国分寺を建てるため開削された逆川
私が逆川を知ったきっかけは、海老名駅から東へ続く幹線道路、県道40号線沿いに立っている石碑である。
気になったので調べてみると、なんでも逆川は人の手で掘られた川、すなわち運河であるという。
海老名市東側の台地を流れる目久尻川(めくじりがわ)から分水した逆川は、この石碑の位置で進路を北西へと変える。
通常この地域の川は北から南へ流れるのに対し、南から北へ逆流するように見えることから逆川と呼ばれるようになったのだ。
逆川は東の目久尻川から南下し、途中で進路を北西に変える
奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」によって、全国に国分寺と国分尼寺が築かれた。
逆川は相模国分寺・国分尼寺の造営に伴い開削された運河であり、それらの建築資材を船で運んでいたと考えられている。
これは余談であるが、一般的に国分寺は国府(国を統治する役所)の近くに置かれることが多い。しかしながら相模国は例外で海沿いにあったとされる相模国府から離れた内陸部に国分寺が存在する。
その理由は様々考えられるそうだが、河岸段丘の縁に位置するので遠くからでも見ることができる、高台で水害がない上に十分な広さを確保することができる、すぐ側に水田として利用できる相模川沿いの低地が広がっている、などが挙げられている。
国分寺造営後も逆川は平安時代中頃まで運河として利用されていたそうだ。また逆川の水は農業用水としても利用され、開削以降長年に渡り流域の田畑を潤し続けてきた。