なろう系独自の文化「と言われてももう遅い」とは
投稿小説サイト「小説家になろう」の存在は知っていたのだが、今や「なろう系」という独自の文化を形成するまで盛り上がっているようだ。
「なろう系」という小説の文化があり、そこのタイトルに「もう遅い」が頻出している
サイトのランキングを見るとタイトルが長い。この日の日刊総合ランキング1位は『真実の愛を見つけたと言われて婚約破棄されたので、復縁を迫られても今さらもう遅いです!』である。なるほど、設定の説明やあらすじを兼ねていそうだ。
その後ハイファンタジーというジャンルのランキングトップ10を眺めていて気づいた。10作中8作品に「と言われても今さらもう遅い」的なキーワードが入ってるのだ。
「と言われても今さらもう遅い」? なんだこれは? なんで苦情がタイトルに?? そこで「言われてももう遅い」の文脈をチェックするとどれもこんな感じだった。
上司:君はもうクビだ!
主人公:次の就職先はいいところだな~
上司:やっぱり君が必要だ! 頼む、帰ってきてくれ!
主人公:そんなこと言われてももう遅い(←これ)
なるほど、買い出しで帰ってきたら「やっぱりコーラで」と言われるとかでなく、良い方向の「もう遅いよ~」である。「モテちゃって困るな~」の仕事ver.とも言えるような。
これがタイトルに頻出しているということは小説の読者はそれを味わいたいということだろう。これ、気持ちいいのか。こんなの一度も味わったことないな、体験してみたい。
デイリーポータルZ編集部のむかない安藤さん(右)に協力してもらう。撮影係として同じく橋田さん(左)も出てきます
良い手のひら返しを擬似的に体験する
「つまり良い方向での手のひら返しってことだよね?」と企画の相談をした編集部の安藤さんが言う。たしかに。そして安藤さんに協力してもらってシミュレーションとしてこの良い手のひら返しを味わうこととなった。
安藤さんには「クビにする上司」役をやってもらう。こちらはクビにされる側。そしてクビにしてもらい、帰ってきてくれ、とお願いしてもらう。台本はないがその流れで。
お互い何が起こるか分かっている茶番でありロールプレイであるが、ある程度の「もう遅い」の気持ちは味わえるのではないだろうか。
会議室に呼び出され算数ドリルをしろと言われる。計算が仕事という設定のようだ。いきなり不安になる出だしだが…
ロールプレイ開始「まず仕事を与えられる」
デイリーポータルZのオフィスの会議室に安藤さんに呼び出される。
「よく来てくれた大北くん、これをね、まずやってほしいんだ」と安藤さんには計算ドリルを渡される。こなす仕事はなんでもいいのでだれでもできるようなものにしてもらった。割り算の筆算をサクサクこなしていく。
かんたんすぎる計算はそれ自体少し屈辱的であり、大人がやるとこの状況に対して不安になるようなものだ
「あ、はい、ちょっとやめて。ちょっとやめてくれるかな」となぜか取り上げられる
ものすごく雑だ、とか、思っていたのとちがう、とかなんくせをつけられダメ出しをされる。計算ドリルなのに。理不尽を感じる。この人はなんなんだろうか。
「はい、じゃあ帰ってください」「もういいんで、もういいんでもう帰ってください」ひどい! こんなことあるのか!?
「え? ほんとに? ほんとに言ってるんですか?」腹を立つを通り越して、半ば信じられないような気持ちだ
信じられない!
仕事内容になんくせをつけられ、もう帰っていいそうだ。安藤さんが言うにはクビである。何が起こるかわかっていても信じられない気持ちだ。途中の扉を別の方に解錠してもらう。恥ずかしい。
「ほんとに帰りますよ?」「あ、はーい、もういいんで、はい、どうぞ~」と送られる。設定とはいえ、計算ドリルやらせて途中で帰らせるのは人として大変だ…
22階から帰る。この「なんだったんだ…」という絶望感よ。信じられないことが起こった。
頭が真っ白になる気持ちもわかる
不思議なもので疑似体験なのに呆然とした心地は半分くらいある。頭が真っ白になるというのもわかる。
何をしようかなと思う。鏡を見ると髪が伸びていた。散髪にでもいくかな。そこにメッセージが入った。
一階まで降りたあたりでメッセージが入る「大北くん」「もう帰った?」「話があるからそこにいてください」と。これは確実に状況が好転するメッセージだろう
風が吹く
スマートフォンにメッセージが入った。さっき私をクビにした安藤さんからだった。帰ってないならそこにいてくれという。なにか良いことが起こる気はする。そこにいてくれということはその先があるからだ。
さっき自分をクビにした男がやってきた。生きにくい人生だな、この人は。しかし良いことが起こりそうなので悪い気はしない。
安藤:大北くんごめん、さすがにさっきのは無礼かなと思ってさ。もう一回話を聞いてもらっていい? やっぱり大北くんの力が必要なんだ(※言われるとやっぱりうれしい)。
大北:そんなこと言われてももう遅いっていうか…
安藤:その気持もわかるんだけど、おれの早とちりというか。おれもカーっとしちゃって(※生きにくい人だ)。もう一回だけやってもらってその分の時給も出るし悪いようにはしないから。
大人が謝っているのだから、許してやろうという気にはなる。時給も出るというしこの一件の慰謝料分くらいはあるのだろう。水に流そうということになった。
そして何よりちゃんと頼られていることがうれしく思えた。
「ごめん、もう一回話を聞いてもらっていい?」「そんなこと言われてももう遅いっていうか…」言えた~!!
自分に敵なしの状態
肝心の「そんなこと言われてももう遅い」を言う気分ではあるが、この発言自体にそこまでは意味はなかった。どちらかというと「ちょっと待って」というメッセージが届いた瞬間から後の気分の高揚だろう。
これはたしかに「なにか良いことが起こるんだろうな」という時間であり、ドラマなら明るいメインテーマが流れる時間だった。これはたしかにいい気分がつづく。ラッキーアイテムをとって主人公が無敵になったゲームのような時間だ。
ずっと申し訳なさそうにオフィスまで先導してくれる。たしかにいい気分かもしれない。だがこの上司の生きにくさよ。忙しい人生を生きているな
同じ道でも感じ方がちがう
私をクビにした男が申し訳なさそうにオフィスまでの道を先導していく。この時間も気分がよかった。さっきクビにされた道のりを通るのだから。同じ道なのに印象も足取りもオセロのように一気に変わる。
エレベーターで22階まで上がるとき、さっき私をクビにした男はおべっかをつかう。この人はこんなにダイナミックに手のひらを返して恥ずかしくないのだろうか。ワシにさらわれて育てられた人ってこんな感じなのかもしれない。
そうして、もう一度仕事を任せられることになった。よく恥ずかしげもなくスッと出せるな
終わり方を決めていなかったためこのまま進むことになった
「うーん、これはちょっと…」まさか!?
「帰ってきてもらってきたけどやっぱりちょっと雑かなあ。こことか読めないもん。そこからだよね、まずね。」おいおいおい、まさか!?
「やっぱ、うん…ここまでの時給はちゃんと出すので。やっぱいいや…ごめん、二度手間とらせちゃったけど。なかったことにしよう」しまった、終了を決めていなかったためこの席につくと悪い方向の手のひら返しが始まるのか。安藤さんの人格が破綻する!
大北「納得いきませんよ」安藤「納得いくいかないじゃなくて仕事の話なんで。また機会があったらということで」なんでこんなに笑顔なのだろうか
大北「え、本当ですかこれ?」安藤「本当。じゃあそういうことで!」大北「ネットに書いて訴えてもいいですか?」安藤「どうぞどうぞ!」本当に怖い人と出会った
悪い方の手のひら返しがあった
良い手のひら返しのあとの結末を決めなかったため、安藤さんのノリ次第となったが再びクビになってしまった。今度は悪い方向への手のひら返しが始まったのだ。
これはきつい。悪い夢のようだ。ただ、信じられなさに関しては一度目の方に軍配が上がる。こちらは一回起こったことなので。
この帰り道、なんだったんだ感は2倍である。
そしてまたメッセージが来た。どんな顔して来るんだ、この男は…
すでにごめんをしながら来ている。この人は生きにくいぞ! もはや偉人級に大変な人生を歩んでいるぞ!
サイコパス安藤誕生
安藤:大北くんごめん、もう一回だけ戻ってきてくれないかな。
大北:そんなこと言われてももう遅いですよ、もう散髪の予約とったし
安藤:それはまた別の日にしてもらって。やっぱり大北くんが必要なんだってわかって(※やはりそれなりにうれしい)。
大北:2回も人をクビにしといて「やっぱり」もなにもないと思うんですよ
安藤:すいません! ぼく病気なんですよ(※アドリブにしてもひどい!)。すぐに怒っちゃう。これ病気なんです。だからしょうがないと思ってもらって、もう一回、もう一回だけ来てもらって。
……時給的なものも多めに出すし、交通費も多くして。さすがに最後で。三回目なんで。
大北:……病気って。あんまり謝った感じもないし
安藤:これが最後、最後。これで決めよう。これでスカッと決めてもらって(※何を)。
大北:……これで最後ですよ?
安藤:いやあ、ものわかりのいい人でよかったよ。病気だからさ、おれ(※本当にひどい)。
「やっぱり大北くんが必要なんだってわかった」やっぱりもくそもない。この人の人格が破綻している
人は甘い。2回めの手のひら返しも受け入れてしまう
2回目の手のひら返しであったが、最終的には飲んでしまった。きっと本当にあったとしても受け入れたろう。やはり人は人に必要にされると弱い。
お金を保証されて、君の力が必要だと言われたなら、まあとりあえずやってみるかという気になる。この人は病気を理由に弁明したことなどすっかり忘れて。人はチョロいものかもしれない。
しゃべることもなくなって無言の安藤。この男、さっぱり何を考えているのかわからず不気味である。こんな人とエレベーターに乗るのはいやだ
気分はそれほどよくない
さて「そんなこと言われてももう遅い」 の気分のよさであるが、二回目はそこまではよくない。もちろん良い部分もあるのだが、不信感や徒労感が強い。
気分のよさとかそういうものの前に、今ここに異常なことが起こっている…!!という気持ちの方が強い。というか目の前にいるこの男の異常さが際立つのだ。
そしてもう一度計算ドリルを始めるも「せっかく帰ってきてもらって申し訳ないんだけど、ぼくも大人なんで、言うことは言うけど。やっぱりないかな。帰っていいですよ。髪を切った方がいい、美容室。」だれかこの魔法を解いて!
「これっきりでね。さすがにね(笑)怒ったと思うんで。さすがに怒るよね。でも誰が悪いわけでもない。世の中が悪い。もう連絡もしません。連絡先を消すんで」サイコパスも行き過ぎると分けがわからない、プログラムのような人格に見える。AI都知事、こんなだったのかもな…
やっぱり来た悪い方の手のひら返し
ここまで来たらそうなんだろうなと思っていたがやっぱり悪い方の手のひら返しが来た。ここまでかかった時間ややりとりの分だけ徒労感がつのる。なんなんだこれは。肩に悪い霊がしっかりついた感じだ。
二回目以降の手のひら返しは悪い部分ばかり目立つ。だとしたら私達は今なんのためにこれをやっているのだろうか!?
そして1階に着くころに今度は電話がやってきた。もう全部わかっている…!!
お互い何が起こるかわかっているのがそれでも生きにくい男はやってくる。大変な人生を歩んでらっしゃる…
3度めの良い手のひら返し
安藤:申し訳ないなと思ってみちみち反省して気づいたんですけど、やっぱり大北くんが必要だと思って。世の中が悪いとか言ってたけど悪いのはおれです。おれが悪いです。
大北:今さらそんなこと言われてももう遅いですよ。信用もなくなってます
3度目の手のひらを返してくる男、安藤。これほど恥を知らない男はいない
安藤:もう遅いっていうのもわかるんだけど、ちょっと条件の方も変えられるかなと。いくらほしいかな? 金額とかじゃない? じゃあ車買ってあげる。大北くん専用のハイヤーを作ろう(※よくわからない)。送り迎え、それでしてくれていいんで。他に何がほしい? もう、なんでも作ろう。
大北:なんでハイヤー作るんですか(笑)じゃあもう最後っていうか、契約ですよ。契約。もう絶対にクビにしない。これなら行きましょう
安藤:もちろんもちろん、だってもうこれ以上できないでしょう、手のひら返しは。もう、ない。もう、ないです。
専用のハイヤーを作るとか言われたら(…なんかおもしろそうだな)と思ってしまう
人は3度めの手のひら返しを受け入れる
こうして私は手のひら返しを受け入れた。この人は信用ならないと思っていても、屈辱的なことをされたと思っていてもだ。
やはり「やっぱり君の力が必要だ」の力の強さとそして「専用のハイヤーを用意しよう」のゆかいさ加減よ。でたらめなご褒美は過去の屈辱を洗い流してくれるのだ。
「今さらもう遅い」「今さらもう遅い」と言いながらも人は案外遅くないものである。
「もう扉という扉はぼくが全部開けますんで」ここまでへりくだられるとふたたび「もう遅い」のがよくなってきた。この人の人格はもやしとかでできてるのではないだろうか
相変わらず割り算の筆算をやらされるのであるが…もうそれどころではない
私にはわかる。この後何が待っているのかを。
安藤:時給は380円でいいですかね
大北:え? いやー、計算にしても700円くらいとか?
安藤:……700円? はちょっとむりだな。300円くらいかな。さっきの契約っていっても口約束なんでね。うん。じゃあいいや。ごめん。こっちも色々譲歩したんで。申し訳ないけど。
大北:やめ? ってことですか?
安藤:やめ。なしにしよう。色々あったけど。何度言ってもなし。ないものはない。ないからない。もう帰り方はわかるよね? はい。ありがとうございました。じゃあもう全部なしにしましょう。はい。ありがとうございました~!
「もう帰り方はわかるよね? はい。ありがとうございました。」人としてありえない人格となっている。この人はブルドーザーとか重機に育てられたのかもしれない。
わかっていても徒労感はすごい
手のひら返しとはどのような気分か?が終わり、実験は次の「人は何回まで手のひら返しを受け入れられるのか?」の局面に入った。
来ると分かっていても悪い方向の手のひら返しはいつまでもだるい。あの人でなしといた時間を返してほしい、と切に願う。
こんなありえない状況で4回クビにされたがそれでも帰り道の扉はいつまでも重い
そしてメッセージが入る展開にももう慣れた。「もうないです」が自然と出た
さあサイコパスがやってきたぞ。もはやエンジン音が聞こえてくるようだ
4度目はない
安藤:大北くんごめんね、今電車留まってるらしいから一回オフィス行かない?
大北:いや~~、いいです、もう、ないです
安藤:機嫌直してもらってお茶飲もうよ、会社のコーヒーうまいらしいよ
大北:いや、さっきあれだけなしにされたので
安藤:じゃあ何がほしい? 何がほしいの? 土下座しちゃう? 土下座したら来てくれる? しちゃうよ? しちゃうよ?
大北:……はい、なしということで
自分でもおどろくほど「No」が出た。人が手のひら返しを受け入れられるのは3回だ
手のひら返しは3度までOK
これはフィクションであるなら、何回も手のひら返しに乗ることも可能なのだが、自分でもおどろくほど素直に「もうむりです」が口をついて出たし何も変える気はない。ただただ目の前の男を信じられないばかりだ。
手のひら返しは3回まで。人は案外「そんなこと言われてももう遅い」ということはないが、一回「もう遅い」となるとその気持ちは固いものになる。
仏の顔も三度までということわざはよく言ったものだ。
結局土下座はしなかったのでたかが実験で半沢直樹みたいな状況にならなくてよかった
「そんなこと言われてももう遅い」のよさとは人に頼られること
こうして一日に四回もクビにされて四回も「今さらそんなこと言われてももう遅い」を言った結果分かったのは、これは頼られる気持ちよさを表わしているのだということ。
自分をクビにしたひどいやつが下からへりくだってお願いしてきてざまあみろ。そんな気持ちは味付けに過ぎず、やっぱり「君の力が必要なんだ」の気持ちよさが圧倒的に強い。それは手のひら返しを3回受け入れるほどに。
一見、ざまあみろ感を求めてるように見える「そんなこと言われてももう遅い」であるが、一番底にあるのは必要とされたい気持ちなのだと自分の中では結論づけた。それはフィクションにして求めるほどに強い。
そしてどうでもいい実験でサイコパスになり、最終的には土下座をニコニコしそうになっていた安藤さんに最後は謝辞を述べたい。
謝辞よりもライターからのお知らせです
毎年やってる明日のアーの本公演を今年は野外で1ステージだけやることにしました。もう来週末です。GoToイベントで2割チケットが安くなりよく売れています。コロナが起こったときパイソンズならどんなことしたんだろうなーと考えながら書きました。60分で50個演目があります。もう、パンッパンです。
全くやらなくてもいいことをやります