特集 2016年6月1日

思い出の狭隘トンネルを探しに伊勢志摩へ

約20年前に遭遇したトンネルを探しに志摩半島へいったら、こんな道を通ることになりました
約20年前に遭遇したトンネルを探しに志摩半島へいったら、こんな道を通ることになりました
高校生の頃、友達と二人で下関まで旅行した。移動手段はママチャリ、宿を取らずに野宿という若さにすべてを任せた強行軍であったものの、生まれて初めての長期旅行ということもあり、私の旅行歴の原点というべき大冒険であった。

辿ったルートは単純明快。神奈川県の自宅からスタートし、ひたすら国道1号線を突き進む。名古屋を過ぎたら紀伊半島を海岸線沿いにぐるっと周り、大阪からは国道2号線を辿るというものである。

その道中、志摩半島で不思議なトンネルに出くわした。地図に赤く記された国道を走っていたのだが、いつしか道は細くくねった山道となり、やがて私たちの面前に見たこともない馬蹄型のトンネルが姿を現したのだ。

自動車が一台通れるかどうかも怪しいくらいに狭いうえ、坑内に照明はなく真っ暗。おそるおそる足を踏み入れると、天井から滴った水が頭に当たり、死ぬほど驚いた覚えがある。

あのトンネルは今もなお存在するのだろうか。下関旅行から20年近くが経った今、かつての旅程をたどりつつ、記憶の中にある狭隘トンネルを探しにいくことにした。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

前の記事:新宿新都心へ一直線、「水道道路」に見る水路の名残り

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かつての足取りを追って

下関旅行の発端は友達との何気ない会話の最中、ふと二人ともフグを食べたことがないという話題になった。それなら本場のフグを食べにいこうと、夏休みを利用して本州最西端の下関まで自転車を走らせることになったのだ。

まだひんやりとした空気が漂う夜明け直後の早朝、私たちは各々のママチャリにまたがり、国道1号線に向かってペダルをこぎ始めた。
あの時も通った道を辿る。当時はママチャリだったが、今ではカブ(原付)だ
あの時も通った道を辿る。当時はママチャリだったが、今ではカブ(原付)だ
神奈川県西部の国道1号線には、旧東海道の並木が結構残っていて楽しい
神奈川県西部の国道1号線には、旧東海道の並木が結構残っていて楽しい
小田原城に寄ってみたりもしたのだが――
小田原城に寄ってみたりもしたのだが――
休憩がてら、自転車を止めて小田原城を見学したことを覚えている。しかし本丸まで上る途中に話好きなおじいさんにつかまってしまい、小田原城についてのうんちくを延々聞かされるハメになった。

私は今でこそ古いモノが大好物であるが、当時はまだ歴史や文化財にさして興味がなかった(過去は振り返らない主義だとかイタいことをいって歴史の授業をサボっていた)。おじいさんの話もほとんど聞き流していたとはいえ、時間のロスに少々の焦りを覚えながら箱根の山に向かったのである。
箱根路の入口、堂々たる構えを見せる函嶺(かんれい)洞門
箱根路の入口、堂々たる構えを見せる函嶺(かんれい)洞門
箱根湯本に存在する函嶺洞門は昭和6年(1931年)の竣工で、2014年まで現役の国道1号線として利用されていた。2015年には前後に架かる旭橋・千歳橋と共に重要文化財に指定されている。

当時、私は「なんだか不思議なデザインだなぁ」と思いながら函嶺洞門を通り抜けたことを覚えている。その時はこの洞門が昭和初期にまで遡る由緒正しき土木遺産であるとは露にも思っていなかった。

そうして突入した箱根路であるが、自転車で越えるには本当に大変であった。というのも、ギアなしのママチャリではどこまでも続く上り坂に太刀打ちできず、峠までのほぼ全区間、自転車を押して歩くこととなったのだ。
容赦なく肌を焼く日差しの下、ひーこら言いながら坂道を上った思い出
容赦なく肌を焼く日差しの下、ひーこら言いながら坂道を上った思い出
貧血気味で倒れそうになりつつ、なんとか最高地点まで辿り着いた
貧血気味で倒れそうになりつつ、なんとか最高地点まで辿り着いた
結果的に、下関までの全行程の中で一番きつかったのは箱根越えであった。この先も静岡県などで何度か峠を越えたりしたのだが、それでも箱根に比べると遥かに低い難易度であった。

「箱根の山は天下の険」とはいったもので、まさしく東海道一の難所というべき道のりであった。RPGでいえば、王様から剣と盾を貰って出発した最初のダンジョンにラスボスが潜んでいたようなものである。

箱根峠からは一気に下り、静岡県を西へと進んだ。富士市に着いたところで日が暮れたので、私たちは富士川の河川敷で寝ることにした。最初は雨をしのげる橋の下で寝ようとしたのだが、橋を通り過ぎる車の音があまりにうるさく、結局は野球場のベンチに体を横たえた。
初日はこの富士川の河川敷で夜を明かしたのだ
初日はこの富士川の河川敷で夜を明かしたのだ
寝袋すら持たない野宿は高校生だからできたこと、現在はテント泊である
寝袋すら持たない野宿は高校生だからできたこと、現在はテント泊である
二日目も日の出と共にスタートし、ひたすら西に向かって自転車を走らせた。静岡県内は国道1号線が高架のバイパスになっている箇所が多く、迂回路を探しながら工業地帯や田園地帯をさまようことも多かった。

静岡県の東部はまだ景色に変化があって楽しかったのだが、西部は平坦かつ単調な道がひたすら続く。強烈な西日と向かい風を受けながら、ペダルをこいでもこいでも風景が変わらず、精神的に辛かった覚えがある。
静岡県西部はよくある国道沿いの風景がどこまでも続く
静岡県西部はよくある国道沿いの風景がどこまでも続く
この日は友達が「宿泊地のアテがある」といっており、浜名湖の西岸までいかねばならなかった。なんでも、母親の上司が若い頃に旅先で泊めてもらったお寺があるとのことだ。だいぶ昔のことのようだし、人様に迷惑を掛けたくなかった私はあまり乗り気ではなかったのだが、友達の押しに負けてそのお寺を目指すことと相成った。

しかし東西に長い静岡県は抜けるのに時間がかかる、浜名湖の弁天島に着いた頃には既に夕暮れ時であり、目的のお寺に到着したのはどっぷり日が暮れた後。しかもあっさり宿泊を断られてしまい(連絡もなしにいきなり泊めてくれてといわれ、お寺も困ったことだろう)、結局は児童公園のベンチで寝た。

三日目ともなると、体が自転車旅行に慣れたのだろう、あまり苦労した覚えはない。昼過ぎくらいにサクッと名古屋に辿り着き、そのまま四日市に向かったように思う。
そうそう、高架下の交差点で左に曲がったのを覚えている。国道1号線は名古屋市中心部には入らないのだ
そうそう、高架下の交差点で左に曲がったのを覚えている。国道1号線は名古屋市中心部には入らないのだ
四日市からは大津方面へ向かう国道1号線に別れを告げ、伊勢へと続く国道23号線に乗り換えた。なぜ東海道をそのまま進まず紀伊半島を周ることにしたかというと、要は山道を忌避したのだ。

東海道は琵琶湖岸の大津を経由する→湖があるということは山なのだろう→キツイ上り坂がありそうだ→なら海岸沿いの方が楽だろう――という実に安直で稚拙な考えである。

初日の箱根峠があまりに辛かっただけに選んだルートだったが、このチョイスが大きな間違いであったことがやがて明らかとなる。
海岸線沿いの国道は思惑通り平坦な道であった――そう、伊勢志摩に入るまでは
海岸線沿いの国道は思惑通り平坦な道であった――そう、伊勢志摩に入るまでは
ちなみに三日目は、四日市を過ぎた辺りで日没となった。私の記憶によると、野宿ポイントは国道23号線から少し外れ、橋を渡ったところにある三角形の公園だったはずだ。

正確な場所を明らかにすべくGoogleマップとにらめっこをしているうちに、それらしい場所を見つけることができた。よし、確認しにいってみよう。
記憶の通りに橋を渡る。たしか「楠町」という標識があったような気がするが、楠町は2005年に四日市市と合併したそうだ
記憶の通りに橋を渡る。たしか「楠町」という標識があったような気がするが、楠町は2005年に四日市市と合併したそうだ
道路の右手に草木が生い茂る一角が見えた
道路の右手に草木が生い茂る一角が見えた
おぉ、ここだここ、間違いない!
おぉ、ここだここ、間違いない!
まさしく記憶の通り、橋を渡ったところに三角形の緑地帯があった。確かこの場所にシートを敷いて寝たのだったか……いや違う、二つあるベンチにそれぞれ横たわって寝たのだ。間違いない。

そうだ、この場所を野宿スポットに選んだのはベンチがあったからなのだ。初日は野球場のベンチ、二日目は公園のベンチ。なんとなくベンチで寝る流れができ、三日目も寝る為のベンチを探してここに辿り着いたのである。

それまでおぼろげだった記憶が、実際に現地を訪れることで鮮明に蘇ってきた。それと共に、当時と寸分違わぬこの場所に不思議な感慨を覚えたのであった。
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絶望と温情の志摩半島

四日目は寝不足でのスタートであった。寝床のすぐ側にコンビニがあったのだが、そこにたむろする走り屋のエンジン音がうるさく、なかなか寝付けなかったのだ。とはいえ、エネルギーが有り余っていた当時の私たちは、それでも普段と変わらぬペースで自転車を走らせていた。

バイパス化した国道23号の側道を走り、線鈴鹿を越え(サーキットを見たかったと記憶している)、松阪を横切り(松阪牛を食べたかった覚えがある)、伊勢を通り過ぎた(伊勢神宮が気になったことを思い出す)。

この旅行において、私たちは観光らしいことをほとんどせず、ただひたすら自転車をこぐのみであった。せっかくの旅行なのだから色々見ておけばよかったのにと思うが、当時の私は斜に構え、観光なんて浮ついたことをせずストイックに目的を達成することを良しとしていたのだ。……実に高校生らしい価値観ですな。
せっかく伊勢に来たんだから、神宮にお参りすれば良かったのに
せっかく伊勢に来たんだから、神宮にお参りすれば良かったのに
伊勢からは国道42号線を進んでいたのだが、ここにきて周囲の様相が明らかに変わってきた。海岸線沿いの道なのにも関わらず、アップダウンが多くなってきたのだ。

伊勢から始まる志摩半島は海岸線が複雑に入り組んだリアス式海岸である。海沿いの道路とはいえ平坦な土地は少なく、山を越えることも少なくない。急に現れた坂道に一抹の不安を覚えつつも、まぁ、なんとかなるだろうと鳥羽からさらに東へ進む。
鳥羽の先からはパールロードと呼ばれる道路が続く
鳥羽の先からはパールロードと呼ばれる道路が続く
志摩半島東部の海岸沿いを通るこのパールロードは、2006年までは有料道路であった。写真の左奥に見える麻生の浦大橋までは歩道が付属しているので自転車も通行可能だが、その先からは自動車専用道だったはずである。

確かに私の記憶でも、この辺りで進めなくなってしまい、橋の下を通って集落に出たことを覚えている。砂利道を歩いていくと家屋が建ち並ぶ港に出たものの、道はその先で再びパールロードと合流しており、完全に行き先を見失ってしまったのだ。私たちを激しく落胆させたこの出来事は、「絶望のパールロード事件」として強く印象に残った。

一方で、約20年前ということもあって記憶に不明瞭な点もある。まず、パールロードから集落に降りたルートが分からないのだ。Googleストリートビューを見ても集落へ通じる道はないように見えたのだが……実際に現地を訪れてみたら一発で理解できた。
麻生の浦大橋を渡ると、歩道は車両と分離し――
麻生の浦大橋を渡ると、歩道は車両と分離し――
橋の下(厳密には橋の先の道路の下であったが)を抜けて――
橋の下(厳密には橋の先の道路の下であったが)を抜けて――
集落に入る。なるほど、こういうルートだったのか!
集落に入る。なるほど、こういうルートだったのか!
確かに、このひなびた雰囲気の景色にはおぼろげながらも覚えがある。ただ、記憶とは違って砂利道ではなく舗装路だ。私はなぜこの道を砂利道だと思い込んでいたのか、その理由もすぐに判明した。
道路には牡蠣の破片が散乱していたのだ(見辛いが、白っぽいのが牡蠣片である)
道路には牡蠣の破片が散乱していたのだ(見辛いが、白っぽいのが牡蠣片である)
たちまち記憶が蘇る。そうだ、ここは砂利道じゃなくて牡蠣片の道だった。間違いない。この牡蠣片がのちにとある温情の出会いをもたらしたのだ。

当時と同じ道を辿ることで、忘れていた記憶が脳の奥底から引きずり出される。勘違いが修正され、20年前に体験した本当の出来事で上書きされる。頭にかかる靄がすっきりと晴れたような、なんだろう、ひらめきに似た不思議な感覚。これはなかなか快感だ。
記憶の通り、集落には港もあった
記憶の通り、集落には港もあった
集落出口のゲート、やはりパールロードを行かねばならないと知り、絶望したのだ
集落出口のゲート、やはりパールロードを行かねばならないと知り、絶望したのだ
Googleマップで確認すると、集落の先からパールロードとは異なる道が伸びており、自転車でも進めなかったわけではないようだ。ただ当時、私が持っていた地図は学校で配布されたいわゆる「地図帳」であった。細かい道路が詳しく載っているはずもなく、大きな国道をいくしか術がなかったのだ。

結局のところ、私たちはこのまま進むことを諦めて鳥羽まで引き返し、改めて内陸の国道167号線を進んだのであった。
鳥羽まで戻り、ここを左に曲がったことはハッキリ覚えている
鳥羽まで戻り、ここを左に曲がったことはハッキリ覚えている
複雑な海岸線に翻弄され時間をロスしてしまった。この志摩半島に限っては海岸線沿いの道を辿ることが得策ではないと察した私は、ショートカットを試みたように思う。

具体的には、先日のサミットで話題になった賢島方面にはいかず、磯部から県道16号線で南勢町に抜けたはずだ。緩やかな上り坂がだらだら続き、道の両側に畑が広がっていた景色を覚えている。
県道16号線の風景。もう少し開けていたような気もするが……記憶は曖昧だ
県道16号線の風景。もう少し開けていたような気もするが……記憶は曖昧だ
南勢町で国道260号線と合流して再び海岸線沿いの道となったものの、そこから先の道のりは決して楽なものではなかった。

いや、むしろこれまではほんの序の口、志摩半島の本気はここから始まるのであった。
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追憶の国道260号線

ようやく海沿いの国道260号線に出たとはいえ、徐々に傾いてきた太陽に私たちは焦りを募らせた。思っていたよりアップダウンが激しく、なかなか思うように距離を稼げないのだ。海岸線沿いの道とはいえ、志摩半島は平坦な土地が本当に少ない。

浜辺を少しだけ走ったかと思いきや、程なくして谷間に入り山へと至る。トンネルを越えて下ると次の浜、そしてまた山道への繰り返しだ。峠を越える東海道より海岸沿いを行く方が楽だろうという私の砂糖より甘い目論見は、志摩半島では一切通用しなかった。
志摩半島の南岸を通る国道260線。海岸に出たと思いきや――
志摩半島の南岸を通る国道260線。海岸に出たと思いきや――
すぐに再び山道となる
すぐに再び山道となる
坂とトンネルがとにかく多く、肉体的にも精神的にもきつかった
坂とトンネルがとにかく多く、肉体的にも精神的にもきつかった
上り坂にひーひー言いながら自転車を押していると、ふと友達の様子がおかしい。なんでも、タイヤの空気が抜けている感じがするとのことだ。激しいアップダウンと荷物の重みで空気が抜けたんだろうとも言っていた。

少々嫌な予感を覚えながらもそのまま進み、四日目は南島町の東宮地区にたどり着いたところで夕方となった。
東宮のスーパーで夕食を購入した覚えがある。たぶん、ここかな
東宮のスーパーで夕食を購入した覚えがある。たぶん、ここかな
そうそう、スーパーの先にはトンネルがあったんだ
そうそう、スーパーの先にはトンネルがあったんだ
買い物を終えた私たちは公衆電話を探していた。友達は親御さんから一日に一度、必ず自宅に電話するよう言われていたのだ。しかし、失礼ながら南島町は小さな町故に探しても探しても公衆電話は見当たらない。

しょうがなく、通りすがりの男性に公衆電話はないかと聞いたところ、それならうちの電話を使いなさいとお宅に招かれたのだ。友達が自宅に電話を掛けている最中、男性は友達の自転車を見ていたと思いきや、おもむろに立ち上がって言った。「これ、パンクしてるな」

そうなのだ、タイヤの空気が抜けていた原因はパンクであった。既に日没が迫っているのに、これから自転車屋を探すのはなかなか辛い。困惑した私たちを見かねたのだろうか、なんと男性は「それじゃぁ、直してあげるから」と工具を取り出し、修理してくれたのだ。「原因はこれだね」と見せてくれたのは、鋭く尖った牡蠣の破片であった。

パールロードは私たちに自転車専用道という絶望を与えたのみならず、このような呪いのクサビまでも打ち込んでいたのである。あまりにあんまりな仕打ちであったが、そのお陰でこのような人の温情に触れることができたともいえる。いずれにせよ、今となっては良い思い出だ。
東宮の町並みを突っ切ると、国道260号線は上り坂となる
東宮の町並みを突っ切ると、国道260号線は上り坂となる
その途中にあった、休憩所のようなところで四日目は野宿したのだ
その途中にあった、休憩所のようなところで四日目は野宿したのだ
あぁ、そうだ。忘れてたけど東屋があったんだ!
あぁ、そうだ。忘れてたけど東屋があったんだ!
自転車を直して貰った後、集落を見下ろす高台の休憩所っぽいところを宿泊地に決めた。……ということは覚えていたのだが、東屋の存在はすっぽり記憶から抜け落ちていた。てっきり、また野ざらしのベンチで寝たかと思い込んでいたのだが、実際に現地を訪れると確かに東屋があったと確信が持てる。

パールロードの件といい、この東屋の件といい、やはり現地を訪れると曖昧だった当時の記憶が鮮やかに蘇ってくるものなのだ。
そうそう、集落へ続く階段があって、降りていくとお寺の境内にたどり着いたんだ
そうそう、集落へ続く階段があって、降りていくとお寺の境内にたどり着いたんだ
これも記憶から抜け落ちていたが、東屋の前には立派な銅像が立っていた
これも記憶から抜け落ちていたが、東屋の前には立派な銅像が立っていた
この銅像のモデルは東宮出身の河村瑞賢(かわむらずいけん)という人物だそうだ。なんでも材木で財を成した豪商で、航路開拓や土木事業でも活躍したとのこと。当時はまったく気にも留めずにゴメンナサイ。

翌日の五日目は日が明ける前に出発した。山をひとつ越えた南島町の中心部には24時間営業のコインランドリーがあり、シャツを洗濯したことを覚えている。濡れたシャツは自転車に括り付け、走りながら乾かしたのだ。

もはや霞がかかったような昔の記憶だが、カブを走らせていくと実際にコインランドリーがあってドキリとした。
夜明け前だったので外観はおぼろげだが、精米所が併設していたことは覚えている
夜明け前だったので外観はおぼろげだが、精米所が併設していたことは覚えている
この日も私たちは寝不足気味で、洗濯機を回している間はベンチに横になっていたのだ。コインランドリーは電灯で煌々としていたが、隣の精米所は暗くて野宿に適してるのではないかと思った覚えがある。

ひとつひとつ記憶と照合しながら当時の足取りを追っていく。いくつかの集落を越えたところで、ふと覚えのない道路が現れた。山肌を大きく切り開いた、幅の広い道路である。
あれ、こんな立派な道路、あったっけ?
あれ、こんな立派な道路、あったっけ?
調べてみると、国道260号線の棚橋竃(たなはしがま)地区から錦地区までの区間は、私たちの旅行後に新道が通されたようである。2002年に新しいトンネルが開通し、また2014年には棚橋竃の集落を迂回するこのバイパスが作られた。

かつて私たちが通った道は、今や旧道となっているようである。当時の足跡をたどり、今改めて旧道へと向かおう。
左の道はバイパス(新々道)が通る前の国道260号線(新道)、右の道が旧道である
左の道はバイパス(新々道)が通る前の国道260号線(新道)、右の道が旧道である
そして悟った、あの狭隘トンネルがあるのは、この先であると
そして悟った、あの狭隘トンネルがあるのは、この先であると
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国道260号線の旧道を行く

棚橋竃から伸びる国道260号線の旧道は、入口に立つ標識からも分かる通りなかなかハードな道のりであった。
しょっぱなからこれですよ、これ
しょっぱなからこれですよ、これ
元々車がすれ違うのも困難な狭路である上、新道が通ってからは車の往来がほとんどないのだろう。道路のメンテナンスも十分とは言えず、なかなかに凄い状態だ。

ただ、それでも路面にはまだ新しいタイヤの跡が見られ、いまだに通る人もいるようである。地元の人が生活道として使っているのか、山に入る仕事の人が使っているのか、あるいは私のような物好きがたまにくるのかもしれない。
落ち葉が積もっており、スリップが怖い
落ち葉が積もっており、スリップが怖い
国道260号線の標識もまだ残っていた
国道260号線の標識もまだ残っていた
改めて言うが、私たちが旅行をした当時、この道路は現役の国道260号線であった。

地図帳にも赤く記されている国道を辿っていたら、いつの間にか細い山道に突入していたのである。傾斜のキツイ上り坂が延々続き、この道が本当に国道なのか、どこかで道を間違えてしまったのではないかと疑い始めた頃、ようやく国道の標識が現れてホッとしたように思う。
さらに上がっていくと、なかなか酷いことになっていた
さらに上がっていくと、なかなか酷いことになっていた
路肩が崩壊している上、湧き水で路面が洗われている。以前歩いた国道152号線の青崩峠(参考記事→「国道152号線の未開通区間を歩いた」)を彷彿とさせるたたずまいだ。
こりゃやばいなと思いながら慎重に進んでいくと、やがて視界が開けて広い場所に出た。おや、雰囲気変わったなと思いきや、山肌にぽっかり口を開けたトンネルが姿を現したのだ。
間違いない、かつて見たトンネルだ
間違いない、かつて見たトンネルだ
路肩にカブを止めてトンネルの前に立つ。およそ20年前、私は友達と共に自転車でこの場所に来た。ダイナモライトだけを頼りに、確かにこのトンネルを通り抜けたのだ。いはやは、本当に懐かしい。
この特徴的な馬蹄型のポータルが記憶に焼き付いていた
この特徴的な馬蹄型のポータルが記憶に焼き付いていた
調べてみると、このトンネルは「棚橋隧道」という名称で、大正3年(1914年)に築かれたものだそうだ。長さ122.9メートル、幅3.0メートルとあるが、一番狭い下の部分は2メートルもないように思う。コンクリート製のポータルは改修によるものらしいので、築造当初はもっと広かったのかもしれない。

2002年までは、紛れもなくこのトンネルが国道260号線であった。南勢と熊野を結ぶ道路として利用され、運送業者の中型トラックもここを通っていたらしい。本当に車幅ギリギリ、運転には相当の技術が必要だったに違いない。
昔から使われていた峠道なのだろう、傍らには「慶應」と刻まれた石仏が祀られていた
昔から使われていた峠道なのだろう、傍らには「慶應」と刻まれた石仏が祀られていた
なんていうか、雰囲気ありすぎてちょっと……いや、かなり怖い
なんていうか、雰囲気ありすぎてちょっと……いや、かなり怖い
天井から染み出た水が流れ出ていた
天井から染み出た水が流れ出ていた
さて、外観は十分に堪能できた。懐かしさと感慨も味わった。それではトンネルを潜ろうと思うのだが……どうも、いかんせん、躊躇してしまう。正直言って、立ち入るのが怖い。

ひと気のない旧道の峠にある、古く狭隘な無灯のトンネルである。どこを切ってもいわくありげな要素しかないではないか。

いやいや、高校生だった当時の私でさえ普通に入ったのだと気を奮い立たせ、カブのエンジンをかける。ハイビームのライトとエンジン音に励まされながら、およそ100年前に築かれたトンネルを約20年ぶりに今通る。

極めて低い速度でトンネル内を慎重に進んでいく。中ほどまで差し掛かったその時だ、トンネルの雰囲気がガラッと変わって私は息を飲んだ。
うぉっ! なんじゃこりゃっ!
うぉっ! なんじゃこりゃっ!
入口付近はコンクリートで馬蹄型に整形されていたのだが、トンネルの中心部は素掘りのトンネルにコンクリートを吹き付けただけという様相であった。微妙にある凹凸が有機的な印象を与え、どことなく動物の体内のような雰囲気だ。

そうだ、当時もこのトンネル内の雰囲気の変わりっぷりに驚いたのだった。素掘りのトンネルなど初めてで、とんでもない所に来てしまったと思ったものだ。
西側のポータルは下部がすぼんでなく、左右対称の整った形であった
西側のポータルは下部がすぼんでなく、左右対称の整った形であった

改めて記憶にインプットされた棚橋隧道

いやはや、およそ20年ぶりに訪れた狭隘トンネルは、私の記憶以上に凄いトンネルであった。まさか大正時代にまで遡るものだとは思ってもみなかったし、まずそこに至るまでがかなりサバイバルな感じの道路になっていた。ぼやけていた記憶の輪郭がはっきりし、改めて棚橋隧道を脳内に留めることができてなによりだ。

ちなみに20年前の旅行はその後も続き、台風の豪雨を浴びつつ走ったり、神戸で宿泊地を巡って友達とケンカになった挙句、明石大橋の下で互いの自転車を接触させて転倒したり(神戸には例の上司の友達が住んでいるとのことで、お世話になるつもりらしかったが私は嫌だった)、まぁ、紆余曲折ありながらも9日目にして無事下関にたどり着くことができた。

私たちは下関駅ビルの食事処で「ふくふく定食(1000円)」を食べて満足し、帰りはママチャリを宅配便で送り、自分たちは青春18切符で帰宅したのであった(下関を始発で出たら、終電で帰ってこれた。自転車で9日かかったみちのりを1日で戻ってこれる、鉄道は偉大だ)。
棚橋隧道からは山道を下り(道路の状態は上りよりマシだった)、あっという間に人里に出た
棚橋隧道からは山道を下り(道路の状態は上りよりマシだった)、あっという間に人里に出た
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