特集 2019年6月26日

大阪城は400年前の全国巨石見本市

大阪城は実家の近所なので、帰省中の散歩道。最近は商業施設も増えて活況だ。本丸まで登っていって、天守閣を見上げると、「帰ってきたな~」と実感する。

ただ最近、不思議に思うのは、おなじみの光景となった外国人観光客のみなさんが「見ているもの」。なぜか彼らは石垣ばかりを撮っていて、それを見ながら「マチュピチュ」がどうのと話している人もいた。それってあの空中庭園の?大阪城を見てなんでそれ??

調べると、大阪城は石垣こそがすごかった。むしろ本体かも。あれ、400年前に大名たちがしのぎを削り巨石を集めた『徳川主催全国巨石見本市』だったのだ。

1984年大阪生まれ。2011~2019年までベトナムでダチョウに乗ったりドリアンを装備してました。今は沖永良部島という島にひきこもってます。(動画インタビュー

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大阪城が"巨石の聖地"になったワケ

最初に歴史的な背景をざっくり説明。

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有名巨石(後述)の前で写真を撮る外国人観光客

時は1620年、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家は、西へ追いやった豊臣方の外様大名たちにある命令を下した。「豊臣がつくった大阪城完全にぶっ壊してもっかい城築くからジャンジャカ石持ってきてね」。首の皮一枚状態の彼らにとってそれを断る選択肢もなければ、むしろ今ここで忠誠を示さないとヤバイ!お家が潰される。

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瀬戸内海沿いは石の産地でもあり、また船による運搬に向いていた。

西の大名たちの財力を削る目的ともされた天下普請だったが、同時に大名たちは「活躍しなければ」と、自慢の巨石に家紋を刻んで送り込んだ。ほかの藩よりも良質で大きな石を優れた技法で!言ってみれば『徳川主催巨石コンクール』、64家の大名たちにより三期の工事を経て9年後に完成。地上に出ているだけでも50万、地下に基礎として同数あるなら100万に及ぶ巨石が集まった。

なんて知った風に書いてみましたが、このエピソードは『NPO法人大阪観光ボランティアガイド協会』のガイドの方からうかがった話に脚色したものです。そして、本題。この100万石の上位11位、競争倍率90,909倍を勝ち抜いたエリート巨石たちが今でも気軽に見られるという。実はこの巨石ランキング、大阪城の公式サイトにも載っている、知る人ぞ知る有名な番付らしいのだ。

そのランキングに沿って、巨石ぶりを見てほしい。

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以降、トコトン石の写真しか出てきません。
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巨石の聖地で巡る!大阪城巨石ランキング

では11・10位から。なんで10選じゃないのと思われた方にさっそく朗報。なぜなら次の行がその回答だから。

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11・10位が桜門を挟んで1セットなんです

■11位:虎石

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大阪城(天守閣)南に位置する桜門、その西側にある「虎石」。
虎石(11位)のデータ
  • 最大部:2.7×6.9(メートル)
  • 表面露出面積:18(平方メートル)
  • 推定重量:約40トン
  • 推定産地:備前・沖ノ島
  • 場所:桜門西側

※以降すべてのデータは大阪城公式サイトからの引用

 

■10位:竜石

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一方の桜門東側にある石が「竜石」です
竜石(10位)のデータ
  • 最大部:3.4×6.9(メートル)
  • 表面露出面積:23(平方メートル)
  • 推定重量:約52トン
  • 推定産地:備前・沖ノ島
  • 場所:桜門東側

このふたつの石、桜門を挟むように1セットなんです。わざわざ竜虎から名前が付けられているあたり、そこを意識してなのだと思う。なのでこれが9位と10位だったら10選とキリよくまとめられていたことでしょう。

ちなみにこの石、なぜか怪談もたんまり載ってる江戸時代の大阪城ガイドブック『金城見聞録』(年・作者不明)には「雨が降ると竜虎の模様が浮かび上がる」と書かれていますが、十中八九脚色です。作者のちょっとした茶目っ気が現代まで伝わっているのもなんだか愉快。

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金城見聞録(大正3年の写本)で描かれた竜虎の絵、ぜったい嘘だわ。

 

■9位:桜門四番石

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ここから比較で私が立ちます(竜石虎石は忘れてました)
桜門四番石(9位)のデータ
  • 最大部:6.0×5.0(メートル)
  • 表面露出面積:26.9(平方メートル)
  • 推定重量:約60トン
  • 推定産地:備前・犬島か前島
  • 場所:桜門を北に抜けた西側

そんな桜門を北へ抜けてすぐにあるのがこちら。あとでほかの石も紹介しますが、桜門周辺の巨石で四番目にデカイということで桜門四番石。でも9位でこれ、倒れてきたらか~るく死ねます。すぐ隣に6・3・1位があるのですが、ランキング的には順番がめちゃくちゃになってしまうのでそこは触れたいのをグッと堪えて後回し。

トリビアその1:徳川築城が判明したのは割と最近
大阪城は長らくの間「太閤さん(豊臣秀吉)のお城」と呼ばれ親しまれた。徳川が築いたのになぜ?というと、それが判明した時期が昭和34年と割と最近のこと。そのため今も豊臣のイメージが強く、いまだにそう思い込んでいる人も多い(というより私もずっとそう思っていた)。しかし判明当時の大阪人は衝撃だったろうな、大阪城から「あなたうちの子じゃないの」と言われた的な。それを言うなら「私はあなたの親じゃないの」か。

突然ですが、ガイドの方から教えてもらったトリビアをこんな感じでちょくちょく挟んでいきます、なぜなら本編では本当にひたすら石のデータしか出ないからです。

 

■8位:大手三番石

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いきなりデカくなった!
大手三番石(8位)のデータ
  • 最大部:4.9×7.9(メートル)
  • 表面露出面積:35.82(平方メートル)
  • 推定重量:約80トン
  • 推定産地:讃岐・小豆島
  • 場所:大手門東の左から三番目

大手門を東に抜けると、ここも桜門と同じく巨石群がある。門の近くに巨石を集めているあたり、「要所は立派に見せましょうね」という当時のひとびとの意思を感じる。事実、この巨石たちの正確な奥行きは分かっていないことも多く、それらしく見せる平べったい化粧板なのかもしれない。そうだとしても十分に巨石なのだけど。

トリビアその2:巨石をどうやって割った?
石垣をよく見ると、ミシン目のように均等な間隔を開けて溝のようなものが見られる。これは矢穴といってクサビを打ち込んだためにできた穴で、すべてに一斉に同じだけの力を入れることでキレイに割れたという。「(どこに力を入れるとキレイに割れるか)割り目を見抜く専門家もいたのだろう」とガイドの方。ただ、一方失敗する石もある訳で、それらは『残念石』と呼ばれている。また、それ以外にも、陸揚げ時に川や海に落ちたものは不吉だとされて、巨石でも残念石として数えられた。
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天守閣前でフィーチャーされている残念石、矢穴がハッキリと見える。
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看板も立てられず放置され、文字通り残念な残念石。

 

■7位:京橋口二番石

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植木で足元が見えずサイズ感がいまいち伝わらない
京橋口二番石(7位)のデータ
  • 最大部:3.8×11.5(メートル)
  • 表面露出面積:36(平方メートル)
  • 推定重量:約81トン
  • 推定産地:讃岐・小豆島
  • 場所:京橋口を東に抜けた北側
トリビアその3:巨石は昆布で運んだ?
石の産地は瀬戸内海沿いに点在していたことから、そのまま船に載せて浮力を利用して運ばれた。とはいってもどうしてもどこかで陸地を移動しないといけない訳で、どうしたか。一説には「昆布のぬめり」を利用して滑らせるように巨石を運んだものとも言われている(しかもその余ったものにより大阪の昆布ダシ文化につながったとか)。意外と、ピラミッドも昆布なのかもしれない。

 

■6位:碁盤石

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キレイな正方形だから「碁盤」石、高さが伸びました。
碁盤石(6位)のデータ
  • 最大部:5.7×6.5(メートル)
  • 表面露出面積:36.5(平方メートル)
  • 推定重量:約82トン
  • 推定産地:備前・沖ノ島か北木島
  • 場所:桜門を北に抜けた西側
トリビアその4:豊臣大阪城は池に沈んでる?
沈んではいないけど、貯水池の下にある。というのも、徳川は豊臣大阪城を埋め立てた場所の横に新・大阪城を建てたので、長い間に渡って豊臣大阪城跡地は何もない状態だった。そこに1895年(明治28年)に貯水池がつくられ、120年経った今でも大阪市内の3万を超える世帯に水を送っている。その周辺から豊臣大阪城の石垣が発掘されて判明した年が1984年、まさか池の下に本来の大阪城があったとは誰も思っていなかっただろう。
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そんな貯水池の看板
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すぐ近くで豊臣時代の石垣が発掘された

 

■5位:大手二番石/4位:大手見付石

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さっきから石垣の判別にちょっと苦労してる
大手二番石(5位)のデータ
  • 最大部:5.3×8.0(メートル)
  • 表面露出面積:37.9(平方メートル)
  • 推定重量:約85トン
  • 推定産地:讃岐・小豆島
  • 場所:大手門東の左から一番目
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またレベルが上がったなこれ
大手見付石(4位)のデータ
  • 最大部:5.1×11.0(メートル)
  • 表面露出面積:47.98(平方メートル)
  • 推定重量:約108トン
  • 推定産地:讃岐・小豆島
  • 場所:大手門東の左から二番目

5位と4位を同時に出したことにはワケがある。実はこの巨石、もとはひとつ。2016年3月、大阪大学と公益財団法人かながわ考古財団の共同研究により「ひとつの巨石を割ったもの」であることが判明(割と最近!)。これで産地の割れ目とペアリングすることで各々の石垣がどこから来たのか分かるかもと…四世紀の浪漫だな。

トリビアその5:石垣は城外にもある
あくまで現在の大阪城の外という意味ですが、豊臣秀吉の晩年に造られた三ノ丸がありまして。それはそれは範囲が広く、二の丸、本丸と合わせると現在の大阪城公園全体の4倍ほど。1614年の冬の陣にて徳川により埋められたのですが、それが1989年に発掘されています。
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オフィス街に石垣。"野面(のづら)積み"と呼ばれ、自然石を積むだけの当時の積み方。
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この石垣はここで発掘されたのではなく、三ノ丸で発掘されたものを移した。

 

■アスレチックと勘違いされがちな刻印石広場

いよいよ三位に入る前に余談、もう十分しているか。割るのに失敗した残念石の話はすでにした通りですが、まともな石もふくめ最終的にはどうしても余ってしまう。その石たちはどこに行ったというと、一部が大阪城内にある『刻印石広場』という場所に集められているのだ。

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石垣になれなかったものどもの墓場…
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でもちゃんとこの刻印はこの藩だって説明されています
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『中』は加賀藩前田家の刻印
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これも同じく加賀藩前田家
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これは説明板に載っておらず不明…かっこいいのにモッタイナイ!

専用の広場なので一見丁重に扱われているようだけど、集まりすぎると逆に存在感が薄くなるのは石の宿命か。結果、アスレチック広場と思われて、週末に行くとわんぱく少年たちが石から石へ飛び跳ねる遊び場となっている始末。実は私も小学生の頃は同じことをしてました、子供には史跡の重みは分からんのですよ…すみません。

と!いう訳で!3位から1位まで一気に。

 

■3位:振袖石

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振袖に形が似ているので振袖石、しかし植木で全体が見えず。
振袖石のデータ
  • 最大部:4.2×13.5(メートル)
  • 表面露出面積:53.85(平方メートル)
  • 推定重量:約120トン
  • 推定産地:讃岐・犬島か前島
  • 場所:桜門を北に抜けた西側

 

■2位:肥後石

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はいまたレベルアップ!加藤清正が持ってきたから肥後石、でも実は違うらしい。
肥後石のデータ
  • 最大部:5.5×14(メートル)
  • 表面露出面積:54.17(平方メートル)
  • 推定重量:約120トン
  • 推定産地:讃岐・小豆島
  • 場所:京橋口を東に抜けた西側

 

■1位:蛸石

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ふしぎと立ち姿も一番きれいに
蛸石のデータ
  • 最大部:5.5×11.7(メートル)
  • 表面露出面積:54.93(平方メートル)
  • 推定重量:約130トン
  • 推定産地:讃岐・犬島か前島
  • 場所:桜門を北に抜けた北側

1位と2位、一見すると順番逆じゃない?というサイズ感なのですが、よく見ると2位の肥後石は上下に細めの石が挿し込まれてかさ増し感がある。純粋にひとつの石として見ればやはり蛸石がナンバーワンなのか。なお、蛸石はすごく分かりやすいネーミングでありまして…。

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左下に蛸がいるからです(横に倒れて上を見ている)、ほんとにそのまんま。

一見するとコーヒーのシミみたいに見えるが、このシミが400年前からずっとあるってことですよね。そう考えると石って本当に形が変わらないんだなーとしみじみ感じ入ります。なお、この蛸石こそが冒頭にも載せた、外国人観光客人気の巨石。最大サイズだからでしょうか。

 

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大阪城は400年前の全国巨石見本市

紹介した巨石をgifでつなぐと、こんな感じに。

rock-ranking.gif
こうして見ると仕事した気がする、撮ってくれた妹に謝辞。

今まで100回来てるかもしれない大阪城だし、この巨石も視界には確実に入っていたけれど、教わってはじめてこの存在感に気づいた。大阪城の石集めはたった9年間のことだけど、連日のように石を割っているものだから技法は瞬く間に進化して、時代により、また藩により、そのレベルはさまざまなのだという。参勤交代のための大名行列によって全国の交通インフラは整備されたと聞くけど、これは日本の石加工技術を高めたんだろうな。

以前、外国人の友人から「大阪城って新しい感じで歴史的なおもしろみがない」と言われたことがあり、当時は地元民ながら自分もそう思っていたので、とくに否定はしなかった。確かにあのペカペカした天守閣は、大阪城の象徴ではあるが、城としてならまだ88歳の若造だ。が、今なら言える。石垣はほら築四百年!すごく長い。

ちなみにこのコンクールでどの大名が貢献したかというと…備前岡山藩の池田忠雄、肥後熊本藩の加藤忠広、でした。というより、11選の8つが前者で3つが後者なので、そこはもう圧倒的だったよう。その結果、取り立てられたのかというと、そこまでは分からなかったけど。

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戦前の絵葉書にも今と変わらぬ振袖石が!
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改めて今の。右上を見るとよく変わらなさっぷりが分かる。

この絵葉書でも石垣を主役に据えているあたり、「大阪城は石垣がすごい」はずっと有名だったんだろうな。それがいつの間にか知る人ぞ知るものとなってしまった。みなさん、大阪城は石垣こそが本体です。石を見よう!

今回いろいろ教えてもらった大阪観光ボランティアガイド協会さんでは、個人・法人向けに10日前までにガイドの申込みが可能です。この記事には書き切れないことばかりで、「石垣の隙間に支えとして挿し込まれている鉄は出自が謎」「石垣の白い層は工業用水で堀の水をかさ増ししたときにカルキ成分で漂白された」などトリビア尽くしでした。もはや大阪人であれば義務ってレベルでガイドを受けてもらいたい。大阪城の見方が変わる。

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1位から11位までの石垣の早見表、ぜひぜひお使いください。

マチュピチュが大阪城そっくりだった

冒頭で外国人観光客がマチュピチュだと話していたが、後日妹から「マチュピチュほんまに大阪城そっくり!」と、テレビ番組を撮った写真を送られてきた。見た。

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ほんまや。逆に大阪城だろこれ。

取材協力:NPO法人大阪観光ボランティアガイド協会

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