オリンピックはまず運動をする
とにかくまず運動である。なんの運動でもよいのだが「運動して金属の円盤をもらうとうれしいのか」を試してみたいので純粋な運動が良い。
なのでサッカーとか野球とかすでにある競技はだめだ。私はこれが好きとか馴染みがあるとか意味が出すぎてしまう。
そこで考えたのがだるまである。
だるまであると言われましても、とお思いだろうがだるまである。1分間はちゃめちゃにだるまを動かすオリジナル競技である。
1分間は撮影を担当している編集部安藤さんが測ってくれている。ところが1分間でもかなりきつい。暑さも酷い。
オリンピックの話題かなと思って久しぶりにWEBの記事をご覧になられた方は驚かれたかもしれない。だるまを回し続けてオリンピックを語る。今やWEBの記事業界はこんなことになっているのである。これは私が悪いわけではないのだ。
ただ意味のわからない運動をするとつらい
運動はそもそも楽しいものである。体が活性化するのを感じて気持ちがよいし、競技になると競争心もそこに加わる。
だがこれはどうだろう。たとえば脇で挟んだシャベルを使って、穴を掘っては埋めることを繰り返す運動を想像してもらいたい。普段使わない筋肉でつらいし意味のないことを繰り返すものだ。今やってることはそれに近い。
そしてこの日の最高気温は34.8℃。ただただつらいだけである。
だがここが出発点だ。運動はまずこうだ。ここから要素を足してオリンピックがやってることに近づけていく。すると「これはこういう意味があったのか」と分かっていくはずである。
国を背負って応援が加わる
次は競技相手だろうか。いや、個人で記録を伸ばす競技もあるだろう。必須ではない。
所属ではないか。マークをつけて同じマークに所属している人たちから直接的なり間接的に応援を受けている。
そこで私も赤丸マークをつけてカメラマンである安藤さんから応援を受けてみた。
応援を受けると力の入り方が違う
遠くからカメラマンである安藤さんから声が聞こえる。自分がオリンピック選手のようなイメージを抱く。故郷の人も応援しているのだろうなと。
するとこれは個人戦ではなく団体戦であるように思えてくる。自分の体ではなくみんなの体のような気がしてくるのである。
今だるまを持ち上げる力を抜くのは簡単だ、だがそれは個人の考えによるもので許されないだろう。この体は所属している集団のものなのだから。
応援とは個人をみんなのものにシェアし客体化することではないだろうか。こんな意味のわからないだるま回しにも力が入るのである。
だんだんオリンピックに近づいてくる
運動と応援までくればあと一歩だ。メダルと呼ばれる円盤状のあれだ。なんであんなに金属の色にこだわっているのだ。
この運動が終われば3つの円盤状の金属のどれかがもらえることとなった。どれになるかはカメラを担当する安藤さんが決める。
銀色だがピカピカしているものはよい
運動が終わり、応援もあって、もらった金属は銀色のもの。なんの刻印もなく、なんだかわからないものである。
しかしピカピカしている。悪くはない。なんだか納得するものがある。というのも、どうやら人間はピカピカキラキラしているものが好きらしいのだ。
ベルギーのゲント大学のパトリックさんが言うにはキラキラしたものが好きなのは水辺の原始的な欲求からだそうだ。実験によると、喉の渇いた人はより光沢のあるものを好んだそう。スポーツマンは喉が渇いているだろうからなおさらである。
参考ー"An Evolutionary Theory For Why You Love Glossy Things"
円盤状であることもよい。これがゴツゴツの鉱石状のものよりも工芸品であることを感じさせる。私が首からかけられて満足しているのは人間が好んでいる価値そのものなのである。
ピカピカした円盤状の金属は良い。おそらくほぼすべての人類にとって良いものだ。そして今ここには3つの種類がある。見比べてみた。
黄色っぽいもの、白っぽいもの、赤っぽいものと3つあり、よりキラキラしているのは白か黄色かなと感じさせる。赤は多少くすんでいる。
ここで再び金属本来の価値を思い出してみる。金は希少価値が高いから金色が1位、銀色が2位、銅が3位だ。
金が良いのではなく、金が良いとされてるから良い
金色が世の中的に価値があるとされている。だからこれは1位だと思いだしてみると、自分がもらったのが物足りなく思えてくる。だが銅の方をじっと見るとこいつよりは上だという気持ちもわいてくる。まあ、悪くないか、という思いだ。
これは他人の評価の塊である。私としては銀で問題はないが…とはいえ、今や私の体はみんなのものであるので私だけで判断してはならない。
美人コンテストの選考委員になったときのことを考えてみよう。私は「私が好きな人」ではなく「みんなが美人だと思いそうな人」に一票入れることだろう。今は金が一番価値が高いのは確定しているのだ。だったら金だ。みんなのためだ。
なるほど、国を背負って金を目指す人の気持ちがちょっとわかってきた。ところで本当に金がいいのだろうか。金がピカピカして目立つならもっと目立つものだとどうだろうか。
色の問題ではないのかもしれない
金ではなく蛍光ピンクの円盤にしてみた。色としては特色インクを使ったかなり発色の良いものである。しかしこれがどうも納得いかない。写真を見返しても渋い表情ばかりがフォルダにある。
「おめでとう!」という安藤さんに「やっぱり…安いんですよね…なんていうか…存在が…」と答える。 それは重みによるものかもしれない。だがやはり色だろう。
ドンキホーテでより目立つために置かれているポップのような色である。あれだけ国のこととかみんなのことを考えたうえで蛍光ピンクか、という気がしてくるのだ。
親しみやすい目立ち方ではあるが、へとへとになった身体にそぐわないのではないか。与えられるべきはやはり他者から認められた価値なのか。
価値を首にかけてもらう
一万円が首にかかる。これぞ他人による評価であり価値だ。日本銀行がないかぎりはただの紙切れなのだから。
「一分で一万円だからすごいよ!」と安藤さんは言う。たしかに総理大臣クラスの時給だろう。だが納得はいかない。お金に換算されている違和感がある
金では買えないものである
こっちは赤丸マークのみんなを背負ってやっているのである。この競技がなんなのかはさっぱりわからないが、こんな日当みたいなものを首から下げて満足していいのかという気持ちはある(もちろんこの一万円とは別に対価として35億くらいもらっていても、である)。やはりキラキラした金属が良いのだろう。
大きい金属が来た
今度は鍋の蓋である。新品なのでキラキラした金属ではある。今までは6cm程度だったから長さだけとっても3倍以上の大きさである。先程もらった銀メダルの大きい版と言っても差し支えないだろう。
別の意味が出てはダメ
だがこれも納得いかないのである。もちろん金属として大きすぎるということもあるかもしれない。純金の大きいメダルだと希少性のありがたみが少なくなるのかもしれない。
だが決定的に違うのは意味だ。これが「キラキラした大きなもの」ではなく別の「意味」が生まれてしまっていることによるのではないか。
たしかにキラキラはしているが、鍋の蓋を首から下げている、という意味の方が明らかに大きいのだ。
だるま振り回して鍋のふたを首から下げられるのである。シュールという言葉にパッションを注ぐ大学生が描いた4コママンガ、そんな世界に今私は生きている。だらだらと汗を流しながら。
きれいごとも納得いかない
私が金銀銅メダルに持っている違和感とは「結局宝石的価値かよ」というところでもある。生々しすぎるのではないだろうか。
そこでフラワームーブメントである。世界中の銃口に花を挿していくようなことがオリンピックの思想として合ってるのではないだろうか。
炎天下、だるまを振り回すと、首から花をかけてもらえる。童話のような美しい世界だ。だが口をついて出た言葉には「ハア…ハア…、なんていうか、童話かよ、っていうか…」と明らかに不満が現れていた。
たしかに思想としては美しい、だがもっと直接的な、もっと他人の称賛が具現化したものの方がいいように思う。
それは純金かもしれないし、500万フォロワーのツイッターアカウントとかでもいいかもしれない。実利的なものと言ってもいいかもしれない。
花より団子というわけでもない
花が実利的でないということもあり、食べられるものになった。筆者が好きなお菓子、雪の宿黒糖みるく味である。
もういいかげん1分間動けなくなってきた。だるまを持つ指が汗で滑る。応援も聞き取れず、力が入らなくなってくる。そのあとで雪の宿が一枚首からかけられる。
食べられること自体だめ
月が出ていたら吠えたかもしれない。雪の宿かよ、と。円盤にはちがいないが。こんなにおいしくサクサクである必要があるのかと。
たしかに好きなお菓子ではあるが、その好ましさがここでは逆に働いているような気分である。なんでこんなふわふわ甘じょっぱいものを首からさげているのか。ここまでの行動とのほどほどの実利がバランスとれていないのである。
でもこれが雪の宿だからだめだと言ってるわけではない。王様しか食べられないキャビアの缶詰めであってもきっと納得いかなかっただろう。食べられるからダメなのだ。実利がともなってはいけないのである。
金属は食べられない無駄なものであり象徴であるからこそいいのだ。
やはり金属の円盤には意味があった。なんだかわからない競技でなんだかわからない円盤でもそう思うのである。
ちょうどこの撮影が行われる前日あたりに金メダルをかじる騒動があったのだ。金属の円盤はかじられるところまでやるのがオリンピックなのではないだろうか。
デイリーポータルZ編集部のある会社にお邪魔すると安藤さんが鈴木さんという方を呼んでくれた。正真正銘の知らないおっさんである。
「かじるんですか!?」と鈴木さんは何も言わないでもわかってくれた。それほどに話題の一件だったのである。
そしてかじっていただいたところ、これが何の競技かもわからないし、真鍮の安い自作の金メダルではあるのにも関わらず、なんとなくげんなりするものがあった。
先程までその価値がどうとか、自分の身体は自分のものではない、みんなのものだとか色々ごたくを並べて葛藤してきたもの。それを知らないおっさんが噛む。ああ、こういうことか、と一瞬で理解をした。
そんな理解とげんなりの後、思ったのが「…ここで雪の宿か」である。
私は2021年の1年遅れのオリンピックが行われている東京で、34.8℃の炎天下で熱中症の危険と戦いながら、だるまを一生懸命振り回し、真鍮でできたなんの刻印もない金メダルを手に入れ、知らないおっさんと会い、かじられた。
ザ・イエロー・モンキーというアーティストはJAMという歌の中で自分は何を思えばいいのだろうかという主旨の歌詞を歌っている。
あれももしかしたら「本当にわけがわからない」ということなのかもしれない。
オリンピックとはなんだったのだ
結局ちゃんと見ないままオリンピックが幕を閉じた。「○○選手が金メダルです」とゴツい人の顔写真とともに情報だけたまにツイッターのタイムラインに入ってくるだけだった。
あれはなんだったのだろう。そんな傍観者のままでいるには寂しく、自分でも何が行われていたのか確かめたかった。そしてこんなことかなと見当をつけた。
世界を国境で割って、個人を集団で共有するお祭りである。そこでは評価を原始的なシンボルにして与えられる。それが私のタイムラインにも流れてきたのだ。
それに1兆7千億かとなる人も、いや4兆だよ…となる人もいるだろうし、そんなこと知るかという人も多いだろう。私たちにできることはだるまを振り回し、お互いを理解しようと努めることである。あと納税の義務と参政権の行使。
ライターからのお知らせ
演劇を最近作ってたのでその映像ができました。変態ばっかり出てくる性の偏差値が5上がった街で青い鳥を探すみたいな話です。舞台となる街の王将の天津飯はローションでできています。