空掘を巡らせて敵を阻む土の城
一般的に城というと堅牢な石垣や荘厳な天守がそびえる姿を思い浮かべるかもしれない。だがそのような石の城は近世のものであり、中世の頃は石垣を用いない土の城が基本であった。
中世の城は山の上や台地の縁など攻め込まれにくい地形を利用して築かれており、曲輪(くるわ、城の各区画)を堀で囲んだり、山の尾根を分断するなどして敵の侵入を阻んでいた。
このような空堀を城内に巡らすことで敵を足止めし、また侵入経路を限定することで堀の内部に入ってきた敵を上部の曲輪から弓矢で一網打尽にできるというワケである。
南九州においてもそのような基本理念は同じなのだが、シラス台地に築かれた中世城郭は他地域のそれとは様相が大きく異なる。まぁ、見て頂くのが早いだろう。
侵入すること自体が恐ろしい「清色城」
最初に紹介するのは鹿児島県の北西部、薩摩川内市の入来(いりき)にある「清色(きよしき)城」である。ここはホント、城内に入ること自体が恐ろしい城である。
火山灰が堆積してできたシラス台地は、もろくて風化しやすいという特徴がある。逆に言えば人の手でも比較的簡単に掘ることができ、このような大規模な堀切を作りやすいということでもある。
またシラス台地は水に侵食されやすく、他地域の城のようなV字型の堀だと雨で土砂が流れてしまう。垂直に近い方が水に対して安定するので、必然的に絶壁にせざるを得ないのだ。
垂直に近い断崖に囲まれていては、台地上の曲輪までよじ登ることは不可能だ。清色城を攻略するにはこの狭い通路を進まなければならず、侵入を試みた途端に上から弓矢やら投石やらでやられてしまうことだろう。まっこと恐ろしい城である。
このように、清色城はシラス台地の地質的な特徴を巧みに利用した城となっている。清色城のみならずシラス台地が広がる南九州の中世城郭はいずれも共通した特徴を持つことから「南九州型城郭」と呼ばれている。
織田信長の安土城をはじめ、近世の城郭は城主を頂点とし、その麓に家臣を住まわせるという、主従関係がハッキリした構造となっている。中世の山城でも山頂から雛壇状の曲輪を設けることで序列を作ることは可能だ。
しかしながら、南九州型城郭は同じくらいの高さの曲輪が並存しており、しかもそれぞれが空堀によって分断された独立性の高い構造となっている。これは城主と家臣に絶対的な主従関係がなく、いわば横並びであったことを示しているのだ。城の構造から当時の薩摩国における武士の実情が垣間見れて、とても面白いですな。
江戸時代に入ると一国一城令により薩摩国では鹿児島城以外の城が廃止となったものの、家臣たちは鹿児島城下に集住することなく(というかあまりに武士が多すぎて鹿児島城下に集住させられず)、各城跡の麓に住み続けて地域の統治を行っていた。
入来においても清色城跡の麓に統治拠点の「地頭仮屋(じとうかりや)」が置かれ、その周囲に武家町が形成されている。
このような薩摩藩独特の統治形態は「外城(とじょう)制」と呼ばれ、現在も鹿児島県の各地に「麓(ふもと)」と呼ばれる武家町が残っている。入来の麓にもかつての武家町の風情を残す町並みが現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)に選定されている。
四つの城域から構成される「志布志城」
二箇所目は鹿児島県の東部に位置する志布志(しぶし)市の志布志城だ。志布志は古くより港町として知られており、江戸時代には琉球を介した清との密貿易により「志布志千軒町」とうたわれるほどの繁栄を見せていた。
志布志城は港を囲むように連なるシラス台地上に築かれた「内城」「松尾城」「高城」「新城」の四つの城域の総称であり、それらの中でも特に壮大な縄張を有しているのが「内城」だ。
この内城をはじめ、四つもの城域が隣接していたのだから凄いものだ。志布志城の広大さと共に、港町としての重要性がうかがえるというものである。
現在、「高城」と「新城」は志布志中学校の敷地になっているので立ち入りできないが、「内城」と「松尾城」は登ることが可能である。そのうち特に南九州型城郭の特徴を見せる「内城」の様子を紹介しよう。
この大手口(城の表口)には民家があったらしく、コンクリートの壁が残っているので狭く見えるが、清色城の入口よりは幅がある感じだ(民家を築く際に壁面を削って拡張したのかもしれない)。
もっとも、このすぐ先で通路が狭まっているので、敵軍が城内になだれこむことはできず、右上部の曲輪から放たれる矢弾の餌食になること間違いない。あぁ、恐ろしや、恐ろしや。
おぉ、実に鋭く切られた堀切ではないか。下部が土に埋もれているように見えるのは、おそらく何度かに渡って堀切の壁が崩落したためだろう。かつてはより深く、狭かったに違いない。
搦手口から本丸背後の空堀を進んでいくと、ほどなくして志布志城における最大の見どころ「大空堀」にたどり着いた。
現在でも高さ約17mと十分に大きな空堀であるが、当時はさらに7mほど深かったというから驚きだ。
あまりに大きい堀なので最初は流水が築いた浸食谷かと思ったが、中央部が最も窪んでいるなど自然の地形にしては不自然である。これもまた人工的に掘り込まれたものなのだ。
――という感じで大手口から本丸、搦手口、大空堀まで周ることができたが、これら以外の曲輪や堀は未整備のようで、草に覆われていて散策は難しい感じであった。今後の整備に期待である。
志布志城もまた一国一城令で廃城となったものの、内城の南側(現在の志布志中学校)に地頭仮屋が置かれ、その周囲に麓の武家町が形成された。
現在に残る町並みは重伝建でこそないものの武家町の風情を残しており、三箇所の武家屋敷庭園が国の名勝に指定されている。
広大な規模を誇る南九州型城郭の代表格「知覧城」
最後は薩摩半島の南部に位置する南さつま市の知覧城だ。知覧といえば太平洋戦争末期に特攻隊の基地が置かれた悲しい歴史で有名だが、知覧城および麓の武家町が存在する地域拠点でもある。
この写真だと山間部を車道が通っているだけのように見えるかもしれないが、この写真に見える山はすべて知覧城の一部である。右側に見える山塊が知覧城の中核部を構成する曲輪群で、左側や奥に見える山はそれを取り囲む曲輪なのだ。
知覧城は雨水が作り出した浸食谷を空堀として利用しており、特に規模が大きく南九州型城郭の代表格と評されている。
あまりに堀が広いので清色城や志布志城のような圧迫感は少ないが、これだけ広大な城郭ということはそれだけ多くの兵を収容できるということだ。
谷間に入り込んだ途端に見張りの兵士に見つかり、たちまち全方位から矢が飛んでくることだろう。台地上の曲輪にたどり着く前に討たれること必至だ。
一般的に土塁は土を盛り固めて築くものだ。しかしながら知覧城では曲輪の縁を残しつつ、その内側を掘り下げることで土塁を築いている。掘りやすいシラス台地ならではの、削り出しの土塁なのだ。
なお、知覧の武家町は城の麓ではなく北へ3kmほど離れた川沿いに位置している。これは知覧城が廃城になった後に集落を移転したためだ。現存する町並みは江戸時代中期に整備されたもので、重伝建に選定されており全国的にも有名だ。
加世田と出水にもある麓の武家町
なお薩摩半島の南西部に位置する加世田(かせだ)、および鹿児島県の北西端に位置する出水(いずみ)にも重伝建に選定されている麓の武家町が存在するので、併せて紹介しよう。
侵入者の視点で見るとあまりに恐ろしい南九州型城郭
今回は鹿児島県にある三箇所の南九州型城郭と麓の武家町を紹介させて頂いた。シラス台地の特性を利用して築かれた断崖絶壁の山城は、敵を寄せ付けない迫力があるものだ。
侵入者の視点で城内を歩いてみると、常に高所を取られるため、まったくもって生きた心地がしない。また深く狭い空堀は薄暗く、そういう意味でもちょっと怖い雰囲気だ。
なお南九州型城郭は鹿児島県のみならず、シラス台地が広がる宮崎県や熊本県にも存在する。普通の城とはちょっと違う、迫力ある土の城が見たければ、南九州型城郭がオススメだ。