太鼓はやっちゃいけなさの表現
イクラを盛るのに太鼓鳴らしてるのおもしろいな~とヘラヘラ笑っていたが、実際にいろいろやってみたところ「あれはやっちゃいけなさを表現してるのか!」と妙に納得してしまった。
祭りとはそもそもそういうものだ。たとえば銭湯でお湯をじゃぶじゃぶ浴びて小さな喜びを感じているのも小さな小さな祭りである。日常の制限を破り欲望を解き放つ瞬間だ。
なにも何月の第何週とかに神輿をかつぐだけがお祭りなわけではない。日常を生きるにおいて、小さな祭りはここにもあそこにもある。
太鼓を叩いてイクラを盛る店がある。北海道に有名店があったような気がするが検索するとそのような店は全国に広がっているようだ。
なぜイクラなんだろうか。同じ魚卵でいえばタラコじゃだめなのか、タラコじゃ。もっといえば家の納豆ご飯じゃだめなんだろうか。
「家の納豆ごはんと太鼓めちゃくちゃ合う!」となれば食卓に革命が起こって太鼓が必須になるかもしれない。すごい。太鼓とともにいろいろ盛ってみた。
あなたが家で太鼓を叩きながらイクラ丼を盛ってもらいたいと思ったら必要なのは人だ。イクラを盛る人と太鼓を叩く人を用意した。
イクラを盛るときの掛け声は「よいしょぉ!」であるらしい。となるとあの男だ、と俳優の八木光太郎を呼んだ。大声と明るい芝居に定評がある八木くんである。
祭りの衣装を八木くんには着てもらう。狭い場所におめでたさが醸される。
太鼓はデイリーポータルZ編集部から藤原浩一が叩いてくれることになった。太鼓は家にあった楽器を適当な棒で叩く。家に太鼓と「よいしょ!」がやってきた。
イクラはスーパーで安いすじこが売ってたのでほぐしてもらってタレにつけた。おいしそうだ。量にして3人前くらいはある。豪華だ。これは太鼓でも鳴らしたくなるものだ。
準備はできた。さあいくらを盛ってもらおう。
怒涛のアッパー感。暴力的なまでにお祭りである。
そもそも居酒屋は大声を出す空間でもあるのだなと思う。こんなに狭い室内で太鼓を鳴らして舞台俳優の大声を聞くとあまりのやかましさに思わず笑ってしまう。
それもただ大声なだけならいいのだが、この男はイクラをざっぱざっぱいいかげんに盛ってくるのだ。高級な魚卵を盛る人はもっと考えて盛るんじゃないだろうか。
大きな音があり、バカがいる。それもこんな狭い空間に。なにかいたたまれないような、恥ずかしさにも似た感覚がある。
とにかくここにあるのは祝祭性のなにかだ。そしてお祭りは家でやるべきではない。
ところでつい笑ってしまったあと、イクラを食べてみるとあまりに正統派な美味しさで真顔になってしまった。
あれだ。よくできたイクラ丼はもはや卵かけごはんと区別がつかないあれだ。SFと魔法の関係に似たやつだ。これは太鼓の一つでも鳴らしたくなる。
実際に太鼓を鳴らしたあとに「太鼓でも鳴らしたい」と思えたのだからイクラのお祭り感はすごい。
ところで家でこんなにイクラを食べることなんてあるのだろうか。もっとお求めやすい魚卵、たらこだったらどうなるのだろう? 太鼓はイクラ限定のものなのだろうか?
タラコ丼という丼は聞いたことがない。イクラと同じような構造でもやはりタラコはタラコごはんであり、日常のものなのだと思う。それが今お祭りのように盛られている。
しかし盛りすぎである。ちょっとは加減してくれればいいものの、この声の大きな人はなぜにここまで盛ってくるのだろうか。その声の大きさとバカさ加減に再び吹き出してしまう。
タラコはちょっぴり食べてごはんをかきこむくらいがちょうどいいのであって、これだけ盛られるとものすごく塩っぱい。太鼓を鳴らしてよいしょ!よいしょ!と盛っていくと、日常を超えた味になった。
たらこからどんどん日常に寄せていこう。今度は魚卵から離れて納豆である。これが成功すれば太鼓付きの朝食も夢ではない。
よいしょ! よいしょ! と八木くんが納豆をかきまぜてはご飯に盛っていく。
寂しさがあった。太鼓を鳴らしてハッピ姿の人が楽しく盛ってくれたはずなのだが口に入れたものは納豆である。釣り合わなさを舌がはっきりと感じた。
口は喜びを期待していたのにどこまでも日常の味がやってきた。もっといいものが来るはずなんだけど、という思いがある。
いや、もしかしたらイクラ、たらこ、と来てパブロフの犬のように脳が餌付けされたのかもしれない。私はもう太鼓を聞くとよだれの出る体になってしまったのだ。
納豆ご飯よりももっと手軽に盛るものだとどうなるだろうか? ふりかけである。太鼓を鳴らしてのりたまを盛ってもらった。
ふりかけはかけすぎるなと親に注意されたのだろうか。知らず知らずのうちに私達の脳にはふりかけリミッターが設定されている。これ以上はいけないという罪の意識でふりかけの量は制限されている。
それを太鼓とハッピの人が祭りの形で超えてくるのだ。ザッパザッパふりかけられるのりたま。最後にはザーッである。
もしかしてこのイクラの太鼓は「やっちゃいけなさ」を表現しているのではないか。ふりかけられすぎたのりたまと太鼓になぜか親和性を感じた。
今まではごはんに何かを載せてきていたのだが、ごはんから離れてみたらどうなるだろう?
私達日本人はお米がしみついていて「米に何かのせるとうれしい」という気持ちと太鼓がリンクしていたのではないだろうか。
ためしに焼きそばに鰹節を太鼓とともにのせてみた。
ごはんじゃなく焼きそばやパンに太鼓を叩いてもらった。鰹節やジャムがのってくる。飢餓状態にあるわけでもないので、そんなに嬉しいものではないし太鼓が必要だとも思わない。
しかしそれでも祭りがはじまるのである。ハッピ姿の人が太鼓のリズムで日常を超えた量をのせてくる。
「もう関係なくなっちゃってるよね!?」で終わる漫才師がいる。そのつづきを延々見ているような気分である。力なく、笑いだけが漏れ出る灰色の世界だ。
やはりこれは日常すぎるのではないか。お祭り感のないものだからじゃないか。そう思ってお菓子のねるねるねるねをやってもらった。もはや盛るでもなく、練ってもらうのだ。
なにが「よいしょ!」なんだ、なにが…
ねるねるねるねの喜びとは「練れば練るほど色が変わって…」の部分にあるので身体というより知的な興奮に近かった。太鼓、要らない……そして八木くん、ちゃんと練ってくれ……
やはりもっと原始的な喜びに太鼓は合っているのではないか。身体がうまいと感じるようなものだ。ここでイクラに代わる大本命の登場。ケーキである。これにクリームを足す。甘みと乳脂肪分、体のよろこびを足していく。
太鼓の音とともにケーキにクリームが追加されていく。このやっちゃいけなさ、やはり太鼓が合う。ケーキにクリームをのせるのもイクラをどんどん盛っていったのもお祭りなのだ。
ただし、出来上がりの見た目には「祭りのあと」感が漂っている。味は悪くはない。クリームたっぷりのケーキは好きだし舌も喜んでいる。ただ、祭りの時間は短かったなと思う。
最後にもう「盛る」「なにかを追加する」から離れてみようかと思う。太鼓を鳴らしながらレーズンを手にのせてみた。
イクラを盛るのに太鼓鳴らしてるのおもしろいな~とヘラヘラ笑っていたが、実際にいろいろやってみたところ「あれはやっちゃいけなさを表現してるのか!」と妙に納得してしまった。
祭りとはそもそもそういうものだ。たとえば銭湯でお湯をじゃぶじゃぶ浴びて小さな喜びを感じているのも小さな小さな祭りである。日常の制限を破り欲望を解き放つ瞬間だ。
なにも何月の第何週とかに神輿をかつぐだけがお祭りなわけではない。日常を生きるにおいて、小さな祭りはここにもあそこにもある。
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