特集 2018年11月24日

明治の道だけを歩いて江ノ島を目指す

明治時代の地図に記されている道だけを辿って江ノ島を目指します

今昔マップ」というwebサービスがある。明治以降の古地図と現在の地図を並べて表示できるというもので、各時代における土地利用の変遷を知ることができる、とても面白く為になるサイトだ。

私は夜な夜な昔の地図と今の地図を見比べてニヤニヤしていたりするのだが、そんな折にふと思った。現在まで残る明治の道はどれだけあるのだろう。例えば歩いて一日ぐらい掛かる距離の目的地を設定し、そこまで昔の道だけを歩いて辿り着くことはできるのだろうか。

その疑問を解消すべく、私が住んでいる神奈川県の中央部から出発し、明治時代の地図に記されている道だけを辿って県南の江ノ島まで行くことができるのか、試してみた。

*この記事に使用している地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。 
*「今昔マップ on the web」の地図は、国土地理院発行の5万分1地形図、2万5千分1地形図、2万分1正式図及び基盤地図情報を使用したものです。

1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

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自動車が普及する前の古道を辿る

今回の実験に使用する地図は、今昔マップに収録されている首都圏編で一番古い明治29年(1896)から明治42年(1909年)にかけて作成されたものである。まだ自動車が普及するよりも前、都市間交通として鉄道が敷設され始めてはいるものの、人の移動といえばまだまだ徒歩がメインで良くて人力車、荷物は牛や馬、大八車で運んでいた時代である。すなわち江戸時代の交通手段と大して変わっておらず、その道筋は江戸時代以前の街道を踏襲していると言えるだろう。

その後、自動車の普及によって道の付け替えや新道の整備が進み、直線的で幅の広い車道が築かれるようになった。細く曲がりくねった昔の道は役目を終え、現在は断絶しているものも少なくないはずだ。そのような中、果たして明治時代の道だけを歩いて江ノ島まで辿り着くことができるのだろうか。 

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自宅からスタートするのは色々とアレなので、最寄りである小田急江ノ島線の長後駅にやってきた

神奈川県藤沢市の北端に位置する長後は、現在の横浜市戸塚区柏尾で東海道から分岐し大山へと向かう大山街道、および町田から東海道の宿場である藤沢宿へと向かう藤沢街道の合流点に位置しており、長後宿としてちょっとした町場が築かれていたようだ。当時はまだ小田急線が開通していないので、今昔マップを頼りに旧街道へと移動する。 

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長後駅の北東側、東西に伸びる大山街道と南北に伸びる藤沢街道の結節点からスタート

この実験のルールは、明治の地図に記されている道のみを歩くというものである。車道として拡張されていても、道筋が概ね一致していれば通行可。当時の地図の精度を考慮して多少のズレは許容するものの、道筋が明らかに外れているものは通行不可とする。

目的地の江ノ島は弁財天を祀る聖地であり、江戸時代より庶民に人気の観光スポットであった。同じく神奈川県内にある大山に登り、江ノ島、鎌倉、金沢八景を巡るのが定番コースだったらしい。ちょうど11月ということもあり、稲刈りが終わって時間に余裕ができ、本格的に寒くなる前にちょっくら江ノ島の弁天様にお参りしてこようじゃないか。……という設定で行くとしよう。

江ノ島は長後宿からまっすぐ南に行った地点に位置しており、とにもかくにも南へと向かわねばならない。ちょうど良く、長後宿から藤沢宿に向かう旧藤沢街道が南下しているので、この道を歩いて行くことにしよう。 

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現在も道筋が一致している、長後から南へと続く道である(★がスタート地点)
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長後宿には古そうな家もちょくちょく見られ、昔の名残をわずかに残している

昔からある道ということで、何かしらの古いモノが存在しないだろうかと探しながら歩いているのだが、長後宿を抜けた後はごく普通の近代的な民家が連なっているだけで、旧街道ならではのモノはこれといって見当たらない。

これは収穫なしかと諦めかけたその時、脇道が鋭角に合流するY字路の付け根に妙な石が置かれていた。 

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文字などは刻まれていないが、なんとなく祀られている感がある石だ

おにぎりのような三角形の形といい、コンクリートに少し埋め込まれた状態で立っている状況もあり、ただの石ころではないような気がする。Y字路という点から察するに道辻に祀る庚申塔の類だろうか。

いや、しかしこの横道は明治の地図には記されておらず、割と新しい区画によってできた道のようだ。案外、後ろの壁を守るための、ただの置石だったりするのかもしれない。

古いモノなのか、そうではないのか。なんとも煮え切らずモヤモヤとした感じだが、気持ちを切り替えて引き続き南に向かって進んでいった。……が、その少し先で非情なる現実が私を待ち受けていた。 

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明治の地図にはない車道が横切っていたのでそれを横断すると――
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車道を渡ったその先で、なんと行き止まりになっていたのだ!
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今昔マップで確認すると、見事に旧街道が分断されてしまっている

うーむ、さすがに旧藤沢街道を南下し続ければ良いだろうという考えは甘かった。とりあえず東西への迂回路を探そうと試みたものの、この辺りの湘南台地区では大規模な区画整備が行われたらしく、どの旧道も辿っても途中で途切れてしまう。

この状況をなんとか切り抜けられる抜け道はないかと地図とにらめっこして四苦八苦した結果、導き出された結論は約1km引き返すというものであった。 

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………………マジっすか
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この道ならば南東方向へ行けそうな感じだが、ほぼスタート地点まで出戻りである

いやはや、いきなり壁にぶち当たってしまった。始まって早々にこのような有様とは、なんとも前途多難な感じである。やはり昔の道などそう残っているものではないのだろうか。 

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古道を辿って発見、古いモノ

さてはて、長後宿からまっすぐ南下する作戦は徒労に終わり、出発地点である長後宿の南端付近まで引き返してきた。ここから改めて南東方向へ伸びる横道へと入る。 

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この右の道ならば明治の地図にも載っており、なおかつ結構先まで続いているようだ
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なんだかすごい立派な庭園を持つ家を眺めながら進んでいくと――
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神奈川県中央部を南北に貫く主要道、国道467号線を横切った

現在、藤沢街道と呼ばれているこの国道467号線は、藤沢に行く道路としてこれまで幾度となく通ってきた道だ。それだけに、この道路に差し掛かった時は「あっ、ここに出るんだぁ」と軽く驚いた。そしてこの場所を古道が横断していたとは、これまで思ってもみなかった。 

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国道467号線を渡ったところには、昔の道らしく往来の安全を祈願する馬頭観音が
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なかなか良い雰囲気の竹林を抜けると――
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うぉっ!? なんだか物凄く立派な長屋門に出くわしたぞ!

私は古いモノが大好物であり、全国の文化財巡りをライフワークとしている。しかし、こんなところに立派な長屋門が残っているとは、全くもって知らなかった。完全にノーチェックだっただけに、これを発見した時は本当に驚いた。

横に掲げられている説明板によると、江戸時代にはこの辺りは七ツ木村と呼ばれており、このお宅はその名主(なぬし)として地域を治めていたそうだ。長屋門は江戸時代後期に築かれたものとのことで、まさに豪農といったたたずまいである。

現在は小田急江ノ島線沿いや国道467号線沿いに町が発展しており、それらから離れたこの辺りは実に静かなものだ。しかし、かつては長であったこのお宅が村の中心地だったのだろう。 

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緩やかな坂を下っていくと、七ツ木村の鎮守である七ツ木神社があった

現在、この神社は七ツ木神社という名前であるが、江戸時代以前は「鯖明神社」と呼ばれていたそうだ。海から距離があるのに鯖とは妙な名前であるが、なんでもこれは祭神である源義朝(源頼朝の父)の官職が「左馬頭(さまのかみ)」であったことに由来するらしい。

七ツ木神社以外にもこの辺りの地域には鯖神社や左馬神社、佐波神社といった計12のサバ神社があり、江戸時代中期から明治初期にかけて、そのうち七ヶ所所のサバ神社をめぐる「七サバ参り」が流行したという。

巡礼というと、四国八十八箇所霊場や西国三十三所など広範囲に渡る長旅というイメージがあるが、こんな極めてローカルな地域限定の巡礼もあったのですなぁ。 

区画整備地帯を避けて、あえての遠回り

さてはて、長後宿から南東へ続く里道を1km強進み、水田が広がる川沿いにまでやってきた。私は子供の頃から長後や湘南台には何度も来たことがあるが、この辺りは全く足を踏み入れたことがない未踏の地である。今昔マップを再び開き、ここからどう行けば良いのかを模索する。 

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道は南へ続いているが……
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だが南に行くと再び湘南台の区画整備地帯に入ってしまい、明治の道筋が途切れてしまう(▲が現在位置)
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なので、ここはあえての東へ進む。遠回りになるが、致し方ない

どうやら湘南台の周辺は完全に古い道筋が失われているようなので、ここは無理に南下しようとせず、東に一旦退避してから改めて南へ向かう道筋を探すとしよう。 

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古い道と知ってか知らずか、川を渡る歩道はなぜか木造風であった
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お、どうやら南へ続く道筋を辿れそうだぞ

しかしこうして地図を見比べてみると、川の進路が変えられていたりと、昔とは地形も変化しているようだ。行こうとしている道もより直線に整備されているが、まぁ、道筋がおおむね一致していれば通行可という緩いルールなので良しとする。 

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進んでいくと、車道が横切っており……ん、道の先が見えない
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まさか行き止まり?! ……と思いきや、ちゃんと道が続いていてホッとした

めちゃくちゃ細く、なおかつ鬱蒼とした木々に覆われており、私有地の入口と言われても不思議ではない雰囲気である。でも道筋は明治の地図と一致しているし……と恐る恐る進んでいくと、やがて視界が開けて神社に出た。

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鳥居の扁額に記されているのは左馬神社、ここもまたサバ神社のひとつである

サバ神社から古い道を辿ってきたらサバ神社、期せずしてサバ神社巡りをしてしまっている。これでもう二サバなのだから、七サバ参りというのは実にお手軽な巡礼であったことが良く分かる。この地域の人々にとって、七サバ参りはピクニック感覚の休日レジャーだったのだろう。 

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車道と合流し、昔ながらの農家が並ぶエリアを南へ進む
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車道と合流し、昔ながらの農家が並ぶエリアを南へ進む
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そこはなんと「富士塚城跡」であった

傍らに掲げられていた説明板によると、平安時代末期に平家方の武将であった大庭景親の家臣、飯田五郎家義なる人物の居館があった場所だという。家義は治承4年(1180年)の「石橋山の戦い」において平家側でありながら源頼朝を助けており、その功績によって後の鎌倉時代にこの地を与えられたという。

今では住宅街に埋もれており居館があった面影はないが、かつてはこの地域を治める中心地だったのだろう。七ツ木村の名主といい、この富士塚城跡といい、古い道を辿っていくと自然とその土地のかつての中心地に出くわすものである。 

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さらに南へ下っていく。最近整備された道路のようで真新しいが――
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その道端には古い双体道祖神が鎮座していた

道祖神は村の守り神として道辻に祀られるものであるが、説明板によるとこの道筋は「鎌倉上之道(かまくらかみのみち)」と呼ばれる鎌倉時代の主要古道であり、交通安全の石仏としても信仰を集めたのではないかとのこと。

なんと、湘南台地域の迂回路として何気なく辿ってきたこの道は、鎌倉時代にまで遡る由緒正しい古道だったのだ! どうやら道は南東へと続いており、さらに辿っていけば鎌倉に辿り着くことができるのだろう。……が、私が目指しているのは鎌倉ではなく江ノ島だ。

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この双体道祖神があった下飯田の集落から、西へと続く道が伸びている
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南東へ向かう鎌倉上之道とおさらばし、再び川を渡って西へと戻る
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その先には古道なる地名があり、明治の地図でも道が南へと続いている
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この左上へと行く道がその道のようだが……周囲はごく普通の住宅街だ
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しかし、電柱にはハッキリ「古道」の文字が。地名が表す通り、古い道なのだろう
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さらにてくてく南下していくと、やや幅の広い道路と合流した

この道幅……なんとなく既視感があるぞ。もしやと思って今昔マップで確認すると、ビンゴ! この道路は長後宿から続く旧藤沢街道の道筋そのものであった。湘南台地域で途切れた旧街道がここにきて復活したのである。

湘南台の区画整備によって旧街道が途切れていた時はどうなるかと思ったが、歴史ある鎌倉上之道で迂回して再び旧藤沢街道に戻ってこれた。しかも、ここからは途切れることなく藤沢宿まで続いているようだ。これはもう、何とかなりそうな気配が漂ってきたぞ。 

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旧藤沢街道を歩いて藤沢宿へ

さてはて、なんとか旧藤沢街道に復帰できたわけだが、改めて周囲を見回してみると、なんていうか、この辺りの街並みはいささか独特な雰囲気だ。 

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一軒一軒あたり敷地の広い家が延々続いているのである
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まるで武家屋敷のような薬医門を構える家とか
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長大な長屋門を構える家もある。その前に聳える木も立派だ

旧藤沢街道に沿って連なるこの街並みは、亀井野という古くからの町らしい。明治の地図では長後宿よりも大きな町として描かれている。街道沿いではあるものの、宿場町や商家町というよりは農村だったのだろう。故に一軒一軒の敷地が広い農家が連なっているのだ。

小田急江ノ島線や国道467号線が旧街道よりも西側に通されたことで再開発を免れ、今もなお昔ながらの町割を踏襲しているのだと思う。 

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一直線ではなく、蛇行しているところが昔の道らしい趣きを見せる
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亀井野を出ると畑が広がっていたのだが、そのど真ん中になにやら石碑を発見!
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石碑まで道が続いていたので近付いてみると、「四つ塚」と刻まれていた

無縁仏の供養塔のようであるが、なかなかにゴツく立派な石碑である。地理院の地図だとこの辺りは「四ツ塚」と記されているのだが、それはこの石碑に由来する地名なのだろうか。だとすると、相当に由緒のあるものなのだろう。現在は畑の中であるが。 

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そのまま南へ進んでいくと国道467号線と合流した(右が歩いてきた旧街道)

ここから藤沢宿まで旧藤沢街道は現在の国道467号線の道筋を辿っていくのだが、その先の藤沢宿へと下る最後の坂道で問題が発生した。 

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明治の道は二股に分かれているのだが、現在の国道はまっすぐぶち抜かれているのだ
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ここがその現場。西側の道は学校の敷地となっており立入不可

これは引き返して別の道を行くしかないか……と思いきや、二股のうち東側の道は現在もその道筋が踏襲されていることに気が付いた。 

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道の取り付き方は変わっているが、道筋自体は明治の地図と同じだ

道へと入る角度が変更されているので、明治の道だけを歩くというルールからするとグレーな感じではあるが、道筋はかつてのものを踏襲しているようなので、まぁギリセーフとする。

さすがは昔からある道なだけあって、その下り坂は物凄く急かつ道端に巨木が転がっているなど極めて野性味に溢れていた。 

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もう藤沢宿のすぐ近くまで来てるのに、随分とワイルドな感じである
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坂を下り切り、明治の地図にある道を辿って再び国道467号線と合流する
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その先で休憩がてら白旗神社に立ち寄った

この白旗神社は藤沢ではかなり有名な神社であり、いつも参拝客で賑わっている。その境内には古い石仏を集めた一角があったので何気なくチェックしてみたのだが、そこに興味深いモノを発見した。 

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江戸時代に築かれた「江の島弁財天道標」だという

この石柱には弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」と刻まれている。江ノ島への道を示す道標なのだ。ちょうど江ノ島を目指しているだけに、実にタイムリーな発見である。

この道標は杉山検校(けんぎょう)という人物が建てたそうで、元は48基あり現在は藤沢市内に11基が残っているという。よーし、それなら私もそれらの道標を辿って江ノ島まで行くとしようじゃないか。 

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というワケで、東海道の宿場町であった藤沢宿に到着である。ここから、いよいよ江ノ島への参詣道へと入る。江ノ島までもうあと少しだ

 

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藤沢宿から旧江ノ島道を辿って江ノ島へ

現在も藤沢宿の目抜き通りは旧東海道の道筋を踏襲している。今昔マップを確認すると、旧東海道から分岐して江ノ島へと向かう旧江ノ島道もまた昔の道筋が残っており、歩いて辿ることが可能のようだ。

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藤沢宿からは国道467号線を直進するのではなく、右斜め前の路地へと入る
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その手前には二基目の道標が立っていた。ちゃんと旧江ノ島道の方を向いている
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古い道らしく、路肩には歴史ある仏堂や家屋も残っていた

この通りは藤沢駅前の繁華街に位置しており、私も何度か通ったことがある。しかし、その時はまさか江ノ島へと至る古い道筋だとは露とも思っていなかった。「へぇ~、この通りが江ノ島道だったんだぁ」と感嘆の声を上げながら進んでいくと、JR東海道線の線路に差し掛かった。

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道は途切れてしまっているが、地下道が旧江ノ島道の道筋を辿っている

東海道線は明治22年(1889年)に新橋-神戸間が開通しており、明治の地図にも既に線路が描かれている。当時は踏切のようだが、その後の駅の拡張などもあり、現在は地下道に変化したというワケだ。

地上の道としては途切れてしまっているが、地下でも一応道筋は一致しているということで、この地下道も通交可とした。もはやルールとしてガバガバな気がするが、まぁ、ここはザックリと臨機応変に対応していくとしよう。(迂回しようとすると鎌倉の方まで回り込まなければならないようで、さすがにキツすぎたというのが真相だったりする)

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地下道を抜けるとそこは藤沢駅前のターミナル、正面に見える道が旧江ノ島道だ

 

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繁華街を通り過ぎたところにある公園にも江ノ島への道標が

 

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南へ進んでいくと、道が大きくカーブした。妙だと思い今昔マップで調べると……
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そこはかつて川であり、流路の変更によってできた土地であった

なるほど、変な急カーブだと思ったら、川の跡であったか。古い道は元より蛇行しがちであるが、ここまで不自然なカーブとなると、それなりの理由があるものである。道のみならず治水の歴史まで知ることができる、今昔マップはやっぱり楽しい!

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現在の川を渡り、その対岸を南下する

 

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この辺りは道が拡張されておらず、車のすれ違いが難しそうだ

 

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小学校の校門前に、またもや江ノ島への道標があった(ちょうど下校時間だったので、不審者と思われないよう気を遣った)

 

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その先には、清水寺の舞台のような懸造りの家が! すごい!

 

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こういう八百屋さん、まだ残ってるんだなぁ……としみじみ思いながら進んで行くと――

 

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その先の踏切を境に町の雰囲気が一変した
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土産物屋にカフェにリゾートマンション……完全に観光地モードである

この町の変化には本当に驚かされた。それまでローカル感あふれるひなびた商店街だったのが、江ノ電の線路を越えた途端にオシャレな観光地と変貌を遂げたのだ。日常と非日常が文字通り線引きされているというか、なんというか、色々と割り切った感じの町作りである。

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そんな新陳代謝が激しそうな観光地の中にも、江ノ島への道標や――

 

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古い旅館の建物など、昔ながらのモノも残っていてホッとする
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そうして通りを抜けると――ついに江ノ島へ到着!

なんとか江ノ島の前まで来れたものの、最後の最後に重要な問題が立ちふさがった。江ノ島は完全に独立した島ではなく、砂州によって本土と繋がっている陸繋島である。しかしそれは潮が引いている時だけであり、それ以外の時間は冠水しているのだ。

現在、江ノ島へは立派な橋が掛けられているが、当然ながら江戸時代にはそんなものはなく、参拝者は干潮の時に砂州を歩いて渡ったという。

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こんな感じに江ノ島へ渡っていた(江ノ島入口の地下道に掲げられていた絵図より)

私もまたそれに則り、歩いて江ノ島に渡ろうと思っていた。最悪、膝下くらいまで濡れても良いかなと考えつつ、橋を使わず江ノ島に渡ろうとしたのだが……。

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おいおい、砂州の位置が全く分からないし、1mぐらいの白波が立っているぞ!
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いや、これ、歩いて渡るのムリ! 死んじゃう!!

実はこの時、既に満潮に近い時間となっており、また風が強くて海が非常に荒れていた。私が写真を撮っているその傍らでは、10人ぐらいの屈強な男性が転覆したボートをひっくり返そうと躍起になっていたくらいだ。とても海に入れるような状況ではない。

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というワケで、素直に橋を渡って江ノ島に入った

一応言い訳をさせて頂くと、明治24年(1891年)には江ノ島に木造の橋が掛けられており、干潮でなくても渡ることができるようになっていたらしい。明治の地図にそれらしい表記はないものの、当時は既に橋が存在していたはずである。なので、まぁ、良しとしようじゃありませんか。


以外なところに、以外に残っている古い道

とまぁ、なんとか明治時代に記されている道筋だけを辿って長後宿から江ノ島まで歩き通すことができた。結果的には藤沢街道の道筋が失われている湘南台を鎌倉上之道で迂回し、以南は藤沢街道と江ノ島道を辿ったという感じである。

国道467号線から藤沢宿へ下る際の坂道や、藤沢駅の地下道、江ノ島に渡る橋など、判定が甘いというか怪しいところは無きにしも非ずであるが、まぁ、おおむね明治の道だけを歩いて江ノ島に来れたといえるだろう。

今回分かったのは、古い道というのは私が思っている以上に残っており、意外なところに埋もれているものであるということだ。そして古道沿いには古いモノ、その土地の歴史を知る手がかりが数多く残されている。それらを確認しながら歩くことで、古道を十二分に楽しむことができたと思う。

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江ノ島は子供の頃に来たきりであったが、変わってなくて懐かしかった(そして平日にも関わらず人が多い)

 


【告知】

まだ少し先の話ではありますが、2018年12月31日(月)のコミックマーケット95に参加します。西け30aの「閑古鳥旅行社」で、今年世界遺産になった「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」を詳細に解説する世界遺産本と、私が高校時代に友達と自転車で下関まで行った旅行本の二冊を頒布する予定です。

前者はこの記事→「教会じゃなく集落が世界遺産ってどういうこと?~長崎と天草の潜伏キリシタン集落を訪ねた」をよりガチ向けにし、旅行に関するコラムを盛り込んだ感じの内容です。

後者は私の初めての長期旅行にして旅行歴の原点の記録。この記事→「思い出の狭隘トンネルを探しに伊勢志摩へ」でそのルートを一部辿りました。お忙しい大晦日ではありますが、お立ち寄りいただければ幸いです。 

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