クッキーを受け入れるたびに胸の星の数を増やした
全て受け入れる、でっかい器でありたい。そんな思いからすべてのwebサイトのクッキーを受け入れてきた。
たくさんの受け入れたクッキーが血となり糧となり、私という人間を構成する要素となっている。もはや私はクッキーでできていると言っても過言ではないだろう。
一行、行間を空けてみると過言であることがわかった。申し訳ない。そして私はこんなにたくさんクッキーを受け入れてきたのだからたまには私のクッキーも受け入れてほしい。
だがここで疑問がわきおこる。私のクッキーとはなんだろうか。とにかく小麦粉でクッキーを焼くことから始めよう。
私もだてにインターネットに携わってきてない。小麦粉と卵と乳を使ってお菓子を作る記事を書いたこともある。これらはすべてクッキーのためにあったのだ。
「私のクッキー」とはこのような私の経験そのものかもしれない。私が受け入れてきた数々のクッキーもまたその経験の一つだろう。
クッキーを受け入れてクッキーを生み出す。クッキーとはインターネット上の契約なのかお菓子なのかと思っていた。だが今は連綿とつづく文化や愛のようなものをイメージしている。
受け入れがたいクッキーを目指したい
小麦粉と卵とバターを混ぜて焼くとおそらくクッキーが出来上がるだろう。あらおいしそう、とつままれて終わり。はい、私は受け入れられました。
そんなステラおばさんのようなイージーモードの人生でいいのだろうか…小麦粉と卵を練るとグルテンだけではなく一つの思いが育ちつつあった。受け入れがたいクッキーを作りたいと。
しらたきで受け入れがたさを
受け入れがたいクッキーを受け入れられる喜びとはどのようなものだろう。東大は入りがたいから合格するとうれしいのである。ならこのクッキーも東大くらい受け入れがたくしよう。
私はしらたきを刻んで入れた。クッキーからちょろちょろしたものが出ていたらきっと「受け入れがたい」と思うだろうから。
しらたきを入れた。考えてみれば毒を入れることだって可能である。だがそれは「受け入れがたいクッキー」なのだろうか。
受け入れがたいクッキーとは何かをイメージすると「明確に否定しないがなんとなく受け入れがたい」ものではないだろうか。
方向性は決まったので次は色と形である。
肝心の味はない
そして出来上がったクッキーを食べてみる。バターと卵黄と青汁(大麦若葉)、そして焦げなど味を左右する要素は多いのだが肝心の砂糖を入れていない。
砂糖の入ってないクッキーである。その一点だけでどこまでもぼんやりした食べ物が出来上がった。
クッキーを受け入れてもらおう
出来上がったクッキーを受け入れてもらうことにした。ここで問題となるのは私より関係性が下のものだと受け入れてしまうことだろう。サイバー世界ののびたもジャイアンのクッキーを「はい」とクリックしているに違いない。
年齢もキャリアも上の人にクッキーを提示すべく、デイリーポータルZの林雄司さんべつやくれいさんを訪ねた。
受け入れるクッキーを持ってきた人が汚い
家の近くまで呼び出されたべつやくさんは「それころんだの?」と聞く。ころんだ人が持ってきたようなクッキーを受け入れたいだろうか。そう、これも演出である。
受け入れがたいクッキーとは何かを考えた結果、持ってくる人の見た目の印象がよろしくないのではないかと考えたのだ。
ダメな配達員を目指した
どうすれば受け入れがたいクッキーとなるかを考えていたとき、SNSではウーバーイーツの配達員に対してのとあるコメントが流行っていた。「清潔感がなく、サンダルで、自転車が汚い」というものであった。
これだと思った。これはクッキーの受け入れがたさを示しているのではないか。早速取り入れた。
こういう人が持ってきた食品は嫌だろうね、という話を一通りしたあと肝心のクッキーを渡す。そしてウーバーイーツは序の口だったことがわかる。
一緒に入れられてるものがイヤだ
他にも一緒に入れられてるものを好ましくないものにした。その辺の草や雑巾やトイレ掃除の洗剤などである。受け入れがたさが醸成されてきた。
なかでも「これは特にイヤだ」とされたのは剥がされたシップである。そこに髪の毛がついていたのも一つの工夫だ。webサイトもクッキーを受け入れがたくするためにこのようなことをしているのだろうか。
そしていよいよクッキーのパッケージである。
受け入れがたいクッキーとは思想が強いものでは
どんなクッキーが受け入れがたいだろうかと考えたときに、思想が強いものではないかと思いあたった。たとえば大麻のことが書いてあったりコロナウイルスについて書いてあったりだとか。
人の考えはそれぞれであるし、その思想に染まるわけでもないのだがクッキーに書いてあるとちょっと主張が強いなとなるものである。
受け入れてもらう
そしてようやく受け入れてもらう。クッキーを受け入れる、それは受け取って食べるということではないだろうか。もっと言えば好きになって再注文するところまでいってほしいものだが…
はたして林雄司さん、べつやくれいさんはこんにゃくの入った手の形クッキーを再注文するのだろうか!?
なんなのか分からないものは美味しさがない
長くこのサイトでへんなものを食べ続けてきたが、安全性が保証されないと美味しさがやってこないものである。ましてやこれは味がない。
味がない、何が入ってるんだ、何が入ってるんだ、と繰り返す林さんとべつやくさん。
私達はwebサイトにクッキーを受け入れろと言われて素直に受け入れてきているが、その実態はなんだかわからない。ひょっとしたらそのクッキーはこういうものなのかもしれない。
そこには不安がたゆたうばかりである。
クッキーを受け入れられる気持ちとは何か
2人はあれこれと受け入れがたさを述べていく。その一つ一つはこちらも十分理解できるものだし、意図したものだからだ。
だけれども少しずつ私は傷ついていく。
私はどんなモンスターを産んでしまったのだろうか。罪滅ぼしとして原材料を一つ一つ種明かししていく。「こんにゃくか!」と細い繊維状のものを指して言う。少しはホッとしたようだ。
だが最後まで「味がしない」ことと「ナマなんじゃないか」という疑念は晴れないままであった。
ダメなクッキーを作って受け入れがたさに傷ついていく。これがクッキーを受け入れてもらう側の気持ちなんだろうか。
厳密に言うと受け入れられなかった
「今日はありがとう、お礼にこれ」と言って林さんからはノンアルコールビール、べつやくさんからはお手製のステッカーを頂いた。食べてもらってお礼まで頂いた。クッキーは受け入れられたのかもしれない。
だが残りのクッキーが持ち帰られることはなかった。聞けば食べきる自信がないそうだ。「わかりますわかります」と言ってお礼を言ってそのまま帰った。
その日、娘と銭湯に行って今日の銭湯も最高だったなと言い、進路について話をした。夕飯のあと巨峰の皮のあるなしで味が変わることを確認した。頂いたノンアルコールビールは飲んだことのない美味しさだった。
夜、寝床で秋の虫が鳴き始めたのを聞きながら、そういえばクッキー、受け入れられなかったよな、と思い出していた。それはとても道理なことで納得はしているのだが。それでも私のクッキーは受け入れられなかった。
そして歯車は逆に回り始めた
日々クッキーを受け入れている。そうしないと悪いような気がするし、それで損をしたこともないからだ。だけどたまには私のクッキーも受け入れてほしい。それは受け入れがたいものであるほど良いに違いない。そんな風に張り切って焼いた「受け入れがたいクッキー」は味がしないものであり、実際に受け入れられなかった。
いやはや、ステラおばさんというのは本当にすごい方です。
そんなのんき感想で終わっていいのか。私は明日からすべてのクッキーを受け入れないかもしれない。拒絶は拒絶を生む。そして私に拒絶されたクッキーはまた別の受け入れがたいクッキーを生むのだろう。
この最終行になってようやく「Cookie 受け入れない 危険性」で検索をしはじめた。ふとした思いつきで負の連鎖が始まったのかもしれない。