おぉ、良いじゃない、樫原の棚田。
ぐねぐねと曲がりくねった畦に縁取られ、張られた水が光を反射して空を映し出している。奥が先細った二等辺三角形型に連なる棚田が、濃い緑色の山々を背景に、まるで閉じられた一つの島のように浮かんでいる。
幾何学的ではなく有機的。非常に生物的な形状を成す棚田である。何か凄く、神秘的な光景だ。
ちなみに、この樫原の棚田。割と全国的にその名が知られている棚田ということもあり、私以外の訪問客も数組いた(皆、車で来ているようであったが)。
しかしながらどの人たちも、今私が紹介した部分(下樫原地区)の棚田だけを眺めた後、車をUターンさせて山を下りて行ってしまう。え?樫原の棚田ってこれで終わりなの?
いやいや、そんなはずは無い。樫原は上勝町で最大規模の棚田が広がる集落だというではないか。確かに、下樫原地区の棚田は素晴らしいが、それだけの面積で、樫原の棚田全てという事は無いだろう。まだ、奥があるはずだ。
やっぱりそうだ。樫原の棚田にはまだ続きがあった。しかし大多数の訪問客は、下樫原地区の棚田だけを見て、満足して帰ってしまっている。う~ん、なんてもったいないんだ。
確かに、今しがた見てきた下樫原地区は、樫原の棚田を紹介する際に必ず使われる代表的な景観だ。私も思わず、幅640ピクセルの巨大な画像を、3枚も提示してしまった。
しかし、それはあくまで樫原の棚田の一部分。それが全てという事では無い。せっかく山道歩いて遥々ここまで来たのだから、下樫原地区のみならず、中樫原地区や上樫原地区も見て帰る事にしようではないか。そうだ、それが良い。
ちなみに、この樫原の棚田が拓かれたのは、江戸時代初期の頃である。それから今に至るまで、この棚田は集落の人々に利用され、守られて来た。その水田の総数は、546枚。
なお、江戸時代における樫原の棚田の様子は、文化10年(1813年)に描かれた「勝浦郡樫原村分間絵図」に記録されている。しかも驚くべきことに、その絵図は現在の樫原の棚田と、ほとんど変わっていないのだ。
これはすなわち、土地利用の形態が200年間変わっていないという事、江戸時代と変わらぬ景観が残る棚田であるという事である。その点でも、樫原の棚田には高い価値がある。
さて、さらに集落を登って行くと、棚田の勾配もまた徐々にきつくなってきた。その分、田一枚一枚の面積が減り、より密集した棚田の景観へと変化して行く。棚田の用途も、水田ではなく普通の畑として使われる箇所が多くなった。
また、この辺りには古い草葺の家屋も多々見られ(残念ながらどの家の屋根もトタンで覆われているが)、下樫原地区とはまた一味違った雰囲気の棚田景観となっている。
いやぁ、良い眺めだ。眼下に映るのは、樫原の棚田と家屋、それと連なる山々のみ。谷下や他の集落は深い木々に覆われて視界に入らず、この広い山の中、人が住む集落は樫原しか存在しないかのようである。
ここに来るまで、下樫原地区から結構な距離を登ってきたが、その労力に見合うだけの成果は十分に得られたと言えるだろう。いやはや、良い棚田であった。