この人がちょっと変わっていて、生徒全員に問答無用でけん玉をさせていた。けん玉検定は全員必ず受けるし、半年に一回くらいある生徒による出し物でもダンスや演技の間に必ずといっていいほどけん玉シーンの演出が挟み込まれてた。
当時は当たり前のようにやっていたが、今思うとかなりのスパルタけん玉教育である。ただおかげで私も晴れてけん玉好きとなった。なんなら主席として学童を卒業したといってもいいくらいで、その後の人生でずっとマイけん玉は持っているし、こうしてけん玉発祥の地にまで来てしまった。
廿日市駅は広島駅と宮島口駅の真ん中あたりに位置している。広島駅や宮島口では外国人をたくさん見たが、ここは住民の利用が多い印象だ。

かく言う私も広島駅周辺や宮島には訪れたことがあったが、廿日市は始めてである。駅を出ると早速、けん玉が出迎えてくれる。


そもそもなぜ廿日市がけん玉発祥の地なのか?それは廿日市が古くから木材の集積地として栄え、江戸時代に生まれた「廿日市ろくろ」と呼ばれる高度な技術によって明治時代に木材加工業が発展したからだ。この廿日市ろくろの技術を使って、1921年に初めて現在のけん玉が削りだされたのである。

廿日市で生まれたけん玉は「日月ボール」と名付けられたが、そのネーミングは太陽のようにまっ赤に色付けられたボールと、三日月型に削られた皿の部分に由来している。つまり初めてけん玉が作られた時からけん玉の玉は赤かったということだ。けん玉の玉といえば赤のイメージが強いが、もし最初に黒で作られていたら、けん玉の印象も大きく変わっていたかもしれない。


最盛期には国内生産の約4割のけん玉が廿日市で作られていたが、徐々に衰退し、1998年には廿日市でのけん玉製造の歴史は一時的に途絶えてしまう。
しかしけん玉製造が途絶えたことを惜しむ声が市内外から届き、2000年にけん玉の製造を再開、2011年からは廿日市市内のすべての小学一年生にけん玉を配布するなど、けん玉の普及に力を入れている。


廿日市のけん玉の歴史と共に駅周辺のけん玉スポットを紹介したが、ご覧の通りいたる所にけん玉があしらわれている。小学一年生全員にけん玉を配ることからも、廿日市のけん玉に対する本気度がびしびし伝わってくる。

マンホールに合わせてけん玉をする
地域で有名なものが描かれがちなマンホールも、もちろんけん玉柄である。しかも技ごとに複数種のマンホールが設置されている手の込みようだ。
せっかくマイけん玉を持ってきたので、マンホールに描かれたのと同じ技をその場でやるという、けん玉好き100人中98人がやりそうなベタなことをやってみよう。ちなみに駅から遠くなるほど技の難易度があがるけん玉プレイヤーの気持ちを汲んだマンホール蓋の配置となっている。分かりやすく廿日市市の戦略にのっている。










人生で一番ホットなけん玉時代を過ごした学童卒業後も、思い出したようにマイけん玉を引っ張り出して時々やっている。日本一周も大人になってからできるようになった技だ。


この世界一周という技、実は過去に一度も出来たことがない。一見すると日本一周とそんなに変わらないように見えるが、中皿を挟むことで難易度が一気にあがるのだ。


すべて成功とはいかなかったが、廿日市でしか出来ない楽しみ方をすることができたので大満足である。