バッティングについて
指導の最後に、佐藤さんがお手本としてスイングを見せてくれた。
これが三軒茶屋の名コーチのスイングである。
元大洋の桑田選手の年齢から計算すると、佐藤さんは72才のはずである。72才でこのバッティングフォーム。凄いとしか言いようがない。
お手本を見せてくれた後、佐藤さんからバッティングについての講義があった。テーマはイチローのバッティングについて。
「今年のWBCからシーズン初めにかけて、イチローは調子が悪かったでしょ。あれはね、ほんのちょっとした所が出来てなかっただけなんですよ」
ほんのちょっとした所?
「イチローの良さは、とにかく球を良く見ているという所にあるんですね。あれだけ球を見ている打者はそうはいないんです。それが、WBCで勝たなきゃいけないっていうプレッシャーから、いつもより少しだけ早く打ちにいっちゃってたんです」
気持ちの焦りから打ち急ぎ、本来のフォームを崩してしまっていた訳だ。
「地元の少年野球チームに凄い子供がいましてね、これを見てください」
佐藤さんが少年野球の部員募集のポスターを指さした。
「バットにボールが当たっている瞬間をちゃんと見てるでしょ? これが凄いんです」
確かに、この少年はバットに当たっているボールを見ている。このまま成長すれば、イチローになれるかもしれない。
ちなみにイチロー選手は、少年野球時代にバッティングセンターで練習をしていた時、軟球の縫い目が見えていたという。
僕も練習すれば、球を最後まで見れるような打者になれるだろうか?
僕は野球選手になりたいのか?
三軒茶屋の昭和なバッティングセンターで佐藤さんの指導を受けながら、一瞬「あれ? 俺は何をやってるんだろう?」という思いが頭をよぎった。昭和を感じる空間でのんびりとバッティングなどを楽しみながら緩やかな時間を過ごす。そのためのバッティングセンター訪問だったはずが…。いつの間にか良い打者になりたい、という気持ちでいっぱいになっていた。今からがんばったってイチローになれるはずがないのに、である。
不思議なことに、あそこにいる間はバッティングのことしか考えられなくなってしまうのだ。
でも、あの螺旋階段を下って降りるとバッティングのことは忘れ、あっという間に日常に戻ってしまうから、もっと不思議である。