ホームが異常にせまい
大阪市北区の阪急中津駅にやってきた。
阪急中津駅周辺は、梅田という大阪でも屈指の繁華街まで徒歩圏内ではあるものの、でかい道路や鉄道の高架で分断されており、わりと地味な住宅街がひろがる町だ。
ちなみに、阪急中津駅から徒歩6分ほどの場所に、地下鉄の中津駅もあるが、まったく別の駅であり、乗り換え駅でもない。(以降「中津駅」と表記するばあいはすべて阪急の中津駅のことです)
高架の上にある駅
年季の入った構内
駅構内には、年季の入った居酒屋などもあり、なかなかいい具合なのだが、店が閉まっており、営業しているのかどうかちょっとわからない。
階段でホームに向かう。
いったいどういうことなのか
うすぐらい階段をのぼりきった先に見えたのは、とってもせまいホーム。
ホーム自体の幅は2、3メートルはあるかもしれないが、肝心の「黄色い線の内側」がめちゃめちゃせまい。
わかってるけどさ……
もちろん、危険防止のため、黄色い線の内側で待たなければいけないので「黄色い線の内側でおまちねがいます」と注意書きが書いてあるものの「そんなこと言ったって……」という感想しかない。
ホームの先まで行ってみる。
これはやばい
階段のあるあたりよりさらにせまい。
中津駅は、西日本最大の私鉄駅と言われる阪急梅田駅の隣に位置し、電車のスピードはそんなに早くないとはいえ、停まる停まらないにかかわらず、神戸線と宝塚線の電車がホームの横をひっきりなしに行き交う。
上り下りの電車が停車するとこんな感じになる。
圧迫感あるな
あまりにもせまいので、何センチぐらいか測ってみた。
だいたいこれぐらい?
いちばんせまそうに見える場所で、黄色い線の内側の幅は38センチのようだ。38センチと言われてもピンとこないかもしれない。
ぼくの自宅の近くにあった側溝のグレーチングが、だいたい35センチぐらい。
グレーチングの幅を調べると
35センチ
近くにあったコーンの重りの部分も測ってみると、約37センチ。
コーンの重りの部分が……
約37センチ
他にも、洋式便座の幅とか、マンホールの蓋とかが、だいたい40センチぐらいだった。身の回りにある、ちょっとしたものはだいたい40センチぐらいといってもいいかもしれない。
黄色い線の内側はそんな感じなのだ。
とにかくせまいので、ベンチより幅をとらない背もたれサポーターを設置してくれているけれど、そのせいで黄色い線の内側がまったく無くなってしまっている。
背もたれサポーターですよねこれ
ここだけは、あえて黄色い線の外側にはみ出ないと歩けない。
そんな中津駅のせまいホームだが、実は、このホームよりもっとせまいホームが、かつてはあった。
阪神本線の春日野道駅のホームが日本でいちばんせまいホームだと言われていた。
しかし、春日野道駅は、駅改修工事が行われ、2004年にせまいホームの使用は中止されたため、現役のホームで、日本一せまいのは、この中津駅ではないかといわれている。
中津駅に京都線が停車しない理由
さて、この中津駅、阪急電鉄の神戸線、宝塚線の電車は停車するけれど、京都線は線路が並んであるにもかかわらず、中津駅を通過してしまい、ホームさえもない。
阪急の路線図をよく見ると、京都、宝塚、神戸からのそれぞれの路線は、大阪の梅田(大阪駅)に向かって集結するような形になっているが、京都線だけ中津駅がない。
京都、神戸、宝塚が、十三でひとつに!
十三と梅田の間にあるのが中津
これは、阪急の京都線の成立過程が関係している。
中津駅は、1925年(大正14年)に、現在の阪急電鉄の前身である阪神急行電鉄の駅として開業したが、これは現在の阪急神戸線に相当する部分だ。
そして、阪急京都線は、もともと京阪電鉄(京阪電気鉄道)の設立した子会社「新京阪鉄道」が建設した鉄道路線である。
つまり、淀川を挟んで相対するふたつの私鉄路線は、同じ京阪電鉄のものだった。
※阪急、京阪、阪神と、関西になじみのない人にとってはなにがなにやらチンプンカンプンだと思うので、現在のだいたいの略図を御覧いただきたい。京都、大阪間の鉄道路線には、ざっくりと、阪急、京阪、JRがあると認識していただければと思う。
ざっくりとした略図。(新幹線などはかいてません)
1943年(昭和18年)の地図を見てみると、たしかに「京阪電鉄新京阪線」と書いてある。
『最新大大阪全圖』(日本統制地図株式会社・昭和18年)より
淀川の左岸側(南側)にある京阪本線は、1913年(大正2年)に全通したが、これは住宅地のなかをうねるように走る路線だったため、高速運転ができなかった。そのため、京阪電鉄は京都と大阪をもっと早くつなげるべく、線路のカーブが少ない新しい路線を、当時あまり人が住んでいなかった淀川の右岸側(北側)に建設した。それが新京阪線(現在の阪急京都線)だ。新京阪線は、大阪の十三駅が起点で、梅田まで乗り入れしてなかった。
太平洋戦時中、阪神急行電鉄(現在の阪急)と京阪電鉄は戦時体制強化のため、国策で合併することになる。そして終戦を迎え、戦後になると、今度は阪急と京阪が分離することになったのだが、そのさい、新京阪線は阪急のものとなってしまい、阪急京都線となってしまった。
なぜ、新京阪線が阪急にとられてしまったのかは諸説あり、はっきりした理由はよくわかってない。そのへんは、ウィキペディアなりグーグルなりで各自検索していただければ諸説がわかるので、おもしろいと思う。
さて、阪急の路線になった京都線が、十三から先、梅田まで延伸したのは戦後、1959年(昭和34年)になってからだ。
そのとき、中津駅にはすでに神戸線、宝塚線のホームがあったが、新しく京都線のホームを設けるだけのスペースがなかったため、京都線は中津駅をスルーすることになったという。
中津駅のめちゃせまホームは、阪急と京阪の歴史が関係していたといっても過言ではない。
めちゃせまホームから「京阪京都線」を想像する
もし、戦後の分離独立のとき、新京阪線が、阪急ではなく、京阪側に残っていれば……京阪本線の特急列車はそんなに多くなかったかもしれず、鳩マークの特急が十三から京都まで走っていたかもしれない。
十三から梅田までの乗り入れができていたかどうかはあやしいけれど、もしかしたら、十三に京橋みたいな京阪モールや、茨木や高槻あたりに京阪百貨店が作られていたかもしれないが、作られていないかもしれない。