実はけっこう見どころが多い柏原
読み方さえおぼつかなかった柏原、ほんの数時間観光しただけだったが、織田家ゆかりの城下町で、田ステ女の故郷であり、木の根橋がある。ということはわかった。
実は他にも、三重塔のある柏原八幡宮や、たんば黎明館(元女子校の木造洋風建築)、太鼓櫓(登城の時間を知らせるために叩く太鼓があった)など、紹介しきれなかった物件も多い。
とにかく、まずは知れてよかった。最高気温、ありがとう。
さて、もう一つの謎。織田家について。
これは、歴史民俗資料館の方を見学してわかったのだが、江戸時代の柏原は、柏原藩という藩で織田信長の子孫である織田家が治めていた……ということらしい。
柏原藩の織田家は、前期と後期にわかれている。
前期は信長の弟だった織田信包(のぶかね)が1598年に藩主に就任。それから三代続くものの、三代目の織田信勝には跡継ぎがおらず、いわゆる無嗣改易(むしかいえき・跡継ぎがいない場合はお家お取り潰しという決まり)で1650年に廃藩となっている。
ところがその後1695年に、今度は信長の次男、織田信雄(のぶかつ・のぶお)の子孫である織田信休(のぶやす)が、大和松山藩(奈良県宇陀市)から転封されて柏原藩主に就任した。信休からはそのまま幕末まで織田家が柏原藩主として続き、明治維新を迎えた。
柏原藩は2万石ほどの小さい藩だったので、天守閣のあるような城はなく「陣屋」という館のような居館しか持たなかった。現在残っている陣屋の建物は、1820年に再建されたものの一部だ。
駅から歴史民俗資料館までの町並みは、小さいながらも、古い城下町(といっても、城ではなく陣屋だが)の雰囲気が確かにあった。そして、陣屋跡近くに、今でも県や国税局、法務局などの出先機関が集中しているのも、そういった理由からだと思われる。
柏原は廃藩置県のさい、藩がそのまま県となっていたごく短い期間に柏原県となったが、その後、豊岡県に編入され1876年の府県統合で兵庫県になった。
続いて、木なのか根なのか橋なのかよくわからない木の根橋に行ってみた。
木の根橋は柏原の陣屋があった中心部から少し離れたところにある。
木の根橋、これはこの木の根元をみたらすぐに意味がわかった。
大きなけやきの木だが、奇形した根っこが川をまたいでいる。こりゃ確かに「木の根の橋だわー」となる。
案内板によると、この木は樹齢は1000年ほどあるらしく、昔から柏原のシンボルとして親しまれてきた。
この木の根橋のすぐ横にある観光案内所に、暑さ日本一をピーアールするのぼりが立っていた。
まさか6日で伊勢崎に抜かれるとは思わなかったとはいえ、ちょっと気の毒な気がする。
もちろん、発注してから出来上がるまで時間がかかっただろうから、場合によっては記録を抜かれてから掲げている可能性もある。
のぼりについて観光案内所のおじさんに話を聞いてみた。
――表の最高気温日本一ののぼりは7月30日に記録してすぐ発注したんですか?
おじさん「あぁ、あれはね、すぐ発注して8月3日にはきたんだよ」
――あ、じゃあちょっと間に合いましたね。よかった。
おじさん「木の根橋の写真は、7月30日のその日の写真でね。上のオレンジ色は秋の紅葉や大納言小豆の色も表してんだよ」
――凝ってますね。
おじさん「のぼりはね、もう日本一の記録は抜かれちゃったから、取り外せっていう人もいるかもしれないけど、この道を通学路にしてる子供たちに、柏原が日本一になったことがあるんだっていうアピールのためにね、このまま出しておくつもり」
――まあ、日本一になったことがあるんだから、間違いではないですよね。
おじさん「今回のおかげで、この柏原の町のことと読み方を知ってもらえてよかったよ。今、高校野球で大阪の柏原(かしわら)の高校が出てるでしょう。そこでも柏原(かいばら)とは違うって話してたし」
――すぐ抜かれてしまったのはあれですけど、全国区で町の名前知ってもらえたのは大きかったですね。
読み方さえおぼつかなかった柏原、ほんの数時間観光しただけだったが、織田家ゆかりの城下町で、田ステ女の故郷であり、木の根橋がある。ということはわかった。
実は他にも、三重塔のある柏原八幡宮や、たんば黎明館(元女子校の木造洋風建築)、太鼓櫓(登城の時間を知らせるために叩く太鼓があった)など、紹介しきれなかった物件も多い。
とにかく、まずは知れてよかった。最高気温、ありがとう。
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