今までのダンボールおもちゃ
リカちゃんに入るまえに、今まで作ってきたダンボールおもちゃを見てもらおう。
最初はなんてことなかった。メガネがほしいと言われて、ダンボールを切ってやったのだ。
はじまりはダンボール製メガネだった
意外とよろこんだ
メガネは意外と気に入って、その日一日かけていた。みすぼらしいが温かみだということにして親もニコニコしていた。そして次はベビーカー。
ポポちゃんという赤ちゃんの人形がいるのだが、彼女をのせるベビーカーのおもちゃがほしいと言い出した。
はじめてのおねだりだ、大きくなったなあ。親心に火がついた。さっそくダンボールで作ることにした。
ダンボールを切ってガムテープで留める技法が生まれる
これも意外とよろこんだ
タイヤが回転しないにもかかわらず、娘はこれも気に入ってよくあそんでいた。
ここで娘のおもちゃ欲にいよいよ火がついてきた。ベネッセから送られてくる広告にレジのおもちゃが載っていたのだ。
ならばこちらもと親心に油をそそぎ、ダンボール工作のクオリティを高めた。
折り紙を貼るという技法が生まれる
クオリティが上がってきた
折り紙を貼るという技法がうまくいって、見栄えもよくなった。お知り合いから「うちの子にも作ってほしい」と言われてぼくはますますつけ上がった。
つづいて娘はロボットがほしいと言い出した。はいはい、これね。
つまようじを関節にする技法が生まれる
そろそろバレてきた
娘はロボットを見てもピンとこなかったようで、ロボットをねんねで寝かしつけたあとはどこかへ行ってしまった。思ったのとちがったようだ。
そしてつい最近ショックなできごとがあった。
ベネッセから送られてくる広告にペーパークラフトのレジがついてきて、娘はダンボールのレジをよそにそれであそぶようになったのだ。
風呂あがりでも夢中になってあそぶ
リカちゃん人形を作る
「これ小さいからさ、お父さんの作ったレジの方がいいよね」「ううん、これがいいんだよ。お父さん、おしごとしてよ」
お父さん、ショック。ダンボール製手作りレジはきちんとデザインされた紙のレジにあっさり負けた。
こうなったら本気で勝つ。
こどもから圧倒的な人気をえられるものをダンボールで作る。人気のおもちゃ……男親の勝手なイメージだが女の子のおもちゃといえばリカちゃん人形だ。
本物買ってきてる時点で矛盾に打ちひしがれている
リカちゃん人形をダンボールでコピーする
ダンボールで作ろうにもぼくは元のリカちゃん人形を知らない。そこで家電量販店でリカちゃん人形を買ってきた
おもちゃを買うのがイヤではじめたダンボール工作なのに結局本物を買ってることに激しい矛盾を感じた。
しかし四の五の言ってられない。これで紙のレジに勝つのだ。こどもが寝静まったあと、ダンボールでコピーしていく。
足の長さはこれくらい、とコピーに徹する
ダンボール工作の道具
もう5作目なのでダンボール工作の技術も上がってきて、使う道具もかたまってきた。
切るのはハサミとカッター。まっすぐはカッターで細かいのはハサミ。M厚という厚いカッターだと切りやすいが、まあどちらも家にあるものでなんとかなる。
留めるのはのりとホットボンド。最初はガムテープを使ってたが、冷えたらがっちり固まるホットボンドの便利さと強度にはかなわなかった。
足と胴体は竹串をつないで関節にした
関節と折り曲げの技
工作をやる人はみんな知ってるのだろうが、ホットボンドはとにかく便利。たとえば竹串を刺して、両側にホットボンドを盛るとそれだけで関節になる。
あとはダンボールを曲げるときにうすくカッターの刃を入れてやると折り曲げやすい。これも発明でなく、なんとなくみんな経験的に分かってそうなこと。
まとめると、だれでも持ってる道具と技でみずぼらしいものを作っているのでできるだけ我に返らないようにすること。
足と胴体は竹串を通して、ホットボンドで留める。これで関節になる。
ブリコラージュ感あふれまくり
宗教とか哲学とかそういう高度な考え方を、ジャングルの原住民たちが鷲とか熊とか出てくる神話で表現したりする。
「よくこんなものだけで器用にやるよな~」と学者はブリコラージュ、器用な仕事と呼んだが、ダンボール工作こそどこを切ってもブリコラージュ、全身ブリコラージュの蓄養マグロみたいなもの(高度な考えはゼロだが)だ。
タイあたりで工業機械を自作してしまう農村のおっさんとかガムテープでバンパー留めてる自動車とかもみんな仲間だと思っている。
ただ曲げたい場所(ひじやひざ)は薄くカッターを入れて曲げる
造形はカン
ダンボール工作は基本不恰好だ。
たとえば真円を作るのはむずかしい。まんまるのガイドをひいたとしても、ハサミで切ればみごとに不揃い。
全体も設計図があるわけでもなく適当に切って折って留めていって形をつくっていく。当然かっこわるい。
そこで重要になってくるのが、“それも味だ”“みんなちがって、みんないい”など自分をなぐさめる言葉。ダンボール工作はどれだけ自分をなぐさめられるかが勝負の鍵となっている。
だってダンボールだもの、元気出せ系ポエムは大体ダンボール工作のためにある。
頭は筒を作り上下を折ってボンド留め。ここから一気にダメになりそうな気がする。
折り紙で色をつける
唯一の発明は折り紙をはること。均一に塗れて仕上がりがきれいになる。しわが出にくいスティックのりが売られていのでそれを使うとさらにきれい。
折り紙は各色2枚までしかない。よく使うはっきりした色はすぐなくなっていくので、そのうちウグイス色のキティちゃんとか作ってることだろう。
できた。コピーしていったはずだが、なんだこの顔の差は。
細かい部分は無視
基本的にリカちゃんをコピーしていくはずだったが、顔の部分はお手上げ。眉毛も細すぎて無視した。
ただ目の大体のサイズだけは参考にした。器量はわるくともサイズは大体おなじ。
「同じ人間なのにどうしてこんなにちがうの?」美人に対する思いは皮肉にも人間と同じようなものになった。
できた、ダンボール製リカちゃん、ダボちゃんだ
そして朝になり娘の審判をあおぐ
こんなものでもたっぷり5時間くらい使ってようやくできた。多少ざんねんな顔をしているが、しょうがない。ダンボールだもの。リカちゃんじゃなくてダボちゃんだもの。
同じサイズ、同じ構造で作っているので服も着られる。服を着せて箱に入れるとなんとかそれっぽい見た目になった。
あとは朝を待ち、娘の審判をあおごう。
「ほら、ダボちゃんだよ」この顔のまま1分固まった
「こんにちは、あたしダボ」
起きてきた娘に「はい、ダボちゃんだよ」とダボちゃんを渡すと固まって1分ほど見つめていた。
そしてぎゅっとにぎって抱っこしはじめた。おお、受け入れた。「ダボちゃん?」「なんか着てる」笑顔になって徐々に声が出始めた。お父さん、うれしい。
「お父さん、ありがとう」(ほんとはそんなこと言ってないが勝手に書いた)
リカちゃんといえばセットじゃないだろうか
しかしよく見ると娘はダボちゃんを赤ちゃん役にして遊んでいる。
それなら別にダボちゃんじゃなくてもいいし、赤ちゃんの人形も他にある。このままだと飽きられてしまうことだろう。どうすればいいか。
リカちゃんといえばセットだ。「回転寿司屋さん」「アイスクリーム屋さん」などのセットがあって“ごっこ遊び”ができる。
ダボちゃんにもセットを作ろう。そしてダボちゃんの世界を深めていけば長く遊べることだろう。
そう思って竹串に円をたくさんつけた
ベルトコンベアの出来上がりだ
工場セットを作ることにした
何を作ろうかなとぼんやり考えていたらダンボールを折り曲げたときにベルトみたいに見えた。
ベルトコンベアだ。これはいいかもしれない。動かせる楽しさもあるし作りやすそうだ。ベルトコンベアを作って工場ということにしよう。
そんな風に悲劇はいつもちょっとした思いつきからはじまる。
折り紙を貼ったダンボールを切り出して
コンビニ弁当を10個作った。細かすぎて発狂寸前。
夜勤の弁当工場にした
ある程度の細かさがあって、作りやすいものがいいなと思い弁当工場にした。弁当工場ではたらくダボちゃん。おや、一体どうしたことだろう。なんだか違和感がある。もう一回言ってみよう。
「弁当工場ではたらくダボちゃん」
なんだろう、この物悲しいひびきは。
悲哀のことは一度置いておこう。その後は(コンビニ弁当作りなら夜勤がリアルかな……)とか(工場って「整」とか「今日もゼロ災でいこう」とか書いてあるな……)とかリアル路線に走ってしまったが、これもまずかった。
リカちゃんってこんなに悲しかったっけな。
夜勤の弁当工場……泣けてきた
ダボちゃん、デザインフェスタにてデビュー
ダボちゃんは悲しい。
ダンボールでリカちゃん人形を作ってるだけでも圧倒的な悲しさがあるのに、年頃の女の子が夜勤で弁当作ってる悲しさといったら……。
たしか二歳の娘におもちゃを作っているはずだったが、ぼくがやりたかったことはこういうことだったろうか。
ちょうどデイリーポータルZがデザインフェスタに出展していたので、他の人にも見てもらおうとダボちゃんも出展した。
注目度はデイリーブースの中でも低め
弁当を売るつもりだったが忘れて一個しか持ってこなかった
小学4年生くらいの女の子、即否定
ちょっと目を留めていた小4くらいの女の子がいたので、「ダンボールでできたリカちゃんだけどどう思う?」と声をかけてみた。
「ちがうし」
「手とかないし」
手はあるよ、ほら、切り込みが入って分かれてるだろ? そう説明しても女の子は無言である。
これが小学4年生。ダボちゃんとリカちゃんのちがいにはっきりと気づいていて、そこが気になるようだ。
ぼくも2才の娘も、ダボとリカのちがいなんてどうでもいいと本気で思っているが、この幸せは長くは続かないのだろう。少なくとも小4で終わる。
小4には惨敗であった
よりリアルに、より深くしていくしかない
しかし意外と夜勤であることや工場であることとかは問題にならなかった。そこはなんでもよかったのだろう。
方向がなんでもいいのなら、あとは完成度を高めるしかない。
そもそもこれから明るい要素を足していっても仕方がない。よりリアルに、より深い世界を作っていくしかないのだ。
「リカちゃんじゃないけど、これはこれでおもしろそうだよね」世界が深まればあの女の子もそう思ってくれることだろう。
より工場っぽい服を買ってきた。着せ替えをたのしめるのもダボちゃんのいいところ。
お仲間にも頼んで、爪でロゴをこすりとるという地道な作業完了
世界を深めていく
改善点として、服を変えた。ワンピースで作業してる違和感があったので、アイス屋の服を買ってきてロゴを消した。
食品工場なのでティッシュでマスクを作った
ほしがっている服という設定にした
すでに着ていた服も使わないともったいないので“ダボちゃんがほしがってる服”という扱いにした。
ふきだしを作って、ダボちゃんの考えてることとしてディスプレイするのだ。
「あのワンピースさえあれば……あたしもかわいいと思ってもらえるかな」
悲しさが深くなっていった
悲しいじゃないか。このふきだし、圧倒的に悲しいじゃないか。セリフをあてるならこういうことだろう。
「洋品店に吊るしてあるあのワンピースさえあれば……あたしも人からかわいいと思ってもらえるのかな」
昔読んだ小説にこういうセリフがあって、悲しすぎるやろとのたうちまわった。主人公は男に棄てられて病気になって事故にあって死ぬのだ。ああ、ダボよ。
(cf.
wikipedia 遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』)
犬もついてきたので汚して工場の犬にしよう
犬の登場がまた悲しい
ペットショップ屋の小道具としてついてきた犬ももったいないから使う。工場ではきれいすぎて浮くので、鉛筆で汚して工場の犬にした。
うわ~、かなしい
失敗した弁当を食べる犬
工場の犬なら廃棄の弁当とか食べてるんだろうな、と失敗した弁当を添えたらとたんにまずい感じになった。
まちがったペットの育て方である。これは悲しい。
ダボちゃんは悪くない。ダボちゃんはよかれと思って弁当をあげているのだ。それが犬の寿命をちぢめさせるとも知らずに……。
誰も悪くない負の設定。ダボちゃんの工場が量産しているのはもはや弁当じゃない、悲哀だ(!)
リカちゃんセットにカバンもついてきたので、これも使う。ダボちゃんには弁当持って帰らせよう
家に持って帰る弁当が悲しい
ついでにかばんもあったのでダボちゃんのにした。中身はなかったので弁当を1つ入れておくと、するとどうだ。今度は盗人の香りがしてきたではないか。
弁当1つ失敬して、家に帰って家族に食べさせるダボちゃん……だれかこの悲しみのインフレを止めてくれ。
もちろんダボちゃんが自分で食べるかもしれない。しかしここまで全体の悲しさが高まってくると、これはもう家族に食べさせる以外の想像がつかないのだ。
そしてその家族はもちろん病気をしている。お父さんの呼び方はもう、「おとっつぁん」だ。
気休めでしかないが、什器を作って工場のリアリティを高める
わたしは一体なにをしているのだろうか
できた。もうここらで終わりにしないと大変なことになる。
2歳児をよろこばすためのおもちゃ作りのはずが、いつのまにか悲しみのサグラダファミリアを作っていた。
たしかに作品には深みが出てきた。だがはたしてこれは2歳児が愛するそれなのか。
ここまでくれば気休めでしかないが、せめてリカちゃんのカタログのように楽しそうな紹介を添えておきたい。
リカちゃんのカタログはこんなポップな感じ
もう知らん、どうにでもなれ
朝起きると弁当工場があった娘
このよろこびようが逆に悲しい
娘は喜んでくれた
「ダボちゃん、マスクしてる~」とよろこぶ娘。起きるとそこには弁当工場があったのだ。
悲しさの沼に沈んだダボちゃんの弁当工場であるが、娘はその悲哀に気づかずに精一杯おもしろがってくれた。
そもそも工場という概念がないようで、お弁当屋さんだお弁当屋さんだとしきりに言っている。
父はもう泣いている。何も知らず喜ぶ娘、これ以上の悲しさはないじゃないか。
「お弁当屋さんに松ぼっくりおこうね」
彼女には彼女の世界がある。大人があれこれ用意した物語は一瞬ですてられて、犬と巨大松ぼっくりが什器に乗る新しい物語がはじまった。
什器に犬と松ぼっくりが載り、さあ新たなる物語がはじまった
娘よ、ダボよ
いける。二歳児くらいならまだまだダンボールでいける。問題は小学校に入って、他の友達とおもちゃで遊ぶようになったときだろう。
「大北さんの持ってる人形それなあに?」
「大北さんの持ってる人形、なんでリカちゃんの服着られるの?」
「大北さんの持ってる人形、リカちゃんのつもりじゃないの?」
「大北さんの持ってる人形、ダンボールでできてない?」
「大北さんの持ってる人形、だれがつくったの?」
「大北さんのお父さん、何してる人なの?」
「大北さんのお父さんの名前、ネットで検索してもいい?」
娘はいずれ父を捨てる。
中学に入るころには、父のことを毛嫌いしはじめ、ダボちゃんの悲しさを憎むようになるだろう。
風呂を避け、洗濯を分け、家を出る。しかしそこをのりきればもれなくみんな大人になる。ダボちゃんの悲しさもいいなと思えるようになるだろう。それでは聞いてください。中島みゆきで『時代』です。