「つまびく」ために
僕の右手はこんな感じである。
急に爪を伸ばしだしたのには理由があって、クラシックギターを始めたからだ。
楽器の見た目はアコースティックギターに似ているけど、ピックを使ってジャカジャカ弾くアコギと違って、クラシックギターは一音一音、爪で弾く。弦楽器を演奏することを「爪弾く(つまびく)」というけれども、あれは比喩じゃなくて本当に爪で弾くのだ。
こんな感じ。細かく説明すると、まず指先の皮膚に当てた弦を、そのまま爪にスライドさせ、はじいて鳴らす。
使うのは右手の親指~薬指の4本だけなので、小指の爪は切ってある。また、左手は弦を抑えるのに使うので、ギリギリまで短くした方がよいとされる。なので、両手を比べるとこんなアンバランスな状態だ。
右半身は「爪を伸ばしている人」、左半身は「爪が短い人」のキメラの状態で生きていることになる。この希少な立場をいかして両陣営のかけ橋となるべく、爪の長い生活について共有させていただく次第です。
爪が長いと指紋認証が使えない
まず不便なことからいこう。いちばん予想外だったのはこれだ。
指を入れると反応するタイプの指紋認証ロックだが、これが使えないのだ。
なぜかというと…
メーカーはなぜセンサーをこんなに最奥につけてしまったのか。
キーでも開けられるようになっているので家に入れないわけではないが、それでもうっかりキーを忘れると詰む可能性がある。爪が長いと、家に入れないリスクがあるのだ。
爪が長いと缶が開けられない
これはわりとポピュラーな弱点。でもなぜ開けられないのか、原理を説明できるだろうか?じつは2つのパターンがあるので、図で説明していきたい。
まずはジュースなどの缶。
缶とプルタブの間に指の肉を滑り込ませ、そこから指を持ち上げてプルタブを起こす……というのが通常の手順だと思うが、爪が長い場合はこうなる。
短い人は、プルタブの下に指の肉を差し込める。
いっぽうで爪が長いと、爪がひっかかって指先を缶に当てられないので、爪だけがプルタブの下に入ってしまうのだ。
このまま上に引っ張ると、爪がはがれることになる。そんな拷問まがいのことになるくらいならジュースも飲酒もあきらめた方がマシである。
もう一つのパターンが、缶詰。
缶詰は、開けられないメカニズムがジュースと異なる。プルタブが大きいため、指を差し込んで起こすところまでは問題なくいけるのだ。
このあと、親指を缶のふたに押し付け、それを支点として、てこの原理を使って開けるだろう。ここが問題だ。
おなじ缶でも、ままならなさは様々なのである。
爪が長いとスマホが操作できない
スマホを片手持ちしたとき、親指のどこでタップしているか意識したことはあるだろうか。無意識に指先を使っているはずだ。
しかし爪が長いと指先は使えないし、爪で触れても静電容量式のタッチパネルは反応しない。
ただ、これについては緩和策がある。
人差し指側に傾斜を作ることによって、指先の側面でスマホにタッチできるようになるのだ。(正確にタップする精度は劣るけど)
ギター的には爪をとがらせないでフラットにした方がいいのだが(強度が落ちて割れることがあるので)、インターネット大好きっ子としてはスマホは手放せないので、僕はこういう形に整えている。
爪が長いとひもがほどけない
ひもはもちろんほどけない。
これも無理な理由が2種類ある。
太いロープが固くむすばっている場合、爪でつかんで力いっぱい引っ張ると爪がはがれそうになるので、これまた拷問になる。
そうでなくて細い糸の場合は
そもそも爪の先で糸がつかめない。爪の先は固いし曲線なので、細かい物をつかむのは難しいのだ。
ひもはほどけない前提で、できるだけ固く結ばないことが、爪の長い人のサバイバル術である。
などなど全部説明しようと思うときりがないのだけど、他にもいろいろデメリットがある。基本的に指先が使えないので、細かいものをつかむ動作と、指と平行な方向にものを押す/おさえる動作が困難である。(僕のもう一つの趣味、細かい部品を扱う電子工作との相性がかなり悪い…!)
水中で腕を動かすと変な感じ
これはデメリットではないけど、独特の現象。プールやお風呂の中で腕をギュンと振ると、爪と指の間に小さな球が挟まっているような不思議な感触がする。
理由としてはきっと、爪と指の間に水が流れ込んで渦ができているのではないか。同じ流体である線香の煙で実験してみた。
うーん、よくわからん……。
けど、爪が短い場合はけむりが指先から爪の表面を通ってスルッと流れていくけど、爪が長いと指と爪の間にいったんたまっている様子が見て取れる。この「たまり」が感触の正体なのだろう。たぶん。
コインで回すカギが開けられる
ここからはいよいよいい点だ。
自宅のトイレや浴室、寝室などに簡易ロックがついている。反対側からコインで開けられる、施錠のためというよりもどちらかというと「あけないでね」という意思表示のためのロックである。
あれを道具なしで開けられる。
デメリットに比べてずいぶん活用シーンの少ないメリットが登場した。希少なメリットを絞り出しているからである。正直、爪が長いと全体に不便なことばかりなのだ。
でももういくつか、無理やり書いてみたい。
みかんがスッとむける
ナイフ的な活用法もできる。みかんがスッとむけるのだ。
いや指で普通にむけるし……という読者の声が聞こえてくるようである。ですよね……。
では、これはどうだろうか
これがほぼ唯一といっていいほどの、明確に便利な点である。ビニール袋って指先で押しても伸びるばっかりでなかなか裂けてくれなかったりする。爪ナイフがあれば一発だ。
その他のいいところ
シールはがしに便利。
ホチキスを外せる。
えーっと、そのくらいかな。いいところは……。
社会的影響
というわけで機能面での便不便を紹介した。しかし実際生活してみると、そういった機能面よりむしろ、人目が気になる。
いやそんな人の指先なんて見てないし……と思うだろうが、ものすごく注目される場面があるのだ。
ほかにも、人にものを手渡すとき全般に目立つ。
ネイルでおしゃれに飾っているわけでない場合、爪の短さ=清潔感ととらえられることが多いので、第一印象で「ワッ」って思われることになって辛い。
見た目の装飾こそしていないが、ただだらしなくて伸びているわけではないのだ。さりげなくそれを主張できないかなと思う。爪にマジックで「ギター専用」って書いておくか。
せめてこの記事を読んだみなさんは、右手だけ爪伸ばしてる人はギター演奏用と覚えてもらえれば幸いである。細かく削ったり磨いたりして、けっこう手間かけてメンテナンスしている爪なのだ。
爪が割れる事件
さて、ここまでの文中で2度ほど「ネイルとは違う」ということを書いてきた。おしゃれのためにやっているのではない、という照れ隠しなのだが、しかし白状しよう。実はある意味、ネイルもやっているのだ。
きっかけはある日、シャツを着るときに布が指に引っかかるような感覚を覚えたことだ。
爪が割れていたのだ。割れた部分を押すとパカパカ動く。しかも弦をはじく側なので、このまま放置すると負荷がかかってどんどん深く割れていくだろう。これは困った。こういう時に助けてくれる爪用のドクターはいないものか……。
そこで浮上したのが、ネイルサロンの存在である。さっそく家の近くのサロンを調べて、電話してみた。
サロンA「割れた爪は直せます。しかも楽器演奏に耐えうる強度にできます。しかしお客様、残念ながら男性はご入店いただけないルールなのです。」
……え、そうなの!?別の店にかけてみた。
サロンB「技術的には可能ですが、申し訳ありません、あいにく男性のお客様は…」
……なに!?!?!?
まさかこんなところに男子禁制の聖域があるとは知らなかった。
新たなDIYの沼
世の中には男性OKのネイルサロンもあるようだが、初動で2店断られたのでもう嫌になった。もういい、自分でやる!
……とすねたように言ってみたが、そもそもがDIY好きなので内心ワクワクである。腕まくりしてネットで調べたり人にきいたりするうちに、こんなアイテムの存在を知った。
おしゃれ目的でない自分には無縁と思っていたネイルグッズ。しかし爪のメンテナンスという点では、ノウハウの宝庫だったのだ。
ネットで調べつつ、補修を進めていく。
割れた爪を普通に接着剤でとめただけだと、細い断面だけでの結合になる。しかし布をかぶせてそこに接着剤をしみこませることによって、面で強く接着することができる……ということなのだろう。
このグルーは都度乾燥させつつ何度か重ね塗りすると強度が増すようだ。
1時間ほどの作業で、触るたびに動いてペチペチいっていた割れ目が、すっかりなくなってしまった。貼ったシールも半透明になってすっかり目立たない。恐るべしネイル業界のノウハウと技術!
しかし、一つだけ問題があった。
そう、ネイル用のトップコートは爪がツヤっツヤになってしまうのだ。おしゃれとしてはそれが正しかろう。しかし何度も照れ隠しで「おしゃれ目的ではない」と書いてきたことからもわかるように、僕は恥ずかしいのだ、それが…!!
こうして、ネイルグッズを駆使して「まったくいじっていない」風の爪を作ることに成功した。
メイクの話題で「ナチュラルメイクはメイクが薄いのではなく、高度に作りこまれたナチュラルである」ということがよく言われる。爪も同じで、さりげなく見せることにも技があると実感した次第である。
数ミリ爪が伸びるだけで
思わぬところでネイルの面白さをちょっと垣間見てしまった。これで見た目もかわいくなるとしたら……はまる人の気持ちは完全にわかる。実際のところ男性がネイルを楽しんでも全然いいと思うのだけど、僕は底なし沼の淵が見えてしまったのでここで踏みとどまることにする。
楽器の話に戻ると、こうやって生活上の不便を背負って楽器に打ち込んでいるというのは、むしろ練習に打ち込むモチベーションになると思う。「俺は犠牲を払ってまでこの楽器に懸けているのだ」という自意識が生まれる。逆境ほど燃えるというやつだ。あと不便なだけだと損なので、そのぶん楽器弾けるようになって埋め合わせないと、という思いもある。
体の形が数ミリ変わるだけで、意識にいろんな変化が生まれる。人体の不思議である。……と急に話のスケールを広げて終わります。