「扇塚」「筆塚」もあった
本法寺さんの境内には、「扇塚」と「筆塚」もありました。いろんな塚の宝庫です。
こういう道具類の塚は他の寺院にもよくあり、有名な歌人や画家、演芸に携わる人をたたえた記念碑であることが多いです。スポーツ選手のユニフォームを飾るみたいな感じでしょうか。
それと比べると、やはり「はなし塚」って異質やなあと思いました。
参考図書:小島貞ニ編著『禁演落語』(2002年、筑摩書房)
東京には、太平洋戦争のときに禁じられた落語の演目が葬られた塚があるらしい...私が大学時代にやったネタも弔われていたようです。というか、落語研究部員がやってたネタだらけです。
いざお参りに行きましょう。
私は大学時代、落語研究部におりました。
部室で『AKIRA』読んだり、ボードゲームに興じたりと文化部らしいダラダラも一通りやりましたが、コンスタントに寄席があったので、たくさんネタを覚えました。(もちろんその分たくさんスベりました。)
どういう風にネタを覚えるかというと、伝授してくれる師匠がいるわけではないので、落語番組を録画したDVDとか、市販のCDをもとにセリフを書き起こしてました。「落語ってこんなインディーズでええんや」と最初はびっくりしたものです。
ネットのサイトでセリフを確認することもあり、そのネットサーフィンの際に、
なんでも、「かつて53の落語が葬られた塚」だそう。
虫塚など、人以外を供養するお墓は聞いたことがありますが、形のない落語のお墓とは一体どういうことでしょうか。
調べてみたところ、この塚には「禁演落語」が供養されたそうです。
昭和15(1940)年、太平洋戦争の前夜、日本ではだんだんと芸能の世界で「自粛」が叫ばれていました。
東京の落語界は、昭和16(1941)年に遊郭やお酒、浮気などに関係する53ものネタを「禁演落語」として演じないことを決めたのです。「戦時中にけしからん」と思われそうな内容のお話を自ら禁じたわけですね。
それらのネタを供養するために、浅草の本法寺に「はなし塚」を建てたとのこと。
「自然に忘れ去られたネタを弔った」のではなく、「ご時世に合わないネタを封印した」ようです。
私は大阪の落語研究部で上方落語をやっていたので、この東京の落語の歴史については全然知りませんでした。
YouTubeでネタを覚えていたとはいえ、私も演者のはしくれです。サークルもとっくに引退してしまいましたが、自由にネタを選べる今の世の中に感謝するため、いざお参りにいきましょう。
はなし塚のある本法寺さんは、銀座線田原町駅のほど近い場所に位置します。
往来のはげしい浅草通りからちょっと南に折れただけなのに、とても落ち着いた雰囲気です。
私は江戸落語に詳しくないのですが、「古今亭志ん生」や「三遊亭圓生」など、知ってる名前ばかりです。
左上あたりの「落語協会」は、戦時中「講談落語協会」という団体でした。
この「講談落語協会」の落語評論家・野村無名庵先生を中心に、石玉垣の真ん中上あたりの「小咄を作る会」や「落語研究会」が協力して、禁演落語を選んでいったらしいです。
つまり、落語関係の人が選んでいったわけです。ということは、「このネタ面白いのに・・・」とか「あの人のオハコを封印したくない」とか考えて、相当選ぶのがきつかったはずです。
あと落語のネタって、人間臭い人たちが俗っぽいことをやるものばかりです。例えば「だらしないお酒の話は全部ダメ」という基準を設けると、大量に封印しないといけません。どう線引きをするかが悩みどころだったでしょう。
本法寺さんの境内には、きになる社殿や塚がいくつか並んでいます。
このお稲荷さんのすぐ近くに、
立て札によると、塚には禁止となった落語の台本などが埋められたそうです。
1941年、ここに弔われた「禁演落語」はこれら53種です。
「こんなにたくさん封印されたのか」と驚きです。
落語をあまり見ない方は知らないネタばかりだと思いますが、ツヤっぽいネタや、男女のいざこざ、親不孝なシーン出てくる噺が中心です。
中には、「品川心中」や「宮戸川」など今でも人気の落語も多数あります。
これらのネタは現在復活しており、堂々と演じることができます。終戦後の1946年9月13日、禁演落語の復活祭が行われたそうです。「落語」という実体のないものが、土からでてきたような気がして不思議です。
優しくしていただき本当にありがとうございます。貧乏旅行だったので、お茶とお菓子はたいへん助かりました。
さて、自粛された53の落語を見てみると、大学落研が好む演目がかなり入っていました。
「大学生がやってるの見たことある」のを列挙してみると、
22もありました。半分くらいって感じですね。
やっぱ、男女のいざこざって派手だし面白いので、遊郭でのドタバタや浮気を題材にしたものは落研に人気なのです。
特に、年上の奥さんと若い男が浮気して、旦那にバレそうになる「紙入れ」などは女子部員が好んで演じてました。キャラの濃い女性や子どもが出てくる落語は、女子が得意としてた思い出があります。(私はどちらも下手だった)
あと、バカバカしすぎるネタも大学落研の大好物です。
フンドシしめ忘れた男が、下半身丸出しでいなせに舞台番をやる「蛙茶番」は、2つ上の先輩がトリでやってました。落語は話で想像させる演芸なので、モロ出しの人物が出てきても大丈夫なのがいいですね。
大学落研ですらネタを封印されたらたまったもんじゃないのに、当時の落語家は死活問題だったと思います。ほんと演目が復活してよかったです。
禁演落語の中でも、「後生鰻」はブラックすぎて自粛となった異色作です。
ある日、鰻屋が店頭でウナギをキリで刺そうとすると、信心深いご隠居が「殺生はいけない」と言って、生きたウナギを買取り河にボチャーンと放流した。
「これは儲かる」とにらんだ鰻屋は、ご隠居が通るたびウナギを刺そうとする様を見せ、毎度毎度買い取らせていった。ご隠居は毎度毎度ウナギを河に帰してやった。
そんなある日、店頭にウナギがない時に、ご隠居が店の前を通りかかった。焦った鰻屋は「生きていたらなんでもいい」と、自分の赤ん坊をまな板にのせて、キリで突こうとするそぶりを見せた。
その様子を見たご隠居はびっくりして、今すぐやめさせるために、赤ん坊を買取り、いつもと同じようにボチャーンと河に帰した・・・
構成はよくできているのですが、いかんせん刺激の強いネタです。
私は2回生だった当時、結構なペースで落語がスベっていました。
錯乱して、「ダークなほうがええんかな」と選んだのが、この「後生鰻」です(上方では「淀川」という題名で、ご隠居ではなくお坊さんが河に放流する)。大ウケはしませんでしたが、悲鳴はあがりました。
近所の教会で落語をやるときには、「さすがにアカンか」と思って避けた記憶があります。
実は、戦後にも1947年GHQ占領下で再度「禁演落語」を指定して自粛した歴史があるようです。
今度は色っぽいネタは見逃されて、時代にそぐわないとされた仇討ちもの、残酷なものなど20種が自粛されました。
この中にも大学落研がやるような演目があります。
というか、「何でこれが?」みたいなのが目につきます。
例えば「桃太郎」は読み聞かせをする親子のほのぼの話です。うちの落研では1回生がはじめてやるネタの1つでした。
読んだ本によると、「桃太郎」のおとぎ話が好戦的だからか?と予想されていました。(確かに戦中はそういうカラーが濃い話だった。)
「寝床」も、浄瑠璃が壊滅的に下手な裕福な旦那が、いやがる人たちを集めて聞かせるという盛り上がるネタです。「立場が上の者が強制する」っていうのが民主主義に反するという理由でしょうか。
私は引退する最後の寄席でこの落語をやりました。旦那がワガママであればあるほど、周りの者が迷惑に思えば思うほどウケました。
そして、また後生鰻が入ってます。
1949年にこれら第二次禁演落語の復活祭があったようです。もちろん、今は堂々とやることができます。
本法寺さんの境内には、「扇塚」と「筆塚」もありました。いろんな塚の宝庫です。
こういう道具類の塚は他の寺院にもよくあり、有名な歌人や画家、演芸に携わる人をたたえた記念碑であることが多いです。スポーツ選手のユニフォームを飾るみたいな感じでしょうか。
それと比べると、やはり「はなし塚」って異質やなあと思いました。
参考図書:小島貞ニ編著『禁演落語』(2002年、筑摩書房)
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