このままおめおめと帰れるのか?
子供が飽きたことを告げられると「そうか、じゃあ帰ろう」と提案してすぐに帰った。敗北感でいっぱいだった。小5に段差スロープは早すぎたのか。やはり私たちがおもしろがっているのは人生二周目の楽しみなんだろうか。
このままおめおめと帰れるのか? すごすごと帰るのか? そんなことをぼんやり考えながら足を踏み出した。足は自然と前に出た。
家に帰ったあと私はこんなツイートをしていた。すごすごと帰ったのかおめおめと帰ったのか。どちらの帰り方だったのかわからない。
わかってほしかったのではないか
そもそもおめおめってなんなんだ。「恥であることを知っていても、しかたなしにそのままでいるさま」だ。ちなみにすごすごは「気落ちして元気なくその場を立ち去るさま」だ。
ああ、どっちもだ。おめおめでありすごすごだった。しかしその足取りはいたって普通の歩き方だ。ただ帰っただけのことだ。
もしかしたら私はもっと娘にこちらの気持ちを分かってもらいたいのではないだろうか。
身体表現の専門家を呼ぶ
あのとき私はおめおめとすごすごと帰ったわけではあるが、娘はそのおめおめっぷりに気づいたのだろうか。もっとおめおめと帰る必要があったのではないか。
言い換えると私は「もっと身体でおめおめやすごすごを表現」して娘にアピールしたかったのではないか。
だが「おめおめと」というのは「恥を恥だと思わない様」であり、普通に帰ることで大体合ってるのだ。ということは、この普通に帰る感じを大きく表現すればいいのか? めちゃくちゃ難しそうだ。
なので今日は身体表現のプロとして知り合いの元山海塾のダンサー、トチアキタイヨウさんを呼んだ。
白塗りの人たちに学ぶぞ
トチアキさんが山海塾で学んでいたのは世界ではButoh(舞踏)と呼ばれる日本発の踊りである。日本では暗黒舞踏と呼ばれ、大道芸フェスティバルに出てくる金粉の人たちがそれだ。
西洋にはバレエがあって、そもそもダンスや身体表現の公演自体にたくさんの人が見に来る。そんなとこに東洋からバレエの真逆のような人たちが出てきたものだから西洋の人たちはショックを受けて、今でも舞踏の海外人気はすごいそうだ。
今日だけ大丈夫です、ご笑覧ください
「おめおめってそもそもなんでしたっけ? あとはすごすご? そそくさっていうのもありますよね?」とトチアキさんは言葉の意味をたしかめて、少しずつ体を動かしていく。
ちなみにトチアキさんはデイリーの読者でもあるしユーモアの視点も分かってくれているので多少大げさな動きになっていたとしても笑っても大丈夫ですので。
帰るために死ぬ
言葉の意味から動き方を探っていく。気落ちして元気がない「すごすご」の方がわかりやすいだろうということで「すごすご」から考えていくことにした。
そもそもトチアキさんどうやって身体の動かし方を考えるんですか?と聞いてみると「舞踏は人形とか死体なんで、型ですね」という。
えっ、人形とか死体…!? 型というのは動きをパターン化して洗練化してダンスとして見せられるようなものにするということだそうだが。人形とか死体がなぜ出てきたんだろうか。私はただ当てつけがましく帰りたかっただけなのだが。
「一般的な西洋のダンスは『自分の意思ではつらつと動く』んですけど、舞踏は『動かされる』んです。何に動かされるかというと、状況とか、単純に周りの空気に動かされるとか。柳がゆれるのは風に吹かれて、みたいなことです。
死体とか人形についてはうまく説明できないんですけど、例えば能狂言とか人形浄瑠璃みたいなところから動きをとったりもするんですよね。
文楽とかで『人形がまるで生きてるように見える』とか言うじゃないですか。体のちょっとした角度だったり手の動きなんですけど。そんな風に自分の体を動かすにしても、一歩引いたところから自分の体を動かす。
人間は水の詰まった袋だみたいな考え方があったり、そういうイメージで体とは別のところから自分の体を動かしていくんですね」
それは何のためにするのだろう? 自分の身体を人形のように考えるとどんな効果が?
「そこに人の体があることで周りの空間が見えてくるようにするんですね。大きいものが体の外で動いてるんだろうなと想像させる」
なるほど、柳がゆれて風を感じるようなことを人の身体でするのか。たしかにそれだと「めっちゃ風吹いてる!!」と肩バンバン叩かれて大きな声で言われるよりも表現として豊かなものになりそうだ。
そしてこのやり方で「すごすごと帰る」を作ってみてくれた。棒をすごすごと帰らせてその感じで自分も帰っていった。これが「すごすごと帰る」だ。その足取りはホンダのASIMOよりも遅かった。
私はこれで帰ればよかったんだなあ。と思ってもこんな風に身体が動くんだろうか?
「ワークショップでよくやるのは一人の人が力を抜いて、抜いてる人の体をゆすってみたり持ち上げてみたり観察してみたり。踊るときも脱力してムダな力を使わなかったり。そこに人の意思がないように見せるというか」
すごすごとした帰り方はかんたんにいうとゾンビのようで、死体や人形という言葉もよくわかった。何があったのかと第四親等くらいまでなら心配して声をかけてしまうような動きだった。
これくらいまでやれば娘は罪の意識を背負っただろう。ともすればちょっとした深い傷になるかもしれない。「飽きた」と言ったら父親が死体のように歩き出すのだ。はたしてこれが私のしたかったことなのだろうか。
今度は「おめおめと」帰る方法だ。これは「おめおめ」という状況をよく考えることから始まった。
柳が周りの風で揺れるように、周囲からは「おい! 帰るのかよ!」「このままでいいのかよ!」という声が飛ぶだろう。そのときの心情はなんだ。周囲の声や罪悪感を振り切るように「いいじゃないか!」「しょうがないんだ!」とトチアキさんは両手を挙げていく。
そして後ろを気にして置いてきた目的を意識させることで「帰る」部分も表現している。これはたしかに「おめおめと帰る」である。
おめおめと帰ってるなあ、トチアキさん
父は美しくありたい
一体いつのまにこういうことになったのだろう。舞踏の人を呼んできたのはもしかしたらやりすぎだったのかもしれない。だがこうした「やりすぎ」は父の「かまって」に由来しているのではないだろうか。
かつてデイリーポータルZの記事でダンボールで作ったリカちゃん人形を渡されていた娘だがもう自分のパソコンを使い始める年頃だ。親の名前で検索し、デイリーポータルZの記事を読むときがやってきた。
もはや見られることは覚悟のうえだ。どうせなら父は美しくありたい。おめおめと帰るにしても、舞台芸術のように美しく帰りたいものだ。