父は宮崎県で生まれ、東京に出てきて結婚して練馬に家を構えた。子どもふたりが成人して就職したあと、宮崎に戻ってセミリタイアのような生活を送った。
もともと自動車の整備士で、その後は自動車事故の事故額の査定という仕事をしていた。自営業なので毎日決まった場所に出勤する仕事ではなかった。
これはこのあとのエピソードに通底する、機械好きという話の伏線である。
東京での萌芽
このページは昭和50年代の東京・練馬の家での話である。僕の子どものころの話だ。
昔の人なので厳しくて怖い父親だったが、たまにおかしなことをした。
たとえば洗濯機にキャスターをつけた。
移動洗濯機
風呂の残ったお湯を洗濯機に入れやすいよう、洗濯機を移動式にした。
洗濯機にキャスターを付けて動かせるようにしたのだ。脱衣所との段差をなくすために風呂内にレールを敷いた。
洗濯するときだけ、洗濯機が浴室に入ってくる
昼は廊下を洗濯機がゴロゴロと移動していた。
その話を大人になってから人にしたところ、長いホースを使えばよかったのではないかと指摘された。
あ
一家でホースという発想がなかった。
手作りジャグジー
風呂に手作りのジャグジーを作ったこともあった。塩ビパイプにドリルで穴を開け、その塩ビパイプにポンプで空気を送る。
その塩ビパイプを風呂に沈めるとジャグジーになる。
使うとテレビの音が聞こえなくなった
そのポンプはジョーカソーからとってきたと話していた。中学生ぐらいだったのでジョーカソーがよく分かってなかったが、今ならわかる。浄化槽だ。
汲み取り式のトイレのうんこをためておく場所である。うんこをかき混ぜて分解するためにポンプが付いていた。
たぶん昭和50年代、練馬に下水道が整備されて浄化槽が必要なくなったのだろう。そこにあったポンプの再利用だったのだ。
それを使ったジャグジーだ。
浄化槽のポンプでかき混ぜられる、いってみればうんこ気分である
ドドドドと小気味いい音を立てて空気を出すポンプを見ていいポンプだと父は満足そうだった。
自転車にタッパーをつける
兄の自転車にタッパーをつけたこともあった。警官が乗っている自転車の後ろの箱のような感じで、タッパーをつけた。
当時、流行していたロードマンにタッパー
ただ、タッパーなのでフタがにゅーっと外れる。見た目もかっこ悪いうえに、機能的にもいまいちだ。
僕は自分の自転車じゃないので便利そうだと適当なことを言ったが、兄は外してくれと怒った。
家に車の部品がやたらとある
家にホイールやヘッドライトのカバーなどがあった。
先にも書いたが父の仕事は事故額の見積もりである。
修理工場が部品の交換が必要としたときに、その部品を持って帰ってきてしまうのだ。交換としたのに板金で直すなどの不正を防ぐためだという。
なるほどと思うが、家にホイールは邪魔である。
フェアレディZのヘッドライトのカバーは雪の日にそりにして遊んだ。
ホイールを再利用した花壇。生えてる草が周囲の草と変わらない
家の壁に絵を描きたいと言う
と突然いい出したのだ。絵心はない。どんな絵を描くのかと聞くと、チューリップの絵とのことだった。
母とお願いだからやめてくれと言った記憶がある。
いまはこうして家に浄化槽のジャグジーがあったことを書けるが、高校生のころは恥ずかしかった。いとこのお姉さんが来たときにジャグジーを見て爆笑していたが僕は笑えなかった。
そのころ、珍スポットや探偵ナイトスクープのパラダイス系というポップにくくる言葉がなかったので、ただ、変わった家だったのだ。
宮崎で珍スポット化が加速する
僕が就職したあと、父は練馬の家を売って宮崎に引っ越した。東京でくも膜下出血になって一命をとりとめたので好きなことをしようと思ったのかもしれない。
僕の自転車を宮崎に持っていいかと言われたので、まあ、あれば乗るけど宮崎で必要であればと思ってOKした。
その後、宮崎の家に行ったらその自転車が風車になっていた。
乗るんじゃないのか。
猿の惑星のラストシーンのようだった
東京編を終えるにあたってまだ思い出したことがあるが面倒なので箇条書きにする
・3次元ものさしと称してXYZ軸のあるものさしを作って特許を取る(一攫千金ならず)
・キャンプで焚き火を強くするためにガソリンをかけて爆発させる
・付き合いのある損保の事務所が引っ越すのでオフィス家具を大量にもらってきて居間が事務所みたいになる
父と母と3人でオフィス家具を借りたトラックに積みこんだ。帰りの川越街道の景色を妙に覚えている
納豆かくはん器が送られてくる
宮崎の家は広かったし時間もあったので父の活動は加速した。この頃から父のおかしさが厳しさを上回り始める。
ある日、納豆をかき混ぜる機械を作ったと電話で話していた。
よくわからないけどそれはいいねと答えたら家に送られてきた。
かき混ぜる機械というか、ドリルを固定する枠だ。
納豆のカップをドライバーの下に持ってくる。ドライバーだけではだめなのだろうか
電動ドライバーには曲げられたフォークが付いていた。実家で使っていたフォークである。
父はものを作っているとき、専用の器具を買うのがまどろっこしくなって身近なものですませてしまうのだ。練馬に住んでいる頃、蘭に突然凝り始めたことがあった。蘭の写真を撮るときの背景布として自分の白いベストを壁に貼っていた。
母はあれはいいものなのにと愚痴っていたが、いま思えば白いベストを着ていたことのほうが意外である。
温泉を運ぶためにトラックを買う
宮崎の家の近くで温泉が出た。道路工事をしていたら出たという。温泉施設ができるまでただ持って帰っていい温泉としてホースから水が出っ放しになっていた。
地元の人がポリタンクで温泉を運ぶなか、父は運ぶためのトラックを買った。
荷台にはでかいタンクが設置されていた。
業者感が半端なかった
それで温泉を運んで家で沸かして入っていた。(鉱泉だった)。
やがて温泉施設ができて自由に持ってかえることができなくなった。トラックのタンクは雨水をなんとなく貯めるタンクとして庭に置かれた。
この記事でも父がお面を作っていることが書いてあるが、そのきっかけは能面だった。趣味として能面を彫り始めたのだ。
当初のお面(お手本含む)と道具
最初はちゃんとしていた。か、これはお手本でもらったものかもしれない
しかしやがて色を変えはじめ
形も変えはじめる。
すぐにオリジナルになった。能面は彫刻刀を使うが、父はグラインダーなど電動工具を駆使してスピーディーに彫っていた。
着色はエナメル塗料のほか、プリンタのインクを使っていた。
こういうのをスポンジに振って出して
独自の道具でぽんぽんと叩いて塗っていた
削るのはグラインダー、着色もエナメル塗料にひたすなど趣味なのに効率化を実現したため、作品はものすごい勢いで増えた。
玄関に飾られた作品(これでも一部)
東京に住んでいたころからその予兆は感じられていたが、ここにきて実家の珍スポット化が完成した。
僕はもう成人していたので変わった実家に折り合いがついていたが、高校生のときに家がこうだったらどうしていただろう。
作品の中にはだるまもあった。エイリアン風
こちらはダフトパンク風味
ポスターを作る
作品はその後、大型化していった。大きな木が手に入ったからかもしれない。
でかくて重い
これは待て待て人形という名前だと言っていた。
この作品の写真を使ったポスターを作りたいからパソコンで文字を入れてくれと言われた。
指示された文字を入れた。フォントは僕がふざけた
父はこれを貼ってくれと金融機関に持っていった。振込詐欺の防止の啓発だそうだ。
同行した母いわく、ものすごく怪しまれた、とのこと。最初、クレーム客だと思われて支店長が出てきたが、意図が理解されて最後はにこやかに終わったらしい。
宮崎の金融機関にこれが貼られたのだろうか。
遺品も謎
先日、母に「お父さんの荷物を整理していたらこんなものが出てきたのであげる」と言われてこれを渡された。
これでなにか記事が書けるだろうか。なんの形をとったらおもしろいだろう。
いなくなってもまだ振り回されているみたいで少し笑った。