慰霊碑は「生きる」を考えるセーブポイント
街のふとしたところにあり、ウラ側の歴史と生きることの意味を少しのあいだ考えさせてくれる慰霊碑。
まるでドラクエの「セーブポイント」のような存在だ。
いま石丸投手の「ストライク10球」のその先を生きていることを、僕はちょっとのあいだ考えた。
渋谷・新宿・池袋・表参道などの華やかな街。そこには「生」のエネルギーがあふれ、「死」とはもっともかけ離れた場所に見える。
だが歴史上、死は街のすぐそばにあった。戦争・災害・事件・事故などで、あっけなく人々の未来を奪い去った。
その教訓を次代に伝えるために、街には慰霊碑がある。だが現代の喧噪の中に埋もれ、顧みられることも減った。
しかしそれらは、「生きることは、当たり前ではない」という、ものすごく当たり前だけど大事なことを教えてくれる。
埋もれた街の歴史を掘り起こすと、華やかなオモテ側から隠れた、ウラ側が見えてきた。
まず来たのは表参道。高級ブランドの旗艦店が集まり、ファッションの最先端の街というイメージが強い。
その入り口である表参道交差点には、印象的な2つの石灯籠が鎮座する場所でもある。
1920年の明治神宮創建時に建立されたものだ。
この灯籠は、太平洋戦争中に表参道が山の手空襲で壊滅的な被害を受けた生き残りだ。
山の手空襲は1945年5月24~25日の2日連続の大規模空襲で、当時の麹町区、渋谷区、赤坂区などで約3000人の死者が出た。
東京大空襲で焼け残った地域を標的とされ、飛来した米軍機は3倍、焼夷弾は4倍にのぼった(朝日新聞1994年7月7日)。
灯籠を見ると、土台が一部ひび割れていて、黒ずんでいる。
ひび割れは空襲のダメージを表し、黒い部分は焼夷弾で燃えた人々の脂が染みこんだものと言われる。
この空襲により、皇居内の宮殿も消失した。
今も碑のそばにある、安田銀行(現みずほ銀行)の建物が丈夫なために、人々はその陰で火を逃れようとしたが、及ばずにみな亡くなってしまった。
翌朝は表参道中に黒焦げの遺体が横たわり、安田銀行前には2階まで届くほどの亡骸がうずたかく積まれた。
ちなみに表参道のけやき並木の中でも「太いもの」は、当時から焼け残っているものだという。
さらに、ほど近くの善光寺には戦災殉難者諸精霊供養塔や、陸軍経理学校生徒隊慰霊碑があり、当時の記憶をかすかにつないでいる。
なお山の手空襲があった毎年5月25日には、この善光寺で法要が行われている。
隣町のトレンドタウン原宿には、東郷神社がある。魚雷の形をした石などが置かれ、戦死した軍人らを悼んでいる。
我々がふだん使う駅にも、殉職者らを悼む碑がひそかにある。
たとえばJR新宿駅の11-12番線ホームの端には、新宿駅で亡くなったお客さんや職員の慰霊碑が存在している。
いまをときめく日比谷線中目黒駅の近くにも、「日比谷線脱線事故」の慰霊碑がある。
これは2000年にカーブで脱線した電車が反対側の電車と正面衝突。乗客5人が死亡したものだ。
今でも中には係員がおり、事故を悼む記帳者を待っている。
取り返しのつかない過ちだったが、19年経っても平日は毎日人員を配置し、事故を忘れないための施設を守っている東京地下鉄株式会社は、感銘に値する。
続いてやってきたのは渋谷だ。
特にハチ公口は、「暗」の部分はまるで見受けられない「明」の部分だらけの街に見える。
この日は5月5日。まだ10連休の最中ともあって、街中は買い物客でごったがえした。しかし、駅からほんの10分ほど歩いたところに、それはある。
これが、あの歴史的クーデター「二・二六事件」の慰霊像だ。
このあたりにはかつて旧東京陸軍刑務所の処刑場があり、そこで計画に参加した22人に死刑が執行された。
処刑された人たち22人の遺族で結成されている仏心会が寄付金1500万円で建てた。観音像の胎内には、全物故者の戒名、経典などが納めてある。
1965年2月26日に除幕式が行われ、仏心会の河野会長はこう語る。
「けっしてクーデターを肯定するのではない。ご迷惑をかけた人たち、それにわが子、わが夫の霊をなぐさめずにはいられないという家族の願いでできたものだ」
さらに「あの不幸な事件を日本人が反省し、りっぱな日本をつくりあげるいしずえになれば」とも(読売新聞 1965年2月27日)。
ちなみに渋谷には旧日本陸軍の「代々木練兵場」もあり、陸軍の拠点的な場所だった。
あたりを見渡すと、当時を忍ばせる「陸軍用地」の標石が街中にいくつか残っている。
もう一つ、神山町の梅澤精米店跡にあったのが渋谷暴動事件の碑だ。
渋谷暴動事件とは、1971年に沖縄返還協定の批准に反対する過激派の学生らが機動隊と衝突し、新潟県警から派遣されていた中村恒雄巡査(当時21、殉職後に警部補に昇任)が亡くなったもの。
指名手配の張り紙が全国的に掲示されていた、実質的リーダーとされる大坂正明が主犯格。
そんな彼も長い長い逃亡生活の末、2017年に逮捕された。
現在は隣接する建物の工事のため、一時的に渋谷署で保管。2019年末ごろに同じ場所へ再び設置される予定だ。
続いては後楽園へ。東京ドーム、東京ドームシティアトラクションズ、ラクーアらが揃う一大プレイスポットだ。
家族連れやカップルたちが余暇を思い切り楽しむここにも、忘れてはいけない歴史を教えてくれる「鎮魂の碑」がある。
これは第2次世界大戦で出征し、戦死したプロ野球選手たちをしのぶ碑だ。
巨人の伝説的エースだった沢村栄治は27歳で戦死。タイガースの強打者・景浦将も29歳で同じく戦没。
名古屋軍の20勝投手だった石丸進一は特攻隊員として22歳で亡くなった。
石丸は最期、戦友とともに「よしストライク10球」とキャッチボールをし、そのまま二度と戻らない空へ飛び立ったという。
石丸は「野球がやれたことは幸福であった 忠と考を貫いた一生であった 二十四歳(注:数え年)で死んでも悔いはない」と遺書に残した。
ちなみに戦死したプロ野球選手の数はいまも正確に把握されていない。
続いては池袋だ。いまでは都内屈指の繁華街で、特にサンシャインシティの周りなどは多くの人でにぎわう。
1978年にオープンしたサンシャイン60は、池袋の街の元気を象徴する建物として君臨してきた。
しかしそこはかつて東京拘置所だった。
太平洋戦争に負けてGHQに接収されたあとに「巣鴨プリズン」と名前を変え、東條英機ら7人のA級戦犯と、BC級戦犯が処刑された。
やがて名前は元に戻り、拘置所は小菅に移転。その後に生まれたのがサンシャイン60と、これから行く東池袋中央公園なのだ。
この碑が立つところは、まさに戦犯の処刑場があった場所。
さらに5つの絞首台跡にはそれぞれに小さな塚が築かれたが、その塚は現在では失われている(朝日新聞2015年11月11日)。
なお「サンシャイン」という名前には、この地にまつわる暗いイメージをぬぐいたいと願う心持ちが託されていた(朝日新聞1988年8月4日)。
なお「根津山」といい防空壕が多くある雑木林のあたりには現在「南池袋公園」がある。
今では広い芝生の上で多くの人たちがくつろぎの時間を過ごす、おだやかな憩いの場。
しかし豊島区城北大空襲の際には、大きな被害に見舞われた場所だった。敷地内に碑も残っている。
さらに空襲後、亡くなったたくさんの人々がこの地で仮埋葬された。
その多くはほかの場所へ送られたものの、いまだ犠牲者の方たちの白骨が地中に眠る。
旅の最後は東京駅へ。1914年に誕生した帝都の玄関は、東京へ集う多くの人でにぎわい、日本一活気のある駅といってもいい。
しかしここは、ときに流血の事態の舞台にもなってきた。
令和元年を祝う幕も掲げられる丸の内口南口。ここの切符販売機付近に、ちょっとギョッとするものがある。
原敬首相の暗殺現場だ。
原は初の本格的政党内閣を結成し、平民宰相として人気を集めたが、1921年11月4日、その強引な施策に不満を抱いた暴漢に短刀で右胸を刺された。
刃は心臓を貫いており、たちまち絶命した。
東京駅はもうひとつ、濱口雄幸総理大臣の暗殺の舞台になっている。
奇跡的に一時快方に向かうも、野党からの相次ぐ登壇要求に病身を押して議会に出席した以後に病状は悪化し、翌年の1931年8月に亡くなった。
ここが総理大臣、濱口雄幸に凶弾が炸裂した現場だ。
慰霊碑をめぐるウラ側の街歩きは、街の壮絶な記憶ばかりが呼び起こされた。
人はときに、アッと言う間に亡くなる。どんなに辛く、どんなに苦しい日々を耐え抜いて今日を生きている人でも、突然の最期はやってくる。
命が強制的に失われる絶望的な状況の中で、彼らは何を考えたのか。
それを考えることは、僕らへ平等に訪れる「死」への心の準備をする、いい練習なのかもしれない。
街のふとしたところにあり、ウラ側の歴史と生きることの意味を少しのあいだ考えさせてくれる慰霊碑。
まるでドラクエの「セーブポイント」のような存在だ。
いま石丸投手の「ストライク10球」のその先を生きていることを、僕はちょっとのあいだ考えた。
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