一瞬だけ
河川敷で石けんは無理だ、という判断をしたあと、何を思ったか大きな石を見つけてきて三脚の下に置いて写真を撮っていた。
一瞬だけ、本当に一瞬だけなのだけど、何百年後を見据えた『雨垂れ石穿ちプロジェクト』を構想していた。
「雨垂れ石を穿つ」と言うが、穿つところを見たことがない。すぐに見れないか色々試したところ、正解はバブだった。
雨垂れバブを穿つ。
「雨垂れ石を穿つ」ということわざが気になった。
根気よく続ければ成果が得られるという意味のことわざであるが、何より言葉のパンチ力が強い。
「穿つ」である。掘るとか穴を開けるという意味だけど「穿つ」と言うと、隠しておいた最後の必殺技みたいな迫力がある。
雨垂れは石を穿つのだ。すごい。穿つところを見てみたい。
だけど石を穿つとなると何十年、何百年レベルの話になるのだろう。もう少しこう、近場へ旅行に行く感覚で穿ちたい。だから「石」を「石けん」に変えることにした。
石の文字が入っているし石より柔らかそうなので、一日のんびり読書でもしていれば穿つんじゃないだろうか。思いつき、なんて粋な梅雨の過ごし方だろうかと目を細めた。
河川敷に来た。雨垂れが石けんを穿つところをのんびり見守るのだ。
写真の赤い矢印の部分から水滴が一定のスピードで落ちる。本当は緑の尖った部分を土に刺して植木の水やりに使うのだ。
これを三脚に縛りつけて下に石けんを置けば完成である。
ここまであまりにうまくいって舞い上がったのか、穿つにとどまらず彫刻を彫りたい、と思うようになった。
手塚治虫の代表作『火の鳥』の鳳凰編に雨垂れで石の彫刻を作るお坊さんが出てくる。
主人公の彫刻師が見事なシカやサルの石像を見て「誰が彫ったんです?」と聞くとお坊さんが「あれじゃよ」と水の滴を指す。それがすごくかっこいいのだ。
自然の力が生み出す造形の美しさってある。
僕も穿つにとどまらず、何かを彫ってみることにした。
犬を彫ることにした。犬を彫りたいので。(声は聞こえなかった)
そんなわけで、穿ち、更には彫るために三脚の下に石けんをセットした。
『水やり当番』のノズルをひねって水滴のスピードを調整したら、風情のある梅雨の時間の始まりである。
本を読んだり、たまに石けんの具合を見ながら過ごす。朝早く来たからか周囲に人気はない。遠くの高架を走る電車や車にも現実味がなくて、世界に三脚と石けんと自分しかいないようであった。
空気が湿っていて気持ちのいい気候とは言い難かったが、横でゆっくりと彫刻が作られていると思うと安らかな気持ちになった。鈍行の列車に乗っている感じだ。ゆっくり何かが進行している安心感。
3時間経ち、本から顔を上げて石けんを見ることが増えた。
犬の背中を彫ろうとしていたのだけど、凹む様子がない。
一気に風情がなくなって工場みたいになった。そしてスピードが上がったからといってみるみる彫られていく様子もない。
これすごい時間がかかるやつだ。あれ、どうしようかな、とここに来て思う。
しかし、これが自然の力が生み出した美しい曲線だ!と高らかに宣言する感受性は僕にはなかった。これは3時間かけてびしょびしょになった石けんだ。
4時間河川敷で本を読み石けんをびしょびしょにし、今後の見通しもつけぬまま家に帰ってきた。
「どうだった?」と妻に聞かれて「ほとんど変わらなかった。材料を変えなきゃいけないかな」と言うと、妻は事もなげに「バブは?」と言った。
雷に打たれたような気持ちがした。バブだ。バブだよ! アルキメデスだったら裸で外に飛び出すシーンである。
妻にまっすぐ向き直り「ありがとう」と伝え、バブを探した。そして今度はベランダの物干し竿に「石穿ちマシーン」を作る。
シュワーという音がして、パッケージの通り紅梅の香りが広がった。手応えがある。雨垂れが穿つべきはバブだったのだ。
いいぞいいぞと思いながらフルーツグラノーラを食べた。横目でずっと眺めていたのだが、ある時点からバブの辺りに黒い点が重なった。
目にゴミが入ったか、立ちくらみかのどちらかかなと思いながらフルーツグラノーラを食べていた。
20分ほどだった。早すぎて穴を穴と認識できなかった。嬉しい。人の手が一切入っていない、雨垂れだけが作った造形が現れたのだ。
まっすぐ水滴が落ちていたはずなのにかなり歪な形のものが現れた。彫られ方も均一でなく、色々な斜面がバブの中にある。
「石のこの部分に水滴が落ち続けて300年経った結果穴が空きました」と言われたら「ほお」と思うだろう。でもこれはピンク色のバブだし20分でできた。
火の鳥のお坊さんのセリフをキャプションに入れてみたが、なかなか説得力がある。これを聞いた、利き手をケガした彫り師の主人公が勇気付けられるのだ。
そんなすごそうなものがAmazonで買った園芸用品と妻のアイデアですぐに実現できた。勇気をもらったのは僕の方である。
『雨垂れバブを穿つ』
根気よくやるのも大事だけど、ちょっとしたことですごい楽になるよ、あと人に話すといいことがあるよ、みたいな感じのことわざとして僕の胸に刻もう。
河川敷で石けんは無理だ、という判断をしたあと、何を思ったか大きな石を見つけてきて三脚の下に置いて写真を撮っていた。
一瞬だけ、本当に一瞬だけなのだけど、何百年後を見据えた『雨垂れ石穿ちプロジェクト』を構想していた。
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