製麺機は佐賀で生まれた
家庭用製麺機の歴史を探る前に、まずざっくりと製麺機の歴史をご紹介しよう。
製麺機は佐賀の真崎照郷さんが、綿花から種をとる機械をヒントに、明治16年に開発したといわれている。
いやいや元祖は同じ村出身の蒲原末次郎さんだという説もあるが、佐賀で明治時代に発明されたということは、どうやら間違いないようだ。
製麺機のルーツとなった綿の種取機。あ、もしかして麺と綿(めん)のつながり?
その後、大正、昭和と時代が進むにつれて、大量生産のために手動から自動に変わったり、ローラーが大型化したりしていくのだが、それとは別の進化として、手回し式の小型家庭用製麺機というタイプが存在した。
家庭用製麺機が生産されたのは、鋳物の街として栄えていた、埼玉県の戸田市や川口市がほとんど。
昭和24年度版真崎製麺機械のパンフレットより。ほぼ同じ構造の製麺機がいまだに現役の製麺所も多い。
家庭用製麺機の謎を解きたい
個人的な趣味として、この愛すべき家庭用製麺機の同人誌を作るようになると、どうしても気になってくるのが、当時どのように使われていたのかという謎だ。
※家庭用製麺機が気になった方は「
趣味の製麺1」「
趣味の製麺2」をぜひ。
板裏に昭和2年購入と書かれていた家庭用製麺機。撮影はオカダタカオ先生。
私はこれを趣味の調理道具として扱っているが、当時は誰がなんのために使っていたのだろう。私のような趣味人が多かったのだろうか。まさか自家製ラーメンブームがあったとも思えない。
そこで実際に使っていた人の話をツイッターなどで集めてみると、昔おばあちゃんが使っていたとか、そういえば実家にあったとかいう話が予想以上に集まったのだが、なんとその約8割が群馬県南部の高崎市周辺(埼玉北部含む)に集中しており、高崎ではどの家庭にも製麺機があり、今でも販売しているぞという証言まで出てきた。
たぶん昭和30~40年代くらいの田中式製麺機。今回の記事ではキーとなる製麺機だ。同じくオカダタカオ大先生による撮影。
さらに高崎市歴史民俗資料館の昭和初期に家庭でよく使われていた道具を展示するコーナーに、家庭用製麺機が置かれているらしい。
群馬といえば粉モノ文化の土地だと聞くが、もしや製麺機文化もあったのだろうか。
とにかく家庭用製麺機の歴史を紐解くカギは、高崎市にあるようだということで、さっそくその資料館へといってみることにした。
高崎市のホームセンターで新品の製麺機を発見!
ちょっと興奮しすぎて高崎市歴史民俗資料館とのアポイントの時間よりも早く着いたので、高崎市内にある農家向けに特化したホームセンターをのぞいてみると、本当に新品の製麺機が売られていた。しかも二種類!
また併設された直売所には、「地粉」と書かれたうどん用の小麦粉が!すごいぞ高崎!
小野式という大ベストセラーの復刻版的な製麺機ですね。
地粉って書かれた小麦粉を使うと噂では聞いていたが、これのことか!
とうの昔に廃れたものだと思っていた家庭内製麺文化が、この高崎にはいまだ細々と生き残っているようだ。
さすがは粉モノの街、高崎。いやさすが日本の秘境、群馬というべきだろうか。
高崎市は家庭用製麺機が当たり前の街だった!
ホームセンターでの感動がさめやらぬまま訪れた資料館では、学芸員の大工原さん、そして実家の納屋を壊すので中のもの(製麺機含む)を寄贈できないかと相談にきていた原田さんから、貴重なお話を伺うことができた。
旧群南村役場の建物を利用した高崎市歴史民俗資料館。建物がすでに貴重な資料だ。
やはり高崎市ではかなり家庭用製麺機が普及していた時代があり、それは高崎独自の粉モノ文化と密接に関係していたのだ。
以下、要点を箇条書きにしてみたが、お時間のない方は読み飛ばしていただき、ハンカチを用意して次のページへと飛んでください。
「製麺機に関する問い合わせがあったのは初めてです」といいながらも快く対応してくれた大工原さん。もちろん実家にも製麺機は眠っているらしい。
おばあさんが亡くなった昭和41年から納屋に眠る製麺機を、どうしたものかと悩んでいた原田さん。
・このあたりは米作りに適しておらず、小麦を作る農家が多く、自宅でとれた小麦を自家消費していた。
農家にはほぼ100%製麺機があり、米は高いので、毎日うどんを食べていた。
・夕飯に食べることが多く、「おきりこみ(おっきりこみ)」といって、野菜が入った汁に直接入れて茹でていた。
・塩気のある汁で煮るためか、うどんには塩を入れない。
・作るのは数日に一回で、「たてかえし」といって、温めなおしたものを翌日以降も食べた。
・昔は近所の人が集まって作業をするという機会が多く、そんなときは「昼うどん」といって、茹でて洗ったものを、汁に付けて食べた。
・お酒を飲んだ後に食べたがる男衆も多かった。
・とにかくうどんは毎日のように食べたが、そばはほとんど食べなかった。
展示されていたのは、小野式製麺機A型。生産地である戸田市から中山道を通ってやってきたのだろうか。
小麦粉を捏ねるのは、どの家でも漆塗りの木鉢ではなく、こういった陶器製の捏ね鉢だったらしい。
・製麺機が出回る前は手打ちでうどんをつくっていた。
・いつの時代からかはわからないが、製麺機が一番使われていたのは戦後からで昭和40年代で、平成になると少なくなった。
・おばあちゃんの代まで使っていたが、おかあさんが引き継がなかったという家が多い。
・炊飯器の普及、また乾麺や茹で麺が手軽に変えるようになったことも大きいようだ。
・他の地方では製麺機を知らないことを知らない。おばあちゃんが製麺機をクルクル回しているのが当たり前の光景だった。
ざっとこんな感じである。大正時代に日清製粉と日本製粉の大きな製粉工場ができて、小麦栽培は盛んだったが、輸入が増えたことで港近くに製粉工場が移転し、小麦を作る農家も減ったようだ。
群馬は製紙業も盛んで、麦藁はボール紙や藁半紙の材料、また養蚕では回転まぶしという紙製の枠としても使われていたが、次第にこれらも廃れていき、麦を育てるメリットが減っていったという理由もあるのだろう。
木造五階建てのゴージャスな製粉所の模型。
実際に製麺していた方の話も聞いてみた
資料館で機織りの実演をしていたおねえさん方にも聞いてみたところ、やっぱり製麺機はおばあさんの代までだったという人ばかり。
子供の頃にお手伝いとしてよく使っていたものの、今となっては残念ながら誰も回していないそうだ。
群馬のおねえさんたち、元気いっぱいで最高。全員が平野レミクラス。
・製麺機なんてちっとも珍しくないでしょ?一家に一台あったわよ!
・高崎でも街育ちのお嬢様は知らないかもしれない。
・高校生の頃まで、親が生地を捏ねたものを私が製麺していたわ。
・生地は捏ね鉢でコッペパン型にまとめて、一回分ずつフランスパンのように斜めに切って(例えが全部粉モノだ)、そのとがったところからローラーに入れたの。
・近所のおばあちゃんは、旦那が夜に必ずうどんを食べるから、今でも製麺しているわよ。
・今も作ろうと思えば作れるという人はたくさんいるんじゃない?
お勝手の板張りの場所に置き、正座をして板を抑えるのが一般的なフォームなんだって!
「あがりはな」という玄関を入ったところの板間に置いて、斜めに腰掛けてやったという人も。
・生きていれば百何歳の姑が昔から使っていたから、100年くらい前からあったかも。
・たてかえしを何度もやったブツブツに切れたうどんが好きだったの。
・地粉は味がいいけどブッツンブッツンよく切れるのよね。
・私はお米が食べたかったわー。
こんな感じで高崎の地で聞きたかった話を聞き、考古学者がマヤ文明とかアトランティス大陸の謎を突き止めたような気分になったのである。
だがこの旅はまだ終わらない。話はもう一か所の聖地へと続く。
60年前の家庭用製麺機が現役で使われている家
やってきたのは高崎市周辺に次いで報告の多かった山梨県の韮崎市。
私の製麺機使用例募集のツイートをみかけて連絡をくれたHさんの、81歳になるおばあちゃんが、今も月に何回かは製麺機を使ってうどんを作っているらしいのだ。
家庭用製麺機の全盛期を知り、そして現在もハンドルを回す手を止めていない製麺界の大先輩からお話を伺える貴重なチャンス、これを逃す手はないだろう。
家に製麺機があってもおかしくなさそうな佇まい!
これに合わせて帰省してもらったHさんと、母方のおじいさん、おばあさん。しどろもどろに経緯を説明する。
おばあさんが所有する製麺機は、中学を出てすぐに就職した79歳になる弟が、母のためにと購入したもの。仮に19歳で購入したとすれば、60年も使われてている年代物だ。
このあたりも高崎同様に粉モノ文化圏で、毎日「ほうとう」を作って食べていたのだが、手打ちじゃ大変だからと弟が母に贈った製麺機を引き継いだのだ。
還暦を迎えたであろう貫録十分の田中式製麺機。
この辺りでは一番早く製麺機を手に入れたため、最初の頃は近所の人が誰かしら毎日のように借りに来ていたそうだ。なんだかカラーテレビみたいな扱いである。
しばらくするとどの家庭にも製麺機が置かれるようになったが、今でも使っているのはこの家くらいのものらしい。ちなみに値段については、これとはまた別の昭和53年製田中式製麺機の板裏に、定価13,800円と書かれていたので、当時としてはなかなかの高級品だったと思われる。
でも60年も前の機械が、多少掛けたり汚れたりしているとはいえ、何の問題もなく現役で使えるってすごくないですか。まさに一生モノ、いや親子三代モノの買い物だったのだ。
田中式の特徴である斜めに噛みあうヘリカルギアは、この時代から使われていたようだ。
おばあちゃんに習う「おざら」の作り方
おばあちゃんの孫であるHさんは、毎年年末になると母と一緒に帰省し、おばあちゃん(ばあばと呼んでいる)とお母さんが一緒に年越しそばを作るのを見て育ち、自然と手伝うようになったそうだ。
ただ製麺機のハンドルを回したり、生地を並べたりする程度しかやったことはないそうなので、この機会にうどんの作り方をみっちりと習っていただき、その様子をじっくりと見学させてもらおう。
使う粉はやっぱり地粉。塩は加えずにお湯で捏ねるのがおばあちゃんの流儀。
・このあたりでは米を刈り取った後に小麦を育てる二毛作をしていた。
・昔はカイコが終わって、小麦を収穫してから田植えをしたので、今よりだいぶ遅く6月末頃だった。
・米はほとんど国に収めて現金にしていたので、当時は小麦が主食だった。
・各部落ごとに製粉機があり、どの家庭でも夜にほうとうを食べていた。
・今でも一部の農家は小麦を育てており、地粉として販売している。
高崎で聞いたコッペパン型の生地をフランスパンみたいに切るっていうのは、こういうことか。
・米ほどではないが小麦粉も貴重品だったので、野菜をたくさん入れて嵩増ししたほうとうを食べていた。
・この辺りの農家での価値は、「米>麦>野菜」だったということらしい。
・ひやむぎのように冷たくしたうどんを温かい汁で食べるのは、「おざら」といって高級品だった。
・今でも月に何度かうどんを作り、大晦日には蕎麦を作る。でも蕎麦粉は高いから4割程度で残りは地粉。
・Hさんはその蕎麦に、カレーを掛けて食べるのが好きだった(ザ・こども)。
ここで突然、Hさんからおばあちゃんへのサプライズプレゼント!
でもおばあちゃんが製麺の手を止めないので、「ばあばのだよ、ほら!」と包装を広げるHさん。中から出てきたのは新品の田中式製麺機!(といっても20年位前のものかも)
最初は「もったいなくて使えない!」と頑なに受け取りを拒否していたが、新しい製麺機を回すと「こりゃ軽い!Hもやってみぃ!」と、用意したこちらも嬉しくなる笑顔が出た。
旋盤やドリルを使う仕事をしているおじいさんは、製麺機の構造や素材に興味があるようだ。実に男の人っぽい反応ですね。
・煮立ったお湯に麺を入れて、うどんは二度茹で、蕎麦は一度茹で。二度茹でとは、一回煮立ったら差し水をして、また煮立ったらできあがりという意味。
・ほうとうは太麺なので、製麺機で伸ばした生地を、包丁で切って仕上げる。
・麺はすぐ茹でるから、打ち粉なんてしたことがない。
うどんは二度茹でなので、差し水をする。茹ったら水で洗い、一口サイズに丸めていく。
今日のメニューは『ほうとう』ではなく『おざら』である。醤油とビミサンというご当地だしつゆ、シイタケ、ニンジン、油揚げの温かい汁につけていただく。
・ビミサンが東京で売っていないことに驚くのは、上京した山梨県人あるある。
・Hさんは製麺機のハンドルというのは、とても重いものだと思っていたそうだ。
・もしかしたらうどんに塩を入れない製法が、錆に弱い製麺機を長持ちさせたのかもしれない。
趣味ではなく生活の糧としての製麺料理を味わえて、食欲と好奇心が満たされました。
・おばあさんは冷たいうどんをところてんのように甘い酢醤油で食べるが、それは伝統ではなくオリジナル。素人が食べると豪快にむせる。
・おじいさんは極度の猫舌なので、ほうとうは熱々よりも翌朝食べる冷えたやつが好き。
製麺話、もっと教えてください。
誰も調べていない家庭用製麺機文化には、まだまだ私の知らない側面がありそうなので、もしよろしければ「こちらのアンケート」にご協力いただければ幸いです。
「こちらのアンケート」
この撮影は11月末だったのだが、Hさんは年末になったらまた帰省して、今度は蕎麦の作り方を習うんだと張り切っていたのが、なんだか嬉しかった。
微妙にモデルチェンジをしているのです、違いを探すのがおもしろい。歯車カバーの有無が、ザクとザクIIみたいですね。