「彩季」店主・長野さんのお話を聞く
と、ここで少し手の空いた「彩季」の店主・長野春男さんにもお話を聞くことができた。まず長野さんが説明してくださったのは、有楽名店街の歴史を知る上で避けて通れない“立ち退き訴訟”の話だった。
2014年11月、有楽名店街の敷地の貸主である阪神電鉄は、現在の建築基準に沿っていない有楽名店街について、防災上の理由から「2016年3月をもって閉鎖する」という主旨の説明会を行った。が、有楽名店会は、以前からスプリンクラーや誘導灯の設置を進め、防災対策を進めてきたため、「消防法上は適切に管理されている」とし、閉鎖の撤回を求めて動き出すことになる。翌2015年、阪神電鉄は有楽名店街で営業をしていた店舗に対して明け渡しを求めて訴えを起こす。2018年には「彩季」も提訴され、長野さんは最終的に2021年に和解が成立するまで地裁、高裁での裁判に向き合いつつ仕事を続けてきたという。
2021年12月には有楽名店街での営業を終了し、2022年3月から現在の場所に移転し、営業を再開されたのは前述の通りである。
――「彩季」さんはいつから有楽名店街で営業していたんですか?
僕があそこに降りていったのは25歳の時やった。今70歳やから。
――45年前ということですか。その当時はどんな様子でしたか?
その時は47軒営業しとったんやけど、全盛期でごっつい忙しい時やった。うちの身内が大衆酒場をやってて、そこは30坪あったんやけど、それでも店の外まで丸椅子出してた。その頃はお銚子一本で150円か200円やったけど一日30万円ぐらい売り上げてた。スタッフがワイヤレスマイクつけて厨房までオーダー通さな聞こえないような。
――そんなに活気があったんですね。
あそこは地の利がいいでしょ。上(駅の山側)には県警とか県庁とかあるからそこから人が来て、そんで、地下に降りてきたら傘ささんでもどこへでも行けるでしょう。あんな古い地下街はないし、神戸の文化遺産として残してもいいと思ったんですけどね……。神戸港で働く人にとってもオアシスみたいな場所でね、高度成長期の時代はオールナイトで仕事が忙しかったね。そういう時代やった。
――そういう場所がなくなってしまうんですね。寂しいですね。
うーん、でも寂しいというよりは、こっちに移ってきて、これから自分が商売していかなあかんというその方がね。まあ、前を向いて生きていくゆうか、色んなことがありましたけどね。もうね、6年も7年も裁判しとったから、やるだけやったから、
――「彩季」さんが営業を始めた頃は47軒もお店があったという話でしたけど、それからお店の入れ替わりは結構あったんですか?
あそこは地の利がいいから、どこか開いたらすぐ新しい店が入ったんよね。まあ、経営者の手腕は問われる場所でしたね。長屋みたいな場所ゆうか、他の店の評判がすぐ伝わるからね。
――あの一角にそれだけのお店が隣り合っているわけですもんね。
そうやね。隣の空気はよくわかるわね。「瓶ビールうち冷えてないから2本貸しとって」みたいなね(笑)昭和の長屋やないけど、そんなこともあったね。
長野さんとTowersさんのお話を聞き、楽しく飲んで食べて、店を出ていよいよ有楽名店街へ向かった。
いよいよ有楽名店街へ行ってみます!
引き続きTowersさんに案内してもらいつつ、有楽名店街へ。「彩季」の長野さんが語ってくれた全盛期の様子は想像できない状態だが、それでも取材時で7店舗が営業をしている状態だった。
――あちこちに年季を感じますね。
ここ「昭和35年」ってなってますよね。
有楽名店街ができたのが昭和34年なんで、できてすぐぐらいですね。当時はまだ飲食店ばかりじゃなくて、お土産屋さんとか、タバコやさんもあったんで、その後になって水道やガスを通したところもあったんですね。それで配管なんかもカオスな感じになっていったんだと思います。
――あ、ここが前に「彩季」さんがあったところですか?
そうです。ここ「有楽町」って書いてあるんです。
――有楽町だ。正式な地名っていうわけではないですよね?元町にも有楽町があったとは。
有楽名店街ができた当時、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』がヒットして、有楽町という地名が世間に広まっていたんです。それもあってこの名前になったのかもしれないと思ってるんです。
――なるほどなー。これ、閉まってるお店はもう中も空っぽなんですかね。
だと思いますね。先週ぐらいからドアに番号がふられていて、たぶん測量の準備をしているんだと思います。じゃあ「よっちゃん」行ってみましょうか。
――行きましょう。