第二海堡の地下遺構に目を見張る
上陸ツアー一行はさらに西へと進み、第二海堡の西端付近にまでたどり着いた。この辺りは土の流出が激しく、砲台の損傷も大きかったようで、地上にあった遺構は既に撤去されている。
このまるで古代遺跡のような遺構は、砲台に付随していた地下施設である。調査によって弾薬庫であったことが分かっている。
海堡に必要な施設は砲台のみならず、居住区や発電室、弾薬庫など様々である。それらの付属施設はすべて海堡の地下に存在する――と話に聞くだけでは、それがどのように築かれているのかイマイチピンとこないものだ。
しかしこうして実際に地下施設の遺構を目の当たりにできると、なるほど、このような空間が地下に広がっていたのだと理解できる。
この防水のためのアスファルト塗装も、本来は土に埋もれていた部分が露出したことで初めて目にできた技術である。
西端部の地上遺構が失われているのは少し残念に思うものの、その代わりにこうして地下の遺構から当時の先端技術を垣間見ることができるのだから、これはこれで良かったと思いますな。
ここでガイドさんが足を止め、地面に転がる煉瓦を拾い上げた。指を差したその先には、可愛らしい桜の刻印があった。
小菅集治監では囚人労働の一環として煉瓦製造が行われていた。当時の小菅集治監には明治10年(1877年)の西南戦争で敗れた旧薩摩藩の武士が多く収監されており、極めて良質な煉瓦を産出していたそうだ。
このような生産地を表す印は積む面に刻まれるので、通常の煉瓦建築では目にすることができない。煉瓦壁が崩れているからこそ確認できる、これもまた朽ちた遺構ならでは展示法である。
この部分も本来は土の中にある部分であり、このペイントは太平洋戦争後に描かれたものであろう。なんとも印象的な風景であるが、ガイドさんが言うには以前よりペンキが薄くなっており、そのうち消えてしまうのではないかとのことだ。見るなら今のうちですな。