文豪エッセイ 2021年11月23日

しるこ

久保田万太郎君の「しるこ」のことを書いているのを見、僕もまた「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。


震災以来の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶ってしまった。その代わりにどこもカフェだらけである。僕等はもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛った「おきな」を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少からぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にもやはり少からぬ損失である。

それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飲ませるカフェでもあれば、まだ僕等は仕合せであろう。が、こう云う珈琲を飲むことも現在ではちょっと不可能である。僕はその為にも「しるこ」屋のないことを情けないことの一つに数えざるを得ない。

「しるこ」は西洋料理や支那料理と一緒に東京の「しるこ」を第一としている。(あるいは「していた」と言はなければならぬ。)

しかもまだ紅毛人たちは「しるこ」の味を知っていない。若し一度知ったとすれば、「しるこ」もまたあるいは麻雀のように世界を風靡しないとも限らないのである。帝國ホテルや精養軒のマネージャー諸君は何かの機会に紅毛人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るが善い。

彼等は天ぷらを愛するように「しるこ」をも必ず――愛するかどうかは多少の疑問はあるにもせよ、とにかく一応はすすめて見る価値のあることだけは確かであろう。

僕は今もペンを持つたまま、はるかにニューヨークのあるクラブに紅毛人の男女が七八人、一椀の「しるこ」を啜りながら、チャーリー・チャップリンの離婚問題か何かを話している光景を想像している。それからまたパリのあるカフェにやはり紅毛人の画家が一人、一椀の「しるこ」を啜りながら、――こんな想像をすることは閑人の仕事に相違ない。

しかしあの逞しいムッソリーニも一椀の「しるこ」を啜りながら、天下の大勢を考えているのはとにかく想像するだけでも愉快であろう。

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注:

梅園:いまも浅草にある店のことだと思う。デイリーポータルZでもたびたび登場。
おきな:翁しるこという白あんを使ったおしるこのことらしい
チャップリンの離婚問題:チャップリンは1927年1月に離婚訴訟を起こされて世界的なニュースになっていたらしい
ムッソリーニ:1922年からイタリアで首相

この作品は青空文庫収録「しるこ」(芥川龍之介)を元に、旧かな遣い・旧漢字を変更しデイリーポータルZのデザインで読みやすいように改行を追加しました。
元ファイルの情報です
底本:「芥川龍之介全集 第九卷」岩波書店
   1978(昭和53)年4月24日初版発行
   1983(昭和58)年1月20日第2刷発行
初出:「スヰート 第二卷第三號」明治製菓株式會社
   1927(昭和2)年6月15日
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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