ちょっと聞いてよ 2023年2月16日

海老名市の「逆川」は奈良時代に築かれた運河の跡

逆川の流路をたどってみる

今でこそ埋め立てられている逆川であるが、昭和40年代までは水が流れていたという。昔の地図を見ると確かに流路が確認できるので、その跡をたどってみようではないか。

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目久尻川のこの辺りを堰き止めて逆川を分流していたようだが痕跡はない
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――が、途中から水路として逆川の流路が確認できた
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水路は暗渠となって、最初の石碑がある場所へと南下していく
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石碑の場所で逆川は大きくカーブを描き、北西へと進路を変える
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この先の流路は完全に埋められているが、この二つの道路の間を通っていたようだ
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逆川の流路をそのまま利用したと思われる公園もある

現在この区間は緩やかな上り坂となっている。だが逆川が存在した頃は極めて深く掘り込まれ、国分寺の方向(写真奥)に向かって水が流れていたはずだ。

標高を調べてみると石碑の辺りは約31m、現在の逆川跡で一番高いところは約38mなので、そこでは今より少なくとも7mは深かったはずである。逆川の両岸は断崖のようになっていたことだろう。

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高台から見ると流路は低く見えるが、かつてはさらにずっと深く掘り込まれていた

これほどのものを奈良時代にすべて人の手で掘っていたのだから、その労力は多大なものだったに違いない。

そんなことを思いながら流路をたどっていくと、相模国分寺のすぐ側にまで来た。

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流路が最も国分寺に接近する箇所(車道の左側が国分寺跡)には――
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逆川の痕跡が水路として残っている
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逆川の流路はさらに左奥の路地へと続いていく
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くねくねと曲がっており、いかにも水路の跡といった雰囲気だ
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この擬木柱が立つ場所からは、逆川へ降りる階段が見つかっている

ここで発見された階段は、以前は船着き場の跡ではないかと考えられていた。しかし最近の研究によると、単に逆川を横切るための道なのではないかと言われている。

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その先で逆川の流路は途切れた
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それにしてもこの高低差、人工的に掘り込まれた水路であることがよく分かる

逆川の跡はここをカーブして西の低地へ向かっているが、これは江戸時代に用水路として変更された流路である。古代の逆川はここからさらに北へと伸び、相模国分尼寺の近くを通ってから西の低地へと流れていたようだ。

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現在の国分尼寺跡は国分寺跡ほど整備されておらず、庚申塔を祀るお堂が建つ
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流路の近くには「浅井の水」と呼ばれる泉もある(冬は水量が減るらしく涸れていた)

逆川をたどって感じる古代のロマン

今でこそ交通は陸路が主流であるが、古代の頃は陸路が十分に整備されておらず、特に物資の輸送は船での方が圧倒的に効率良かった。だからこそ多大な労力を使ってでも逆川を通したわけだ。

その流路をたどることで、遥か奈良時代から現在へと至る、地続きの歴史ロマンを体感できるというものである。

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逆川の流路沿いにあった、切株の中に祀られているお地蔵さん
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