実際には影響がないのに感じてしまうことってある
あるお店でご飯を食べようという時。僕の前に頼んだものが提供され、その写真を撮った。
撮っていると定員さんが来て「すみません、間違えました」と言って別の席へそれを持って行った。
悪いことをしちゃった気がして引っ掛かっていたので、編集担当の橋田さんに話した。
筆者(トルー):なんか悪いことしちゃったなと思って。僕が写真を撮ったご飯が別の方に渡ってしまって
橋田:まだ手をつけてなかったんでしょ? 大丈夫じゃないですか?
トルー:なんかほら、写真を撮ったご飯って味が落ちる感じがしません?
橋田:ん?
トルー:いや、実際には落ちないんですけど、そんな気がするっていうか
橋田:撮ってる間に冷めちゃうってこと?
トルー:いやいや、時間は関係なくて、撮ったことで何かがちょっと減ったというか
ほら、昔の人も写真撮られると魂抜かれるとか言っていたらしいじゃないですか
橋田:スピリチュアルな話?
トルー:スピリチュアルなのかな…?
この後「テレビのリモコン向けられるとなんか気分悪いじゃないですか」とか「指紋認証する時、自分がちょっと減ってる感じしません?」などの例を出して説得しようと思ったが、余計に形勢が悪くなりそうなのでやめた。
こういう、実際には影響がないのに感じてしまうことってある。あるのだ。きっと。誰しも。
橋田さんに「そういう記事を書いてもいいですか?」と聞いたら「好きそうだね」と言ってくれたので書くことにした。
現時点で誰にも共感を得られていないが、逆にそれも良い。進めてみよう。
撮るお刺身と撮らないお刺身
写真を撮られた食べ物は味が落ちる気がする。
これを確かめてみよう。
味に変化が出やすそうなのでお刺身を選んだ。マグロが一切れ。甘エビが二つ。
全く同じように盛り付けた皿がもう一つある。これから片方のお刺身の写真をたくさん撮る。これでもかというぐらい撮って、撮っていないお刺身と食べ比べてみよう。
撮らないお刺身の方がおいしかったら成功だ。
撮らないお刺身は皆さんに示しようがないが、確かに用意してある。写真以外の条件が変わらないよう、撮るお刺身の近くで待ってもらっている。
撮影タイム
では、撮るお刺身の写真を撮る。
楽しくなってきた。お皿を変えたり背景を変えたりしたくなるが、触ったり移動させることでお刺身に負担がかかるだろう。
純粋に写真を撮られることによる変化を知りたいので、そういった負担がかかるような写真は避けた。
フラッシュも一回だけにした。強い光による負担がありそうなので。
食べ比べよう
こんな感じで写真を20分ほど撮り続けた。数は73枚。これだけやれば、撮るお刺身に何らかの影響が出ただろう。
食べ比べてみよう。
せっかくなので先入観なしで食べたい。こんな方法を考えた。
「魂あり」がおいしいはずの撮らなかったお刺身、「魂なし」がおいしくないはずの撮ったお刺身だ。
二つしかないので念入りに動かした。目をつぶってなるべく何も考えないようにしながら、皿の左右を入れ替える。
これで準備ができた。食べてみる。
何とこれ、明確に違いがあった。食べた時のメモにこうある。
生命力がある?
ハリ?
甘エビもプリプリしてないか?
ねっとりもしている
「左の皿」から、海鮮を褒める時のワードが続々と出てくる。
左右交互に一切れずつ食べ、第一印象に引っ張られないよう必死でフラットに味わったが、毎回左の方がおいしく感じたのだ。
やっぱりか。写真を撮られていないからか。やっぱりそうじゃんか。
撮られた方は何か大事なものが減ったか損なったかして、それがお刺身の味や食感に影響を及ぼしているのだ。
答えを見てみよう。
左の皿が! 撮られていないお刺身、つまり「魂あり」のお刺身です!
何だったのか
僕がおいしいと感じたのは写真を撮った方のお刺身だった。
この結果は何を示しているのか。考えられる説はこんな感じだろうか。
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お刺身は写真を撮られることで気分が上がっておいしくなった
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僕の方が写真を撮ることで「撮るお刺身」に愛着がわき、そちらをおいしく感じるようになった
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お刺身の状態は撮影によって変わっていない。本当にたまたま左の皿のお刺身がおいしいものだった
個人的には上2つの説が補強しあって今回の結果を生んだと思いたい。
農作物に話しかけたり、パン生地にクラシック音楽を聴かせたりする時と同じような効果が出たのだと思う。
「何となくそんな気がする」という事象を確かめていたら、正反対の「そんな気がする」にぶつかってしまったのだ。
しかし、だからと言って「写真を撮るとおいしくなる」ってわけでもないだろう。僕は何も主張できない。
残ったのは73枚のお刺身の写真である。
これだけの画像を残させてもらって、お刺身は何も損なっていないっていうのはすごいことですね。

