親不知との戦いはまだ終わらない
わざわざ親不知までやって来て本当に良かった。ヘタレな僕は、これくらいやらないと駄目なのだ。気がかりなのは右下の親不知であるが、これは上の親不知を抜いた事でしばらくは大丈夫なはずだ。
それよりも更に気がかりなのが左下の親不知である。今回のレントゲンで明らかになったのだが、嫌な角度で生えているのだ。これを抜くのはちょっと大変らしい。ああ、困った。
糸魚川から10分ほどで歯医者さんに着いた。そういえば歯を磨いていなかったので、向かいの公園で歯を磨いた。
糸魚川に着いた時よりも雪が強くなっている。やはり水分が多く、傘をささないとびしょ濡れになってしまう。手が凍えてガタガタ震えるが、この震えは寒さだけのせいではない。これから歯を抜く事に怯えているのだ。
予約の時間よりも30分早く歯医者さんに入った。保険証を渡し、問診票を受け取る。「来院された理由」という項目が最初にあり、「歯が痛い、歯肉が痛い、かめない、つめものがとれた」などの選択肢が並んでいた。僕はどこにも当てはまらないので、「その他」の項目に「親不知を抜きたい」と書き込んだ。本当は「親不知で親不知を抜きたい」と書きたいところであったが、ふざけてると思われ痛くされたらたまらない。
問診票を戻し、5分も待たないうちに診察室に通された。予定よりも早い。気持ちの整理がつかないまま診察台に横になると、間もなく先生がやって来た。先生は問診票を見て東京から来た事に驚いている。親不知を抜きたい事と、この様子をネットに公開したい旨を伝えた。
「治療? 取材?」
と先生は困惑していたが、治療でもあり取材でもある事を丁寧に説明すると、最終的には了解してくれた。但し、病院と先生の名前を出さない事が条件である。
まず、僕の親不知の状態を確かめるためレントゲンを撮る事になった。僕を悩まし続けた親不知がどんな形をしているのか。親不知の歯医者さんでその全貌が明らかになるのだ。
レントゲンの結果、意外な事が分かった。右下の親不知が痛んでいたのは、その上の親不知が原因だったのだ。上の親不知が下の親不知に当たって痛かったのである。上の親不知を抜けば今までの様な痛みは消えるという。
「どうしますか? 抜きますか?」
先生がこちらを見てニヤッと笑った。
もちろん抜くつもりでここまでやって来た訳だが、正直、まだ覚悟を決める事が出来ない。一応、先生に相談してみよう。
「親不知とうまくつき合う、という選択肢はないですかね?」
「まあ、親不知をあえて残す人もいますが…」
「その方向で検討する事は出来ますか?」
「いやあ、住さんの場合は虫歯にもなっていますし、抜かないと駄目です」
やはり抜くしかないらしい。
よし、お願いします。と決心する前に、気付くと麻酔の注射を打たれていた。先生も忙しいのだ。うだうだ悩んでいる患者につき合っている暇はない。
歯茎に注射針がグイグイと食い込んできた。痛い事は痛いが耐えられない痛みではない。
背もたれを起され、麻酔が効くまで5分ほど待った。口の右側が痺れている。
そして、再び背もたれを倒された。ついに抜くのだ。先生の右手にはペンチ的なもが見える。あれで抜くのだ。歯茎の感覚がなくなっている事を確かめると、先生がペンチに力をこめた。ミシミシっと嫌な音が聞こえる。ああ、抜いてる。
抜いている間、親不知の圧倒的な自然美をお楽しみください。
「親知らず
子はこの浦の波まくら
越路の磯のあわと消えゆく」
あっという間に親不知は抜けた。恐れていたような痛みは全くない。写真を見ると凄く痛そうにしているが、あれは恐怖のあまりああいう顔になったらしい。
ここで、抜けた親不知の写真をアップで掲載したいところであるが、大きな虫歯があったりしてとてもグロテスクなので自粛した。
親不知を抜いた達成感に包まれて、僕は親不知の駅に降り立った。夜は親不知観光ホテルに部屋を予約していた。駅までホテルの人が迎えに来てくれる。
駅からホテルに向かう間、車を運転する支配人さんに向かって親不知を抜いて来た事を得意気に話した。支配人さんは「あいやー」と言って驚いた。親不知を抜くためだけにやって来た人は初めてだ、とも言っていた。抜いた親不知を見せようかと思ったが、運転の邪魔になりそうだったのでやめておいた。
部屋に帰ってからもずっと抜いた親不知を眺めていた。こんなに充実した気持ちになるのは本当に久しぶりだ。これを奇麗に磨いてネックレスにしたい。それくらい自分の親不知が愛おしいのだ。
しかし、夕食の時間になり、それまでの親不知に対する思いが吹き飛んだ。
海の幸でいっぱいなのにお酒を飲んではいけないのだ。化膿止めの薬を飲んでいるからだ。
こんな海の幸を前にして、ウーロン茶しか飲めないなんて。
もし、親不知で親不知を抜きたいという人がいたら、前乗りして先に海の幸を楽しんでから、翌日に抜く事をおすすめします。
わざわざ親不知までやって来て本当に良かった。ヘタレな僕は、これくらいやらないと駄目なのだ。気がかりなのは右下の親不知であるが、これは上の親不知を抜いた事でしばらくは大丈夫なはずだ。
それよりも更に気がかりなのが左下の親不知である。今回のレントゲンで明らかになったのだが、嫌な角度で生えているのだ。これを抜くのはちょっと大変らしい。ああ、困った。
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