木曽岬境港を見に行った
さて、日本に2箇所しかない「登山せず歩いて行けるセキュリティーホール県境」のもう1か所はどこか? それは愛知県と三重県の県境にある。木曽岬境港だ。
実際に現地に行ってみた。
とにかく、だだっ広い、いかにも「干拓地」といった風情の農地が広がる中を行くと、木曽岬境港が見えてきた。
ここかー、セキュリティーホール県境。と感慨深くなったので、写真を1枚撮っておく。
写真を撮影している位置としては、まだ愛知県の中にいることになっている。
この道路をずーっと真っ直ぐ進むと、県境を越えないのに三重県に侵入してしまう。
もはや県境を超えた移動で怒り出す人は居ないと思うが、ここだけは県境を越えずに県を越えた移動ができる。まさにセキュリティーホール県境である。
地図で見ると、三重県側の港が木曽岬境港、愛知県川の港は鍋田川境港となっており、名称が違うらしい。
おそらく、実質的な境界は真ん中のラインではあるんだろうけれど、なぜこの部分だけ境界が未定なのかはよく分かっていない。
セキュリティーホール県境の前後にある県境ラインは鍋田川という川に沿っているが、この川は、かつては今よりも大きな川だった。
川の上の県境は、概ね川の中心線に沿って引かれるというのが原則のようだが、澪筋といって船の通り道にそって境界が引かれることもあり、これが正解といったものはない。ケースバイケースで決まっているらしい。
三重県木曽岬町は現在、愛知県弥富市とほぼ陸続きで接している一方、木曽川を挟んで、三重県桑名市とは離れて存在している。
鍋田川は、1959(昭和34)年の伊勢湾台風までは木曽川のおおきな支流ではあったものの、伊勢湾台風以降、川は埋め立てられ、小さな用水路しか残っていない。
木曽岬町は、村だった1956(昭和31)年に愛知県の弥富町(現・弥富市)との越境合併を村議会で決議したことがある。
しかし、これは村を二分する大論争に発展し、議会が解散するなど大いに揉めた。1959(昭和34)年8月に越境合併は見送られ、紛争が解決したが、その1ヶ月ほど後に伊勢湾台風の被害に遭っている。
伊勢湾台風復興住宅を見る
セキュリティーホール県境の愛知県側、鍋田川境港のすぐとなりに、鍋田干拓という集落がある。
もともと、鍋田干拓のあたりは江戸時代には干拓が行われ、農地が作られていたものの、高潮の被害により明治時代にはすべて水没してしまっていた。
戦後、食料増産の政策がとられ、鍋田干拓も再び干拓を始めることになり、1958(昭和33)年には整地や土地改良などが進み、1959(昭和34)年に164戸330人あまりが入植した。
しかし、その年の9月26日に伊勢湾台風が襲来、干拓地は推定7メートル以上にも達する高潮の被害に遭う。海岸堤防のほとんどは決壊し、入植者の4割にものぼる133人の犠牲者が出た。
水浸しになってしまった干拓地は、その後4ヶ月にわたって水が引かなかったという。
大きな被害を受けた鍋田干拓だったが、被災後、コンクリートブロックによる3階建の「伊勢湾台風復興住宅」という住戸が建てられた。
その時に建設された復興住宅が、今もいくつか集落に残っている。
復興住宅は1階が納屋や物置、2階部分が住居で、3階が普段は子供部屋として使い、水害時には避難するために使う部屋だという。
輪中にあったといわれる「水屋」の発想に近いかもしれない。
伊勢湾台風復興住宅は、東京工業大学の勝田千利(かつたちとし)氏が中心となって設計したもので、同じようなコンクリートブロックによる耐水害を考慮した建築物は、愛知県碧南市の川口干拓、西尾市の平坂干拓、三重県桑名市の城南干拓などにも存在しているものの、現存数や資料が豊富なのは鍋田干拓だという。
これらの復興住宅は、老朽化により年々取り壊されて減っているらしい。伊勢湾台風から、どのように復興したのかを示す貴重な資料でもあるので、なんらかの形で保存されるものがあればいいのにとは思う。
参考資料
『令和4年全国都道府県市区町村別面積調』国土交通省・国土地理院
『「伊勢湾台風復興住宅」の建築デザインに関する史的研究』堀田典裕
『戦後愛知県鍋田干拓調査報告』森武麿・齊藤俊江・向山敦子
ここから
会員特典コンテンツです
この先は「デイリーポータルZをはげます会」会員向けの有料コンテンツです。会員になるとごらんいただけます。


