東京メトロ大手町駅の「あぶない!!」はたぶん、もう、アート
私は東京メトロ大手町駅をよく利用する。丸ノ内線から半蔵門線へと乗り換えるために階段かエスカレーターでホームへ降りる必要があるのだが、その階段の途中にこんな注意喚起看板がある。
駆け込み乗車が招いた悲劇を表現している。
躍動感のある「あぶない!!」の文字。閉まりかけたドアに無理矢理足の先を突っ込むも、挟まれ、尻もちをつく紳士。
こんな風に、高い位置に貼られていて、エスカレーターで下っていくと視線の正面にゆっくりと現れる。
この階段の右の壁の向こうにエスカレーターがあり、大勢の人が「あぶない!!」を自動的に目にすることに。
「駆け込み乗車をしようとしても損しかしない」ということを強く訴えてくるこの看板、相当昔からこの場所にある気がする。私自身、これまでになんとなくだが「千回は見てる」という実感がある。そしていつ見ても「いい絵だなー」と思うのだ。
よく見るとキャンバスとなるシートの上に様々な色のシールを切って貼って作ったものらしい。
重ね貼りゆえにドアに突っ込んだ足がボコボコしていたりする。
かなり手の込んだもので、「駆け込み乗車はやめようね」ということがちゃんと伝わってきながら、しかも全体的に「なんか面白いな」という味わいが漂っている。これはもう“作品”だろう。注意喚起を行うためのイラストという機能を越えた「良さ」が存在しているのだ。見ているうちにこの「あちゃーっ」と思わずにいられない紳士が好きになってくる。この絵を額に入れて飾りたいという人がいたっておかしくない。私はその一人である。
この作品の作者は誰なのか、東京メトロに聞いてみた
この絵がとても好きなので、当然誰が作ったものなのか気になる。東京メトロの広報部広報課に問い合わせたところ、この看板が設置された経緯について担当の方が力を尽くして調べてくださった。
が、残念ながら真相はわからなかった。「平成11年(1999年)にはすでに設置されていた」ということは確かだそうなのだが、設置経緯の記録などは残っていないそうである。
もし「あれを誰が作ったか知ってますよ」という方がいたらぜひご連絡いただきたいが、それはそうとして、真相が分からないということは、おそらく多くの人が関わって作られたものではなく、駅関係者の中で誰か手先の器用な人が駅を安全に使ってもらおうという気持ちから自発的にやったようなものなのであろう。
駅の中にはそのような“作者不明の作品”が他にもきっとたくさんあるのではないかと思った。そしてそれを探し歩きたいと思った。というというところまでが前置きである。さて、その“駅アートめぐり”をするにあたり、一人では心もとないので、誰かその道に詳しい人に手伝っていただけないかと思った。
しかし、「その道」ってなんだ。そんな道あるんだろうか。あるわけないな……と思いかけたのだが、私がお手伝いしているシカクで扱っているミニコミで、『銀座線で見た野良サイン』という本を扱っているのを思い出した。
79ページフルカラーの力作。
“「野良サイン」とは、駅員の人がその場しのぎ的に手作りした案内表示など、ちゃんとした設計の上でつくられたサインから逸脱してしまったサインのことです”と
「野良サイン」の公式サイトに記載されている通り、駅の壁に掲げられたちゃんとした案内プレートなどとは別に、必要にかられて駅員さんが自作した案内サインを“野良サイン”と名付けて研究した本なのである。
こういったものなどを“野良サイン”と呼んでいます。
頑張ったのが伝わる可愛い文字。
なんという聞いたこともない研究対象であろうか。しかし、“オフィシャルなデザインから逸脱したものに愛着を覚える”という視点はまさに私がなんとなく思っていたことそのもので、同行していただくのにこれ以上ふさわしい方はいないと思う。
大手町の「あぶない!!」は3種類ある
というわけで、『銀座線で見た野良サイン』の作者である“ちかく”さんにも参加していただき、“駅アートめぐり”に出発。まずは前述の東京メトロ大手町駅からスタートだ。今一度じっくりとあの看板を味わってから先に進みたい。
ちかくさんのお顔は掲載できないのですが物腰が柔らかくシュッとした雰囲気の方です
実は「あぶない!!」のあの看板。全部で3つある。半蔵門線大手町駅のホームから改札口へと通じる階段・エスカレーターのうち3カ所に「あぶない!!」の看板がかけられているのだ。並べてみよう。
ひとつめ。
ふたつめ。あれ?
みっつめ。あれあれ?
お分かりになっただろうか。まるっきり一緒に見えて実はそれぞれ全然違うのだ!
顔の造作、スーツの色、ネクタイなど細かいところにそれぞれ個性がある。
しかも、これは私も後になって気づいてちょっとゾッとしたのだが、上の画像の一番左のサラリーマンだけ右手の薬指に指輪をしている。
色が同化していて少し見にくいけど何かある。
しかも、この画像を見てわかったのだが、リフレクター素材になっていて光を反射している!
なんと細かい仕掛け。
なんだかこれ以上細かく調べるとこの記事で扱えないヤバい謎に行き当たりそうで怖い。とにかくこうして一つずつの違いを確かめながら鑑賞するのが楽しい作品である。「3つもある上にそれぞれ違うとは知りませんでした!すごい発見ですよ!」と語るちかくさんとともにひとしきりはしゃいだ。
新宿御苑前駅の謎のたぬきイラストの正体は
大手町駅から次に向かったのが丸ノ内線の新宿御苑前駅である。今回“駅アートめぐり”をするにあたり、ちかくさんが事前にいくつかの作品を探してリストを作ってくれていた。その中のひとつで、なんともいえないたぬきの絵が鑑賞できるというのが新宿御苑前駅。
改札口に作品が設置されていた。
「お手洗いはあっちだよ」
作者はきっと優しい人だろうな、と思わせるタッチ。
新宿御苑前駅の構造は「相対式ホーム」になっていて、反対方面のホームに行くためには階段で一旦ホームの下へ降りて反対側へのぼる必要がある。全体的にはそのことを示す案内板で、トイレは向こうだよ、ということも書いてあって、謎のたぬきがそっちを指さしている。別にここに絵が無くたって機能的にはまったく問題ないのである。でも誰かが「ここに絵がある方が良い」と思ってたぬきを描いた。
さらに別の改札口にはこんなものがあった。
和風なタッチだ。
筆を持ち「ふりー」と描くたぬき。フリーペーパーホルダーに描かれた作品である。先ほどのものとは作者が違うのか、こちらはかなりしっかりしたタッチである。
「それにしてもなんでまたたぬきなんでしょうね」とちかくさんと二人で話していると、すぐそばに立っていたおばあさんが「ここの駅員さん、とても親切よ。なんでも聞いてごらんなさい」と教えてくれた。ちょうど駅員さんがいたので「なんでたぬきの絵がたくさんあるんですか?」と聞いてみると、「あれは『メトポン』という東京メトロのキャラクターなんですよ」と教えてくれた。
最近でこそ「駅乃みちか」ちゃんに押されているが、「メトポン」もれっきとしたオフィシャルキャラ。それを知らずに“謎のたぬき”などと、失礼な物言いになってしまった。早速ちかくさんとスマホで検索し、「メトポン」に妻の「ちかポン」、息子の「ポン太」がいることなどを知る。
「メトポン」じゃないけど「PASMOのロボット」の絵もうまい。
駅は機能性のある美術の宝庫
それにしても、駅の中には本当に色々な手作りの表現があふれている。例えば右側通行を示す矢印。
この矢印の形も誰かが「こんな感じが良いだろう」思って作ったものなはず。
例えば左側通行を指示する案内サイン。
「事故、怪我、トラブルのそれぞれの間隔はこのぐらいが良いだろう」と誰かが考えたはずなのだ。
何かを伝えようとすれば、どのように伝えるのが一番良いかを考えることになり、そこに作者それぞれの創意が生まれる。そしてその時点でもうすでに作品っぽい何かになっている。
途中立ち寄ったJR新宿駅で「修悦体」と呼ばれる佐藤修悦さんのガムテープ文字を鑑賞した。
改めてまじまじと見ると「中」の字がすごい。すぐゲシュタルト崩壊する。
この「修悦体」も、機能性だけを見たらただの案内サインなのだが、ただ機能性が必要なだけだったらこうである必要はない。作者の表現欲求や、人に「なんか良いな」と感じて欲しいという思いがなければこのような独特の形にはなっていないはずだ。
なんと妙に気持ち良い文字だろうか。
紙とテープで表現された三角コーンも良い。
また、ちかくさんが気に入っているという「中央本線 大月・甲府・松本方面」の案内表示の中のこの富士山の絵。
パソコンの描画ソフトで描いたと思われる。
この雪のギザギザをこんな感じにしようと思った誰かがなんだか愛しいではないか。
こうやって矢印を横に10個ずつ並べようと誰かが考えた。
こうした方が伝わりやすいかな、こうした方が目を引くかな、とか、そうやって誰かが考えて作ったということが、徐々にたまらなく素晴らしいことに感じられてくる。なんだろう、この気持ち。
ちかくさんに聞く野良サインの喜び
JR新宿駅から次の目的地であるJR武蔵小杉駅に向かいながら、ちかくさんに「野良サイン」というものの面白さについて聞いた。
ちかくさんはもともと駅の中に存在する完璧にデザインされたような案内表示が大好きだったんだとか。カメラ片手に電車に乗り、そういったものを撮影してまわっているうちに、駅の中には鉄道会社がちゃんとお金をかけて作っているもの以外の、パワーポイントで作ってプリントしたような貼り紙や、駅員さんが自分のセンスで書いた案内表示が溢れていることに気づいた。
最初はそういったものが野暮ったく感じられて仕方なかった。せっかく端正にデザインされたフォントで「JR〇〇線」などと表示しているのに、その横に「〇〇線ではありません!」などと手製の貼り紙が貼ってあったりする。手作りの貼り紙類が駅の美観を損なっているのではないかと感じていた。
ちかくさんの一押し野良サイン。なんとも素朴な「出口」の文字。
しかし駅を歩けば歩くほど、あか抜けない案内表示の方に目にいくようになってきて、そういったものを撮った写真データがたまっていった。ある時、むしろそっちに的を絞ってまとめてみたら面白いのでは、と思い、それらの案内表示をオフィシャルなサインに対して“野良サイン”と名付け、最も古い地下鉄路線である東京メトロ銀座線の全駅を対象にして収集してみることにした。
一度収集するだけでなく、2009年、2012年、2015年と3年ごとに同じ駅を訪れ、その間に消えてしまった“野良サイン”と新たに生まれたものを定点観測的に調べていった。その結果をまとめたミニコミ『銀座線で見た野良サイン』を作成し、「Eidantoei」というサークル名で同人誌の即売会等に出展しているほか、最近では駅の片側通行を喚起するポスターに着目し、『#片側通行ポスター ハンドブック』というミニコミを作って売っている。
新宿御苑の中華料理店「太子楼」の手書きメニューを定点観測した『太子楼五體字類』という本もヤバいです。
「本日の定食」という黒板に書かれた文字を並べて比較しています。
ちかくさんのとって“野良サイン”の魅力とは「整ったフォント、整ったデザインからはみ出す人間味」にあるという。ちゃんとしたデザインの案内サインだけで完結できるのが駅としては一番美しい。だが、どうしてもそれだけでは足りない不都合が色々出てくる。例えば「トイレの場所がちょっと分かりにくい」とか。そういう不便をなくし、少しでも駅を便利に利用してもらおうと考えた駅関係者の方々が、やむにやまれずに手作りの案内サインを作る。そうして作られた“野良サイン”には完璧じゃないゆえの面白味がある。
武蔵小杉駅の通路には32枚のパネルを使った大作が
楽しく話しているうちにJR武蔵小杉駅に到着。先ほどからあらゆるものが作品にしか見えなくなってきている私はあちこちで足を止めてしまってなかなか前に進めない。
柱に貼られた案内表示の中には武蔵小杉駅のキャラらしき、胸に「M」の文字の入ったロボが。
優しく声をかけてくれる「武蔵小杉駅のロボット」。なんとシンプルな形。
ホームに黄色テープで囲まれたスペースがある。
なんだろうと思うと正面の柱に「頭上、ハトに注意」とある。
なるほどハトのフンに注意すべきスペースを示していたのだ。ちょっと雑な黄色テープの処理も味わい深いし、ハトのフンを白い水滴の記号で表現する潔さもいい。
また、ホームから改札口へと通じる階段を降りたところにある床にテープで書かれた案内文字も「修悦体」とは違った素朴な魅力がある。
東急の「急」がタッタッタと走っている感じで可愛い。
このSuicaに手足が生えたようなヤツもいいぞ。
どれも作り手の息遣いが伝わってくるような感じがする作品だ。
ようやくたどり着いたのが横須賀線ホームと南武線ホームを結ぶ通路の途中にあるパネル表示だ。ここもちかくさんがピックアップしてくれた場所。
こんな風に通路の壁際にずらっとパネルが並んでいる。
パネルの数は全部で32枚。一枚の写真には全体が収められないような巨大な作品なのだが伝えようとしていることはシンプルで「混雑時は三列に並んで整列乗車をしましょう」というものだ。
写真やイラストを交えて三列乗車を喚起している。
団子が一本ずつ増えていくそのリズムが気持ち良い。
色んなキャラが大集合してパーティー状態。
この作品もまた、ただ三列乗車を呼びかけるという機能性を大幅にはみ出した不思議な勢いにあふれている。「とりあえず、やるぞ!」という感じ。
作品の前で記念撮影。
どんな駅にも作品がある
この後、武蔵小杉駅から五反田駅へと移動し、引き続き駅アートを探し続けた。
テープを貼って作った案内表示が通行人の足によって少しずつ削れて生まれた丸っこさが良い。
混みやすい傾向にある車両を示す表示。色と表情で快適さを表現していてわかりやすい。
初めて存在を知った「目黒駅鳥ごんのすけ」。
「タバコだめ!!」と泣き出してしまった目黒駅鳥ごんのすけ。
「鳩にエサを与えないで下さい!」というポスターの中のハトの絵のタッチ。
JR五反田駅の寄り掛かり注意ポスター。謎のかえるキャラは誰が作ったものなのか。
歩けば歩くほど、どんどん駅アートが見つかって果てしない。気づけばあっという間に6時間ほどの時間が経過していた。JR五反田駅を本日のゴール地点にすることにして、ちかくさんに今回の駅アートめぐりについて感想を伺った。
「普段は“野良サイン”ばかりを探しているので、イラスト系のものまで含めて幅広く探し歩いてみて思った以上の発見がありました。サイン以外にも“野良”なものは予想以上にたくさん存在するんですね。手の込んだものもちょっと雑なものも、それぞれに面白さがありました。あと、いつもは一人で撮影することが多いので、『あっ!あそこにもありますよ!』という風に思ったことを声に出せるというのがすごく楽しかったです(笑)」
同行してもらった私としても、ちかくさんの視点を借りながら生まれて初めてのレベルで細かく駅構内を見ることができ、たくさんの発見があった。大きな駅になるほどどこか無機質なものに感じられるけど、実はあちこちにそれを維持している人の気配が見つかる。そしてそれが見つかることで、いつも使っている駅が少し身近なものに感じられたりする。その自分の心の変化も楽しい。
休みの日に一日乗車券を買って友達と駅アートめぐりをするのも楽しいかもしれない。路線によって作風が違ったりするのか?関東と関西に差はあるのか?など、私自身、気になることがたくさん出てきたのでこれからも研究を続けて行こうと思う。
駅はどこかへ行ったりどこかから帰ってきたりするために利用する場所だ。でも、あえてその駅をじっくり歩きまわってみる。するとそれだけで楽しくてどんどん時間が過ぎ去っていった。
見ていただいた通り、駅アートのほとんどはまったくスマートではない。「ゆるかわいい」という感じですらない、なぜこんなものを……と言葉を失うようなものばかりだ。でも、だからこそ、それでもこういうものを作ろうとする名も知らぬ誰かの人間くささが浮かび上がる。
今までは電車を待つ間のちょっとした時間が暇で仕方なくてすぐスマホを見たりしていたが、ホームを端から端まで歩くだけで思わぬ駅アートに出会えたりするのでやめられない。
写真は五反田駅から少し離れたところにあった横断禁止看板。これもまた可愛い。